竜の鱗 マトリフは魔王軍との戦いの後、療養のためにパプニカに滞在していた。暫くの間はベッドから動くなと言われ、退屈な日々を過ごしている。
そのマトリフの退屈をどこかで見ていたように、見舞客がやってきた。それはカールに帰ったはずのアバンで、ドアからではなく窓からやって来た。目を丸くさせるマトリフに、アバンは無作法ですみませんと小さく頭を下げた。
「なんだよ、もうルーラができるようになったのか」
「ようやく、です」
正面から城を訪ねれば過剰な接待に合うとわかっていたアバンは、ルーラを使ってこっそりとマトリフに会いに来たという。
ちょうど部屋にはマトリフしかいなかった。久しぶりの話し相手につい口が軽くなり、マトリフはとりとめなく言葉を交わした。暫くそうしてから、これは枕の下に隠している魔導書を渡す良い機会だと思った。
マトリフは魔導書を取り出して誰も部屋の外を通りかかっていないか耳を澄ませた。足音がないことを確認すると魔導書をアバンへ差し出す。マトリフは低く押さえた口調で言った。
「お前にやるよ」
「これは?」
アバンも小さな声で問い返す。
「ドラゴラムは知ってるか?」
「ドラゴラム。実在したのですか」
やはり知っていたかとマトリフは頬に笑みを浮かべた。
「この呪文の価値をお前さんならわかると思ったぜ。これはオレには扱えねえ呪文だ。お前はルーラも簡単に使えちまうんだから、ドラゴラムだって契約できるだろ」
「この魔導書はパプニカにあったのですか」
「いや、この国のもんじゃねえ。元はあのヨミカインにあったもんだ」
そう言うとマトリフはアバンの手に魔導書を乗せた。
「お前が持ってるなら安心だ」
沈んでしまったヨミカインに魔導書は戻せない。かといってこの魔導書は貴重であると同時に危険だ。悪用されれば大変なことになる。だからマトリフはこの魔導書を枕の下に隠して、世話を焼く神官にも触らないように言ってあった。信頼できる者が保管するのが一番で、アバンが適任者だ。
「この呪文はとても興味深い。契約が終わったら返しに来ますね」
「返さなくていい。ヨミカインはあのザマだしな」
「しかし、この魔導書はマトリフにとって大切なものなのでしょう?」
マトリフは目の前に立つ青年をまじまじと見つめた。余計な気を使わせまいと、あえてマトリフはこの魔導書を託した相手を言わないつもりだった。だがアバンに言われて初めて、マトリフはこの魔導書を他とは違う特別なものだと気付いた。
「それはガンガディアから渡されたもんだ」
「彼があなたに?」
「オレは使えねえって言ったのによ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う。お前にやればいいってさ。あいつもお前の能力を高く買っていたからな」
マトリフは自分が感傷的になっていると気付いて、ぶっきらぼうに寝返りをうった。そしてアバンを見ないまま手を振る。
「じゃあな。オレは昼寝する」
その数日後、アバンは言った通りに魔導書を返しにやってきた。魔導書は再びマトリフの枕の下へと戻され、やがてマトリフの怪我が治り、ベッドから起きて用意された法衣を着るようになってからはマトリフの懐が魔導書の定位置となった。
マトリフが国王の相談役に就いて暫くが経った。あれほど手厚く看病された恩を返すためにマトリフは相談役を引き受けていた。
ところがマトリフは既に王宮での生活に辟易していた。ある大臣から目をつけられたからだ。その大臣はマトリフが突然に相談役に就いたことが気に入らないらしい。その大臣は魔法の技術を認められて今の地位までのし上がってきた実力派らしいが、今では専ら城内での権力争いに夢中だという。マトリフはその大臣から日々小さな棘を向けられていた。その瑣末な嫌がらせをいちいち気にするほどマトリフは可愛らしい性格ではなかったし、やられたら何倍にもしてやり返していた。そのため次第に大臣のほうが苛立ちを露わにしていたが、同時にマトリフもこの国を去る潮時だと思っていた。
そんなある日、パプニカ城にとある知らせが届いた。パプニカ南西部の古代遺跡で魔物が暴れているという。
「そんな馬鹿な。魔物たちは魔王の邪悪な意志から解放された。今さら暴れたりしねえ」
マトリフは言ったが、例の大臣はすぐさま言い返してきた。
「ですがこうして報告があったのです。頭ごなしに否定なさるのですか」
もっともらしいことを言いながらも、その声に侮蔑の色が滲んでいた。大臣は国王に向き直ると丁寧な口調で言った。
「今すぐに魔物の駆除隊を送りましょう。人的被害が出る前に」
その口振りにマトリフは怒りを覚えた。大臣を睨め付ける。
「駆除だと。何様のつもりだ。魔物たちが暴れたなら何か理由があるはずだ。それを確かめもしねえで殺すのか」
「ではご自分で確かめたらよろしい。魔王軍と戦った大魔道士様の腕なら容易いことでしょう」
なるほど最初からそのつもりだったのかとマトリフは思う。この腰抜け大臣は面倒な魔物退治を押し付けたかったのだろ。
結局マトリフが魔物の調査を引き受けることになった。王が兵士を連れて行けと言うのも断り、マトリフは一人でヨミカイン遺跡へと向かった。
ヨミカイン遺跡についたマトリフは暫く警戒しながら辺りを歩いた。以前は魔物が棲みついていたが、今はその様子もない。拍子抜けするほど静かだった。
マトリフの足は自然と魔導図書館の方へ向いた。里を出てから幾度も足を運んだ魔導図書館は今は見る影もない。水面は澄んでおり、図書館の瓦礫が薄らと透けて見えた。
マトリフはふと懐に入れた魔導書を法衣の上から触れた。ガンガディアと出会ったのもこの魔導図書館だった。
マトリフはガンガディアのことを思い出すとき、どうしても苦いものが胸に広がる。マトリフはガンガディアを殺さねばならなかったが、彼自身を恨んだことはなかった。どうしたって魔族と人間は対立する。だがもしもお互いの立場が敵対していなければ、もっと違った関係を築けていただろう。
「マトリフ殿」
その声にマトリフは振り返る。そこにいたのはあの大臣だった。
「なんだよ、オレ一人に押し付けたんじゃなかったのか」
「いえ、心配だったので様子を見に来たのです」
「やっぱりあの報告はデマだったようだな。魔物なんていねえぞ」
「ははは、大魔道士様の強さに恐れをなして逃げ隠れているのでしょう」
嫌味たらしい口調にマトリフは口を曲げる。普段なら聞き流していた。だがこの場所に大臣がいることが何故か癪に触り、いつもの冷静さを欠いていた。
「無駄足をさせて笑いに来たのか」
「とんでもない」
大臣がゆっくりとこちらへ歩いてきた。薄ら笑いを浮かべている。どうせまた嫌味でも言うのだろうと、マトリフは気にもとめていなかった。
すると大臣が突然に呪文を撃ってきた。避ける間もなく真正面から受けてしまう。
「ぐぅッ!!」
至近距離から撃たれたベギラマの勢いのまま、マトリフは後方へと吹き飛んだ。
「貴様はここで魔物に殺されたと国王には報告しておく」
仰向けに倒れたマトリフは大臣の声を聞きながら空を見上げていた。不思議と呪文で受けたはずのダメージは殆ど無い。流石に殺意まで向けられて驚いたが、激しい怒りは湧いてこなかった。ただ引き際を見誤った自分に呆れていた。
大臣の足音が近付いてくる。とどめをさすつもりなのだろう。マトリフが体を起こすと、大臣は慌てて呪文を撃ってきた。そう何度もくらってやらない。マトリフは呪文を相殺した。
「それほどの攻撃呪文が使えるなら、お前も前戦にくればよかっただろ」
あの最終決戦の前にマトリフがパプニカに援軍を頼みに行ったときに、志願兵の中にこの大臣の姿はなかった。
「私は国を守っていた」
「そうかよ。じゃあオレを殺すのも国のためか」
「その通りだ」
マトリフは手加減のない呪文を大臣に向かって撃った。そのいくつかが大臣に当たる。大臣がキメラの翼で逃げ帰るのをマトリフは見届けた。これであの大臣はマトリフを盛大に悪役に仕立てるだろう。
マトリフはふと胸に手を当てた。焼けた法衣から魔導書が転がり落ちそうになったからだ。
「こいつのおかげか」
胸に直接受けたはずの呪文にダメージを受けなかったのは、この魔導書があったかららしい。ドラゴンを焼く炎ですら燃えなかった魔導書がマトリフを守ってくれた。
だが魔導書はマトリフの手の中で崩れた。見れば裏は黒く焼け焦げている。風が灰を攫っていった。ガンガディアの姿が思い浮かぶ。
「お前が守ってくれたのか」
応える声はない。だがマトリフはその魔導書を生涯手放すことはなかった。