触れてみたい(ヒカテメ)食事の時間だから、テメノスを呼んできてくれとキャスティに頼まれる。テメノスの泊まる宿の一室の扉の前に立つ。
「テメノス?」
扉を何度か叩いても返事はない。
「失礼する」
そっと扉を開くと、鍵は閉まってはいなかった。部屋の中を覗くと、窓辺の椅子にテメノスが座っていた。部屋に足を踏み入れるとすぅすぅと、規則正しい寝息が聞こえてくる。
手元には開きっぱなしの本と書きかけの書物。恐らくなにかの作業中に寝落ちてしまったのだろう。そっと、その手の中の本に栞を挟んでぱたんと閉じる。
テメノスは眠っていた。ヒカリが近づいても彼は起きる気配はなかった。
テメノスは人の気配に聡い。
警戒心が強いからなのか元来の質なのか分からないが人が近づけばどんなに眠っていても彼はすぐさま瞳を開けて行動に移すぐらいの人間であったのに。野営の見張りのときなんか交代の頃に近づけば「おや、もうそんな時間ですか」とこちらが声をかける前に起きていたのに。
普段とは違い、ここは宿屋の一室。魔獣や賊との脅威を警戒すべき外とは違い襲ってくる敵もいないので油断しているのかもしれないし、それほど疲れているのかもしれない。
鍵も開けっ放しだった。テメノスにしては珍しく、不用心である。よからぬ輩が侵入してこないとも限らないのに。
窓から差し込む風がテメノスの頬を撫ぜていく。陽の光が差し込んで彼の顔を照らす。白銀の髪が月の光のように輝いてさらりと揺れる。肌は白いが頬はほんの少しだけ桃色に染まる。微かな産毛すらうっすらと輝いて見える。閉じられた瞼は髪と同じ色をした睫毛に縁どられている。
美しい。
さらさらと手触りのよさそうな髪だ。その手触りは知ることがないだろうが。
そういえば、彼の顔をこんなにも近くで見ることはあまりなかった。滅多にない機会に、ヒカリの中のなにかがむくむくと湧いてくる。
まだテメノスは眠っている。そっと、髪を一房掴んで離す。一瞬のことだ。誰かに見られてはいないかと。思わずあたりを見渡す。ここには二人だけしかいないのに。
「…ん」
テメノスが小さく身じろいだ。起きてしまったかとヒカリは慌てたが彼はまだよく眠っていた。口から小さく零れ落ちたその声に唇を凝視する。
触れてみたい。
人差し指をテメノスの唇に近づける。そのまま柔らかい唇に触れて、親指で口を開かせれば白くて形の良い歯が見えるだろう。その奥からは赤い舌がきっと、見えてそこに自分の唇を重ねて……。
(!? 俺は一体、なにを…)
そこまで想像して、ヒカリは慌てて手を引っ込める。空気を割く音が鳴ったかと思うほどの勢いで。胸に手を当てる。心臓が、痛いくらいに鳴っている。鼓動が速い。
それでも、ヒカリはテメノスの唇から目を離せなかった。
眠っているのだから、少しぐらい触れても大丈夫だろう。髪とは違う。眠っている人間に勝手に触れるのはいかがなものか。いや、そもそも俺はなぜテメノスに触れたいと思っているのだ。
自問自答をひとり、頭の中で何度も繰り返す。
「テメノス」
「…っ…ん…」
よくよく眠っているのに悪いとは思いつつ、テメノスの細い肩に触れそのまま揺り動かす。
「んん…?」
ぱちぱちと、瞬きを数度繰りされる。ゆっくりと瞼が開いて翡翠色の瞳が覗く。ぐっすりと眠っていたのだろう。まだぼんやりとしたままテメノスがこちらを見つめる。
目があった彼はなにかを言おうと口を開いた。そのままそこに、自分の唇を重ねた。
「…っ」
想像していたよりもテメノスの唇はかさついていたが、柔らかくて、生温かかった。
一瞬のことだった。きっと時間にすれば秒にも満たない。始まりは終わりと同じく唐突だ。それでもヒカリにとってはその触れ合いは長いように思えた。
数秒ほど経ってから意識が覚醒したのか、テメノスがはっきりとした目線をこちらに寄越す。
「ヒ、カリ……? ど、どうして」
「すまない。そなたが眠っているところを見て、その唇に触れたいと思ってしまって…。しかし、寝込みを襲うなど武人としてあるまじき行動。卑怯だと思ってこうして起こさせてもらった」
ヒカリは自問自答の末に導きだした答えを馬鹿正直にテメノスの前で吐露した。
「は、はぇ」
テメノスの口から、今までヒカリが聞いたことのないような気の抜けた声が漏れる。
「寝込みを襲うのも、寝起きを襲うのもそう違いはないと思うのですが……」
「す、すまないっ! 嫌な気分にさせてしまって……」
勢いよくヒカリは頭を下げる。よく考えなくとも自分はとんでもないことをしでかしたのではないだろうか。
「あ、あなたはには、私の唇に触れない、という選択肢はなかったのですか?」
「……考えもしなかった」
テメノスが常よりも上ずった声で早口で捲し立てる。それについて、なにも申し開くこともできず、ただただ正直な気持ちを吐き出す。しばらくしてはぁ、と下げた頭の上から溜息が聞こえる。呆れられただろう。弁解の余地もない。
「あなたは、本当に……。真面目だとは思っていましたが、変なところで律儀というかなんというか……」
「弁解のしようもない」
「あの、それで私の唇に、その触れたいと思った理由をお聞きしても?」
「えっ、あぁ、そうだな……」
そう改めて問われると、分からなくなる。なぜそう思ったのか分からない。ただ、陽の光に照らされて眠るテメノスがあまりにも美しいと。愛しいと。そう思って。
「理由、というかただ触れたいと思ったのだ」
「はぁ?」
またテメノスから聞いたことのないような気の抜けた声がする。呆れられているのだろう。これでは通り魔となんら変わりはしない。
「すまない、テメノス。実は髪にも触れたのだ。その、手触りがよさそうで、美しいと思って」
「……そうです、か……」
長い間。沈黙が続く。やはり呆れられているのだろう。頭を下げたまま、テメノスの顔をまともに見ることができない。しかし、謝罪をするのならば彼の顔を見るべきだろう。
意を決してヒカリは顔を上げた。さぞ、自分を軽蔑した顔でテメノスはいるのだろう、と。しかし、予想とは違った。テメノスは真っ赤な顔をしたまま、自身の唇に触れていた。
「ヒカリ、貴方が本当に私に、触れたいと思った理由は分からないのですか?」
なぜだろう。胸が先ほどと同じく早鐘を打つ。
「う、うム…」
「……本当に?」
そう尋ねて、テメノスはヒカリの手を取る。鼓動が、さらに早くなる。テメノスに、この心臓の音が伝わってしまってはないかと。
指を絡ませられる。心臓の音が大きくなる。…否これはテメノスの心臓の音だ。
互いの心臓の音が重なって、どんどんと早くなる。
「ヒカリ」
指と指が絡まって、ぎゅっと握られる。顔がどんどんと近づいてくる。先ほどまであれほど焦がれていた唇から名が告げられる。ヒカリ、と言の葉を紡がれるたびに白い歯と赤い舌が見え隠れする。
「テメノス、触れてもいいか? そうすれば分かる気がする」
「えぇ、私もそう思っていました」
テメノスが目を閉じる。睫毛の一本、一本が見える。顎に手を添えて、指でそっと唇をなぞる。ふるりとテメノスが少し震えたのが分かる。ゆっくり、ゆっくりと近づく。互いの吐息がかかるくらいの距離だ。
ちゅ。
目を閉じる。そっと、優しく。触れた唇は先ほどよりも甘く感じた。
どのくらいそうしていたのか分からない。ゆっくりと、名残惜しいが唇を離す。
「テメノス……私はそなたを好いている」
「……どうやら、私もみたいです」
あなたに触れられてちっとも嫌な気持ちになりませんでしたから、と目の前のテメノスは頬を赤らめながら、目を反らしつつ微笑む。
「私もあなたに触れてみたい、触れて欲しい」
いいでしょうか? そう請う美しい人にヒカリは喜んで、ともう一度キスを贈った。