下拵えは万全に。僅かに口の端から息が漏れ、もっとと強請ろうと首に手を回しかけた時だった。
不意に顔を離され、何故か分からずに目を開ければハララさんがボクを心配そうに見つめている。
どうしたんですか、と問おうと口を開けた時だった。
ピリッとした痛みが唇に生じる。
触れば指先に血が付いていて、でも理由はわかっているので「あぁ」と声を漏らせば「歯が、当たったか?」とハララさんは珍しく少し動揺交じりの声を漏らした。
「違いますよ、最近乾燥しているせいか唇がよく切れるんです」
血を指先で拭って、さて続きをと向き合った時だった。
「待て」
……ハララさんはよくボクに対して「待て」と言うけど、まるで犬に聞かせるように言う。
手を顔の前でかざしたままベッドから降りる姿に唇を尖らせれば、また仄かに唇が痛んだ。
そんな事しなくてもちゃんと待てるのに、床にしゃがみこんでいるハララさんの背中を見つめれば「あった」とカバンの中から出した物を此方に投げた。
咄嗟に投げられたものに手を伸ばして受け取れば、ころんとした丸いケースが手中に収まる。
「……なんですか、これ」
見た事がない容器だ、と確認すれば側面にはリップバームの文字。蓋を回して中を見れば、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「塗って保湿すれば直ぐに良くなる」
ハララさんがベッドに座り直しリップバームを指先に取ると、ボクの唇に指先を滑らせた。
沁みるかと思っていたが塗られても痛くない。
優しい手つきでゆっくりとバームが塗られていき、スっとハララさん長く白い指先が離れるとそれを目で追ったボクを見て、笑った。
「そんなに物欲しそうに見ても、今日は駄目だ」
キスをすればバームがとれる、ハララさんが容器の蓋をボクに渡す。
「使い切ったら言ってくれ。
また買ってくる、それまではキスをしない」
残酷な言葉を言われて「ハララさん」と顔を上げた。
キスをしないって、そんな。眉を下げたらハララさんは少し笑って。
「カナイ区で買ったから、千二百シエンだ」
と、金額を提示された。
そんな高いリップバームを、とか。
治るまでキスをしてくれないんですか、とか。
色々言いたいことがあったのに、口を開けばピッ、と唇の端が切れて何も言えなかった。
そこから地獄の日々だった。
早く治れと思わず多めに指に取って塗りたくれば「それは意味がないだろう」と怒られ、更にハララさんからキスをしてくれないならボクからしようとしても阻まれる。
何度読んでいた新聞にキスをしたか、覚えていない。
手で阻んだ時、そのまま続けて手のひらにキスをしてしまってからは無機物で制されるようになった。
触れたいです、と言えば「ほら」と片手を伸ばして抱きしめたり、頭を撫でてはくれたがボクはキスがしたかった。
頬だけ、と顔を上げて強請るも、「まだ治っていないから駄目だ」と首を振られる。
朝塗ってはキスをせがみ、夜塗っては添い寝をせがむもハララさんは首を振るだけ。
いつの間にか添い寝すらさせてもらえない。
デスヒコくんから「縦塗りの方がいい」と教わって、指先を縦方向に滑らせれば指先が口に入り、甘い香りの割にはよく分からない味が広がる。美味しくはなかった。
何時になれば無くなるのかと一向に減らない内容物を呪った。日に日に良くなるはずだが、口の端に出来ているせいか口を開けばまた切れてを繰り返す。
一生治らないんじゃ……とすら思いながら塗って、数十日が経った。
あっ、と思わず洗面台で声を漏らした。
リップバーム容器の底が見えたからだ。
もうすぐ無くなるんだな、と端に残ったのを掬って唇に乗せる。
鏡を見ればあの時の皮が捲れた唇ではなく、触ればふにっとした感触が指に伝わるくらい柔らかくなった。傷も治っていて、大きく口を開けても切れない。
それでもまだリップバームはあと数回分くらいはある。
治ったらキスをしてくれる、その為だけに朝も夜もお預けを喰らっては塗り続けた。
無くなったらとは言っていない。
だからこそ、まだ無くなってないからとキスを阻まれたら。
背後から足音が聞こえ、洗面台の入口で止まっても振り返ることは出来なかった。
それでも鏡越しにボクの顔が見えたのだろう。
視線から逃れるように俯くも、背後から伸びてきた手がボクの肩を掴んで振り返らせる。
「治り、ました」
あれだけしたかったはずなのに、あれだけ自分から強請っていたはずなのに声が震える。
ハララさんの指先が、傷口だったところを触る。
もう痛くないはずなのに、触られた箇所がじんじんと熱く感じる。
するっと指先が頬を撫でて、耳を触る。
擽ったさに少し口元を緩ませれば「ユーマ」と名前を呼ぶ、優しい声。
顔を上げればようやくハララさんの顔が見え、名前を呼ぼうと口を開いた時だった。
ハララさんが少しだけ微笑んで、ボクの頭を撫でた。
「……ちゃんと待てが出来たな、ユーマ」
頭を撫でながらそう言われ、「ハララさん……っ」と呟けば「さて」と手を離した。
「ご褒美は何がいいんだ?」
嬉しそうに笑いながら聞いてくるので、顔が熱くなるのを感じながら小声でずっとしたかった事を呟く。
恥ずかしくなって俯きたかったが、それよりも先にハララさんの顔が近づいて、直ぐに離れる。
「……もう一回したいです」
前に強請った時は恥ずかしく無かったのに、どんどん脳が溶けていくような感覚に見舞われる。
「甘い、です」
思わず口に出せば「バームのせいか?」と笑ってもう一度、今度はボクの唇が柔らかくなったことを楽しむように深くキスをしてくれた。
バームは味がなかった、そう思いながら甘いキスをもっととせがむようにハララさんの背中に手を回した。
(了)