ずっと一緒にいるために 瘴奸が貞宗の部屋に向かっていると、ちょうど常興が部屋から出てくるのが見えた。外は酷い雨で出陣は控えている。薄暗い廊下には澱んだ空気が漂っていた。
瘴奸は貞宗の部屋に入ろうとしたが、先ほど見えた常興が気にかかった。薄暗い中でもわかるほど常興の顔は青ざめていた。何かあったのかと思ったが、慌てた様子はなく、貞宗の体調が悪化したなどの理由ではないのだろう。何か嫌な予感がして瘴奸は常興の後を追った。
「常興殿」
呼び止めても常興は立ち止まらなかった。声が聞こえていないかのように歩き続けている。
「常興殿」
瘴奸は常興の肩に手を置いて止めた。常興は驚いたように振り返ったが、瘴奸だとわかると表情を緩めた。常興は貞宗が倒れてから日々表情を険しくしていたが、今は顔色が青いものの、不思議と落ち着いた表情をしていた。
「ちょうど良かった」
常興の手には紙束があった。それは常興の字で埋められている。そこに並ぶ文字を見て瘴奸ははっとした。
「これは」
「貞宗様から預かった今後のことだ。もし、万が一貞宗様が……」
常興はそれ以上言葉を続けなかったが、それが貞宗の死後のことを書き示したものであることはわかった。後継や所領地についての文言が並んでいる。体調が回復する兆しが見えないなかで、意識がはっきりしているうちに残しておきたかったのだろう。筆が取れない貞宗に代わり、貞宗の言葉を聞きながら常興が書いたに違いない。
常興は紙に視線を落としながら言った。
「今から写しを作る。その写しはお前が持っていてくれないか」
「私がですか」
写しを作っておくことは問題ない。しかしそれを持つに相応しいのは瘴奸ではないだろう。順番で考えれば新三郎だ。それを常興がわからないはずがなく、では新三郎では困る理由があるのだろう。
もう一つ、瘴奸には気にかかることがあった。常興の表情だ。常興の表情からはこれまでのように張り詰めたものがなくなっていた。
「これはお前にしか頼めない」
「新三郎殿が見てはまずい内容なのですか」
今後の小笠原家について記されているなら、新三郎へのことも書かれてあるだろう。しかし貞宗が新三郎を蔑ろにするとは思えなかった。
常興は瘴奸の問いに答えなかった。常興の様子がおかしい。貞宗の死を恐れているのかと思ったが、それにしては緊張や恐怖といったものは見て取れなかった。むしろそれらが過ぎ去って凪いでいるように見える。しかしその目は暗かった。外の雨が激しくなり、叩きつけるような雨音が廊下に響く。
「常興殿」
まだ夏だというのに寒さを感じた。常興の暗い目が瘴奸を見る。
「万が一のときは、お前が新三郎を支えてやってくれ」
「それはどういう意味……」
言葉の途中で瘴奸ははっとした。貞宗が亡くなったとして、次期小笠原当主を支えるのは常興だ。ではなぜ新三郎なのか。それは、常興が貞宗の後を追う気でいるからではないのか。
「馬鹿なことを!」
瘴奸は常興の胸ぐらを掴むと頬を平手で打った。常興は暗い目のまま何の反応もない。
「そんなことをして新三郎殿がどう思うかわからないのですか!」
常興は自分が死んだら新三郎が遺言どころではないとわかっているのだ。だからその写しを瘴奸に預けようとした。だが、死を選ぶことが新三郎にとってどれほど残酷なことか一度でも考えたのか。
「……私はどこまでも貞宗様の共をする」
「まだそんなことを……大殿も常興殿だから任せられるのだと思わないのですか」
常興の手から紙束が落ちた。常興と瘴奸の声に郎党たちが集まってくる。その中に新三郎の姿があり、常興の胸元を掴む瘴奸を見て飛んできた。
「兄上を離せ!」
新三郎に突き飛ばされて瘴奸は常興から手を離す。新三郎は常興の頬が赤くなっているのを見て、瘴奸を睨んだ。
「そいつを捕えろ!」
新三郎が周りの郎党に叫ぶ。しかし郎党たちも瘴奸の強さを知っているからすぐさま飛びかかってはこなかった。
「やめろ新三郎。なんでもない」
常興は言うが頭に血がのぼっている新三郎は聞かなかった。腰の刀を抜くと瘴奸に向ける。周りからどよめきが起こった。だが誰も止めようとしない。新三郎は刀の柄を強く握った。
そのとき、雷のような声が響いた。
「止めぬか!」
その声に誰もが身を震わせた。そこに立っていたのは貞宗だった。
「大殿」
貞宗は壁に手をつきながらゆっくりと歩いてきた。郎党たちが一斉に道をあける。貞宗は息を切らせながら常興の前まで来ると、足元に落ちた紙束を見た。貞宗は何も言わずに常興の肩に手をやる。
「部屋まで連れていってくれ」
常興は頷くと貞宗の体を支えた。さらに貞宗は瘴奸を見る。瘴奸は頷くと紙束を拾い集めて貞宗の後に続いた。
「新三郎も来るんだ」
新三郎は貞宗の一喝で冷静になったのか刀をおさめていた。新三郎も貞宗の横に立ちその体を支える。貞宗は一つ二つ息をつくと、背を伸ばして声を張り上げた。
「皆も聞けい。今が踏ん張りどころぞ。小笠原の名に恥じぬ戦いをせい」
その声の力強さに郎党たちから声が上がる。揃わなかった足並みが揃うようだった。
貞宗はすぐに部屋に連れていかれた。褥に寝かせられる貞宗は力を使い果たしたように目を瞑っている。常興がその手を握り、新三郎が手拭いを水に浸して絞っていた。
瘴奸は自分たちが薄氷の上にいるのだと気づいた。小笠原家の郎党の結束は硬いが、それは貞宗が繋ぎ止めているからに過ぎない。貞宗が居なければすぐさま脆く崩れはじめるだろう。
瘴奸は手の紙束を見つめる。そこに未来はなかった。貞宗がいない先は一条の光もないただの暗闇である。瘴奸は自分も脆い一部であるとわかっていた。