陽が沈む2 常興は逸る気持ちを抑えながら貞宗の家へと向かった。夜の街は小雨が降っていたが構わずに歩く。暑くて脱いだジャケットを片手に通い慣れた道を歩けば、貞宗と一緒に暮らしていたあの頃のことを思い出した。常興は就職と同時に貞宗の家を出たが、今も頻繁に通っている。
家について常興は呼び鈴を押した。合鍵は貰ったままだったが、呼び鈴を押すと貞宗が出迎えてくれるので、つい呼び鈴を使っていた。
ところが、待っていても玄関は開かない。電気が付いているのは窓から見えていた。不思議に思っているとようやく鍵が開く音がする。玄関の戸が開いて貞宗が出迎えてくれたが、その表情は暗い。貞宗は顔を背けて何度か咳をした。
「すまんな……今朝から風邪っぽくて」
貞宗は口を袖で隠しながら言った。その声は掠れて随分とつらそうに聞こえる。すると貞宗は戸に手をかけた。
「移るといけないから今日は」
貞宗の言葉に常興は細い眉を顰めた。常興は閉めようとする戸を止めて、そのまま貞宗を家の中へ押し込んだ。後ろ手で玄関の戸を閉めて鍵もかける。
「常興」
常興は貞宗をそのままリビングへと連れていく。ソファには先ほどまで貞宗が寝ていたであろう毛布やクッションが形を残してあった。ソファにはジャケットが脱いで置いてあり、ローテーブルには食べ終えたコンビニの弁当があった。仕事から帰ってご飯を食べたまま横になっていたのだろう。
「薬はまだありましたよね」
常興は勝手知ったる他人の家とばかりに、棚にあった薬箱を開いた。貞宗がよく使う薬はストックがある。それをいくつか手に取った。
「まだ薬を飲んでいないんでしょう」
「いま飲もうと」
「楽な服に着替えて寝室へ行ってください。薬も持っていきますから」
常興はふとカレンダーを見る。身にまとわりつく暑さに、暦より早い夏を感じた。
貞宗はいつも夏に雨が続くと体調を崩す。それは常興が居候していた頃からだった。
貞宗はネクタイを解きながら不貞腐れた顔をしていた。
「あまり世話を焼こうとするな。自分が情けなくなる」
まだ寝室へ行こうとしない貞宗に、常興は体温計を押し付ける。その大きな目が潤んでいるところを見るに、もう熱が上がってきているかもしれない。
「いいじゃないですか。貞宗さんにはお世話になったんですから、今度は俺がお世話するんです」
貞宗は高校生だった常興をこの家に居候させてくれた。そこから大学卒業まで世話になったのだから、風邪の看病くらいで返せる恩ではない。
「年寄り扱いするでないわ」
すると小さな電子音が鳴った。体温計を見た貞宗が目を眇めている。やはり熱があったのだろう。常興は貞宗をリビングの隣の寝室へと追い立てた。そこは小ざっぱりした和室で、常興は勝手に押し入れを開けて布団を敷いた。
「ご飯は食べたんですよね。だったらすぐ薬を飲んで」
「わかった、わかったから。常興も仕事が忙しいんだから儂ばかりに構うな」
貞宗はスーツを脱いでスウェットに着替えている。常興はまだ体温に残るスーツを拾ってハンガーにかけた。
「俺は貞宗さんが心配だから来てるんです。それにやっぱり風邪ひいているじゃないですか」
貞宗はむくれながら薬を口に放り込んでいる。それでもやはり体がつらいのか、すぐに敷いた布団に入った。
「ただの風邪だ」
負け惜しみのように貞宗は言う。それは常興もわかっていた。しかし常興は昔から貞宗が体調を崩すたびに心配でたまらなくなる。まるで貞宗がこのままいなくなってしまうような、そんな心細さを感じるのだ。常興は手を握りしめる。
「風邪は万病の元と」
「わかっておる」
「わかってませんよ」
「な!」
貞宗が怒ったような顔でこちらを向く。貞宗が気が短いことも常興は知っていた。常興は貞宗のそばに腰を下ろすと、顔のすぐ横に手をついた。覆い被さるように顔を覗き込めば、貞宗は驚いたように目を見開く。
常興は貞宗の唇を塞いだ。唇が熱い。その心地を感じていると、すぐに手で押し返された。
「こら、移ったらどうする!」
貞宗は慌てたように手で口を押さえていた。常興はその手を掴む。貞宗の顔が先ほどより赤くなっていた。
「構いません」
「構え!仕事だって休めんだろう」
「だって貞宗さんが我儘で俺の言うこと聞かないから」
「なっ!」
「ちゃんと寝ててください」
それだけ言って常興は身を引く。常興はリビングを手早く片付けた。明日はゴミの日だったからそれもまとめる。
「貞宗さん、今日泊まりますから」
寝室に向かって言うが返事はない。常興が使っていた部屋は空いたままで、数日泊まれるほどの荷物も置いてある。
すると寝室から貞宗の小さな声が聞こえる。
「常興ぃ」
常興は寝室に顔を出す。すると暗い部屋の中で貞宗がこちらを見ていた。
「なんですか」
「一緒に寝ないか」
「それは駄目です。風邪が移るので」
「さっきの……あれはやったくせに」
貞宗はぶつぶつと文句を言いながら布団を頭まで被ってしまった。常興は布団のすぐ横に立つ。
「貞宗さんが治ったら寝ます」
「そのときは布団に入れてやらん」
「寂しいなら寂しいと言っていいんですよ」
「やかましい」
それっきり言葉は返ってこない。常興は屈むと布団の上に手を置いた。普段は驚くほど健康体で逞しい貞宗が、今はとても小さく思える。
やがて寝息が聞こえてきた。常興はそっと貞宗の横に寝転がる。その体を抱きしめたくて、常興はそっと腕を回した。