祝福の音歌が聞こえる。
聞き覚えのあるその音色に、鍾離はぴたりと足を止めた。手には不卜廬の紙袋。これから往生堂へ帰ろうと、石造り階段に足をかけたところだった。
「・・・公子殿?」
この歌を知っている者が、鍾離には彼の他に思いつかなかった。鍾離自身、これはスネージナヤの歌だと彼に教えて貰ったのだから。鍾離はくるりと方向転換して、歌が聞こえるほうへ向かった。
不卜廬のすぐ脇、建物の傍らから聞こえる歌を追っていくと、思った通りの人物がそこにいた。石の欄干に背中を預け、如何にも愛おしそうな目をして手元の紙のようなものを眺めて、歌っている。
何と美しいものだろう。今から日が落ちようという璃月の街を背景に、彼の声は波が囀るかのようだ。
声をかけるのが憚られる、そう思って静かに眺めていると、タルタリヤはぱっと顔を上げて歌をやめた。そして、まるで糸にでも引っ張られたかのように、すうっと鍾離の方へ顔を向ける。あぁ、残念だ。バレてしまった。
「ちょっと、鍾離先生。見てたなら声かけてよ」
恥ずかしいじゃないか、と彼は目を泳がせた。何が恥ずかしいものか。普段のやんちゃな姿からは想像もつかないほど、完成された絵画のような光景だったというのに。
「珍しいところにいるのだな」
「ここ、あまり人が来ないし、風通しがよくて涼しいんだ」
不卜廬の建物で影ができ、高台で冷たい風が通る。確かに涼しい。
「それは、手紙か?」
「そう。俺の誕生日を祝ってくれる手紙」
ふふ、と笑いながら、タルタリヤは数枚ある手紙のうちの一枚を見せてくれた。一番無害そうな、子供の描いた絵だ。彼の末の弟が描いたものだろう。
独眼坊こと遺跡守衛や、璃月で覚えたらしい花が明るい髪色の人物とともに描かれている。これはタルタリヤだろう。その隣にいる小さな子供の絵は、テウセル自身だろうか。ギリギリ読める字で、兄の誕生日を祝っていることがわかる。
「なるほど。祝福だな」
そう鍾離が言うと、タルタリヤはまた恥ずかしそうに長い睫毛を落とした。
「やだな、よく覚えてるね」
「あぁ、先ほど歌っていたのは、故郷の祝福の歌なのだろう?」
あれは氷の女皇から元岩神へと贈られた品から流れるのと同じ音楽だ。それを祝福の歌だと鍾離に教えたのは、他ならぬタルタリヤだった。歌として聞いたのは初めてだが、置物から流れるそれよりもずっと美しく優し気に聞こえた。
確かに、この温かい手紙に相応しい歌だろう。まごうことなき祝福だ。家族の誕生日を祝うそれに、他意があろうはずもない。
「だが、お前の誕生日は確か・・・」
「あぁ、うん。今週の船が遅れてね。受け取ったのが今日の昼過ぎだったんだ」
「そうか」
そういえば、スネージナヤからの船が数日遅れている、と話が来ていた。無事着いたのなら、鍾離にも近く鑑定の仕事の依頼が入るだろう。
タルタリヤはもう一度、嬉しそうに手紙に目を落とす。末っ子が描いた以外のものは鍾離には見せてくれなかったが、タルタリヤへの家族からの愛が詰まっているのだろう。そう思うと、少しばかり妬ける。
「愛されているのだな」
家族から手紙が届く、という話は何度か聞いていたし、彼が家族に贈る品物を選ぶのを手伝ったことはあるが、こうして手紙を読んでいるところに出くわしたのは初めてだ。
「そうかな?」
「?」
「いや・・・、俺が家族を愛してるほどじゃないよ」
俺の勝ち、とタルタリヤは冗談を言う悪戯っ子と同じ顔で笑う。そして、手紙を丁寧に畳んで封筒に仕舞い込んだ。
本当は、家族に会いたかったのだろう。誕生日ぐらい、故郷に帰りたかったに違いない。だが、璃月に追いやられている執行官はそう簡単には帰郷できないし、何より誕生日のその日、彼は鍾離以外の人間とは会ってもいない。鍾離の壺の中にいたのだから。
「つまらない誕生日だったか?」
「えぇ、何で?」
「家族に贈り物をする暇もなかっただろう」
「まぁね。でも、悪くなかったよ」
「知らなかったとは言え、」
「はは、先生も結構根に持つタイプか」
「記憶力がいいからな」
「俺は、結構いい誕生日だったよ。先生に我儘聞いてもらえたしさ、のんびりできたし、人生で三番目ぐらいにはいい誕生日だった」
鍾離はぱちりと目を瞬かせた。人生で三番目とは、そんな高評価を貰える道理がない。あの日は、タルタリヤとともに壺に籠り、簡易的な手合わせをして、料理の腕を振るい、多少丁寧に彼を抱いた、その程度だ。
「あはは、面白い顔。ああいうの幸せって言うのかなって、ちょっと思っちゃったんだよね」
「来年は記録更新させてもらおう」
「お、すごい自信だ。来年も祝うつもりがあるなんて」
「お前がどこでどんな仕事をしていても、必ず祝いに行こう」
「超傲慢。言っとくけど、俺はありきたりなサプライズとか望んでるわけじゃないからね」
「あぁ」
鍾離は不卜廬の紙袋を小脇に抱え直し、そっとタルタリヤの手を取った。きょとん、と首を傾げる彼に向き直り、背中で周囲の視線を遮る。
そっと彼の薬指に口づけを落とすと、岩元素の黄金色がふわりと光る。それはすぐさま消えてしまい、タルタリヤの手には何も残らなかった。口づけすらも、一瞬の幻だったかのように。
「ちょっと、こんなとこで、」
タルタリヤはばっと手を引き、口元を抑えた。白い肌が目に見えて赤く染まっているのが愛おしい。
「祝福だ」
「岩神様からの祝福なんて、俺には重すぎるよ」
「今は凡人の鍾離だ。ほんの少し岩元素が扱えるだけのな」
「嘘つきの極みじゃないか」
本物の神の祝福など、彼が望まないことはわかっている。だから、本当に岩元素が少し扱える凡人程度のことしかしていない。おまじないに等しいだろう。ただそこに、恋い慕う相手への情が含まれているだけのことだ。
神の目を持つ者は神の祝福を得ている、という者もいる。それでいえば、彼は既に岩神以外の神から祝福されているのだ。それでも横取りという無作法な真似をしたくなるほど、この男を欲している。
「では、公子殿」
「うん?」
「今から家族のぶんを祝わせてくれ」
「え?先生が?」
「ご希望なら、旅人も呼ぼうか?喜んできてくれるだろう」
「・・・いいよ。若者の邪魔するほど大事にしなくったって」
決まり悪そうに言うタルタリヤに、鍾離はくすくすと笑った。
「ていうかそれ、仕事でしょ?お使いぐらいちゃんとしなよ」
それ、とタルタリヤは鍾離が持っている不卜廬の紙袋を指さす。確かに、中にはこれからの季節の葬儀に欠かせない防腐効果のある薬草が入っている。
「む・・・」
「鍾離先生は、家族の代わりとかかこつけて、俺とデートしたいんでしょ?」
タルタリヤはそっと手紙を懐に仕舞い込んだ。彼が大切にしている家族からの祝福すら奪ってしまいたいと言ったら、怒るだろうか。いや、笑うかもしれない。先生は知らないかもしれないけど家族との縁は切れないものなんだよ、と言うだろう。
「これを届けたら、すぐに迎えに行く」
「どこに?」
「銀行に帰るのではないのか?」
「俺、家族からの手紙が来た日は午後を休むことにしてるんだよね。余韻に浸りたいからさ」
「余韻・・・」
では、鍾離がいては邪魔だろうか。何もかも自分のものにしたいという傲慢さの中に、彼の愛するものを大切にしてやりたいという思いが混ざる。それは彼が愛おしいが故だということが、鍾離はまだよくわからない。
「急に迷子の子供みたいな顔するなよ」
「そんな顔をしていたか?」
「してた。テウセルもそんな顔する。しょうがないな。じゃあ、往生堂の傍の橋を下ったところで待ってるから」
もう少しだけあなたの祝福を頂戴、とタルタリヤはどこか懐かしむような、泣きそうな顔で笑った。