おかしい、ボクはリビングの椅子に座ったまま考える。いつもなら必ず起きているハララさんが、起きていない。
先程デリバリーで頼んだスープは冷めないように布を被せ、パンは乾かぬように袋に入ったままだ。
通常の恋人同士なら「朝だよ」と寝ている恋人の頬をつつく事は容易いかもしれないが、ボクは出来なかった。
ハララさんの部屋には、朝七時まで無断で入ると警報音が鳴り響き、目覚めたハララさんは思いきりコインを弾いてくる。
当時頬にはコイン型の痣ができて、その前は額、もっと前はと数えだしたらキリがない。
それに、如何に完全防音の部屋を買ったとはいえ、警報音で起こしてしまった機嫌はちょっとやそっとじゃ直らない。
一日中触らせてもらえない時がなによりもキツかった。
そんな事から、ボクはまだ部屋に入れずに机に置かれた時計を見ながら過ごしている。
ラジオから流れてくる時報が、時を刻んでいく。
『ただいま、午前七時をお知らせ…』
「ハララさん!!!」
時報を最後まで聞かずにリビングから廊下に飛び出し、念の為この前の依頼で貰った防弾ガラスのヘルメットを被って部屋の扉を開けた。
警報音は鳴らない、コインも飛んでこない。
ホッとしてヘルメットを脱ぐ、薄暗い室内でハララさんが起き上がっている姿が確認できた。
「ハララさん、朝ですよ」
遮光カーテンを開ければ、光が部屋を明るくさせる。
「今日はお寝坊さんの日ですね、コーヒー入れるので「……ユーマ」はい、なんです」
か、と振り返りながらハララさんを見れば
「んっ」
ボクに向かって、両手を広げていた。
まるで母親が幼子を出迎えるかのように、柔らかな笑みすら湛えて。
瞬間、ボクは床に膝をついていた。息も心臓も止まっていたのだ。
危なかった、いつからハララさんの探偵特殊能力は過去視から即死になったのか。
まぁ、過去視も即死も似たようなものか。とボクはベッドを見る。
長毛種の猫を思い出させるふわふわした長い髪は今は寝癖がついていて、また可愛い。
目線が定まってない辺りまだ眠いんだろうけど、きょとんとした可愛い表情でボクを見つめている。
両手は相変わらず前に伸ばしていて、来ないのか?と小さく言ったので堪らずその腕の中に飛び込んだ。
「どうしたんですか、ハララさん。
ご機嫌ですね」
ボクが手と髪に、更に顔にかかっている横髪を退けて頬にキスをしてもされるがままだった。
とろんとした瞳は何処か虚ろのままで、ボクの言葉にも「うん……」と反応しただけだった。
完全に寝惚けている、あまりの可愛さに何故スマートフォンを部屋に置いてきてしまったのかと悔やむ。
このままずっと眺めていたい気持ちだったが、「朝ご飯食べましょう」と頭を撫でれば無言のままボクの首に手を回した。
突如脳裏に過った言葉に、ボクは思わず固まった。
「まさか……デスヒコくん?」
こうも何も無いのに甘えてくるハララさんを、付き合って何年も経つが見たことがない。
となれば、デスヒコくんの変装に違いなかった。
実際、どんなに疲れて帰ってきてもハララさんは朝はボクより早く起きて、コーヒーを啜る。そしてリビングにやってきたボクに「随分と遅い起床だな」と揶揄ってくる。
いつから入れ替わっていたかわからないが、この甘え方をしてくることは絶対にハララさんでは。
「……ですひこ?」
「あっ、忘れてください!!」
ハララさんだ。
こんな情事中のような甘い声で仲間とはいえ他の男の名前を呼んでほしくない。太ももの裏に腕を回して抱きあげれば「ユーマ……」と耳元で名前を呼んで頬を擦り寄らせてきた。
もう朝ご飯なんかどうでも良く感じてきたが、折角デリバリーしたスープが冷めてしまう。
「続きはご飯食べたらしましょうね」
キスをすると、「ん……」と小さく頷いて少し微笑んだ。相変わらず目線は何処かぼんやりと遠くを見つめていた。
リビングのソファに名残惜しくも身体を下ろして「コーヒーをいれますね」と言えばゆっくりと机を見た。
「……コーヒー」
「はい、直ぐに持ってきますね」
待っててください、と頭を撫でてボクは台所に行く。
ハララさんが使っているマグカップを取り、粉を入れてお湯を注ぐ。
ドリップコーヒーの方が美味しいらしいが、ボクが作るとコーヒーの味が損なわれるようで、許してくれるのは小分けされたインスタントコーヒーのみ。
スプーンでかき混ぜてリビングに戻り「熱いので冷ましてくださいね」と言って渡し、ボクは横に座ってハララさんを抱きしめたあと、膝に頭を置いた。
もう一度寝惚けている顔を今度は下から見よう。そう顔を上げようとしたのに、頭の上に何かが置かれる。
重さと硬さで瞬時にそれがマグカップである事が理解出来たのでボクは動かないように身体を止める。
「危ないですよ、ハララさん……」
あまり話すと振動で落ちそうだ、小さな声で囁くように言えば「あぁ、すまない」と声が聞こえてくるが、マグカップは依然としてボクの頭に置かれたままだった。
「マグカップを置くには、やけに柔らかい机だと思ったよ」
「……え?」
顔は見えない、ただ上から落ちてきた声が刺々しくボクを刺してくる。
なんとか目線だけを上にすれば、少しだけ見えたマグカップの上の冷ややかな瞳。
先週、ハララさんがお風呂に入っている間にセンサーを切ろうと思って部屋に入ろうとした時に見たような、なにかを思い出すこの表情。
つい最近、見た気がする。
「……チベットスナギツネ」
「よほど借金が気に入ったようだな」
あれからハララさんがボクより遅くに起きることはない。いつもリビングの椅子に優雅に座り、熱いコーヒーを啜る。
「おはようございます、ハララさん」
「おはよう、ユーマ」
あのぽやぽやとした可愛いハララさんではなく、いつもの凛とした格好いいハララさんがボクに笑いかける。
これはこれで嬉しいけど、可愛いハララさんを撮らなかった後悔をし続けてからはスマートフォンを持ちながら起きるようになった。
最早あのハララさんは幻覚だったのかもと思い始めた頃、それはやってきた。
「おはようござい……」
朝、リビングに行ったらハララさんがいない。
勿論依頼に出かける日でも、なにか用事で出かけた様子は無い。
リビングに隠していた一眼レフを首に、ポケットに入れていたスマートフォンを手に持つ。
勢いよく振り返り、ハララさんの部屋に足を滑らす。
これはもう、頬をつんつんしても許されるのではないか。
これはもう、添い寝しても許されるのではないか。
「ハララさん!!」
扉を勢いよく開けた、瞬間隣の部屋から時報が聞こえた。
『ただいま、午前六時をお知らせします』
鳴り響く警報音。
ゆっくりと起き上がるハララさん。
防音だから隣には聞こえないけど、まず警報音を止める配慮。
「……ユーマ」
舌打ちすら聞こえてきそうなほど、苛立った声。
「おはようございます、ハララさん。
可愛いハララさんも良かったけど、いつものハララさんも勿論大好きですよ」
一眼レフとスマートフォンを廊下に置く、倒れた時に壊さないように。
弾かれたコインを見ながら、どうして今日に限って防弾ヘルメットを付けてこなかったのかと目を閉じた。
(了)