誘惑「ノーマン」
オットーの声は優しかった。まるでいつまでも泣き止まない幼子に話しかけるように落ち着いた声音だった。
「君が好きなものを選んだけど、どれがいい?」
オットーはピンクの箱を開ける。そこに並んだドーナツたちは、カラフルで陽気で過剰なカロリーの塊だった。箱と同じ色のチョコレートがべっとりとかかったものを、オットーは持ち上げる。
「これは私のおすすめだが、どうだい。食べに来ないか?」
オットーが声をかける先は暗い部屋だった。カーテンは全て閉め切っている。空気は澱み、埃も舞っているだろう。その部屋の中央に置かれたベッドにノーマンは潜り込んでいる。何日も。ノーマンやオットーが別の世界へと行き、帰ってきてからずっとだ。
オットーはドーナツを箱に戻した。どうやらこの誘惑も失敗らしい。
「昼からはハリーが様子を見にくるって。彼に心配をかけたくないだろう。起きて朝食を食べて熱いシャワーを浴びたらどうかな」
その声にもノーマンは応えなかった。ノーマンはブランケットに包まったまま、どこかをぼんやりと見ている。その目からは時折涙が流れていた。
ノーマンは後悔と罪悪感に苛まれていた。別の世界でしてしまったことは、向こうのピーターだけでなく、ノーマンをも深く傷つけた。
「ノーマン。今日はいい天気だよ」
オットーがいる部屋からの光が暗い部屋に差し込む。わずかにノーマンの顔が見えるが、ノーマンの目はもう誰も映していなかった。
ノーマンからゴブリンは消えた。それは喜ぶべきことの筈だった。邪悪な分身。別の誰かに思考を操られる辛さならオットーにもわかる。自分が自分でなくなる恐怖は、存在の消滅にも似ていた。
だがオットーには変わらずアーム達がいる。制御さえできていれば、彼らはかわいい助手たちだった。
だがノーマンからゴブリンは消えてしまった。はたしてゴブリンとは、ノーマンにとってどんな存在だったのか。いや、ゴブリンこそ、ノーマン・オズボーンの核となる存在ではなかったのか。
思い返せばノーマンは昔から魅力的で才能に溢れ時に無邪気で、そして傲慢だった。自分の才能の使い道についてオットーと意見は異なり、ノーマンはそれを使って富を築いた。だが、それはゴブリンがノーマンを操ったからではない。ノーマンがはじめから持っていたのだ。弱さも強さも。正しさも誤ちも。
ノーマンの目からはまた涙が零れ落ちていた。今のノーマンは抜け殻のようだった。このままノーマンすら消えてしまうのではないかとオットーは思う。だからオットーは呼びかけ続けた。この世界へと留まってくれと誘い続ける。
「ノーマン」
この声はまだ聞こえているだろうか。