俺の許嫁殿(ヒカテメ)目が覚めた時、あたりは煙に包まれていた。
「大丈夫ですか?」
知らない人の声がする。目の前にいる人だろうか?伸ばされた手が見える。顔を上げると心配そうにこちらを見下ろす人がいた。
白くて、美しい人だ。緑色の布に包まれた服を身に纏っている。ク国では見たこともない服装だ。月明かりのような銀色の髪が揺れる。丸くて大きな、美しい翡翠色の眼がこちらを見下ろす。吸い込まれてしまいそうだ。
「…美しい」
「へっ」
伸ばされた手を握りしめ、真っすぐに見つめる。
「そなたの名は…?」
「テメノス、と言いますが…」
「そうか。テメノス……良い名だな」
「……はぁ、それはどうも」
「俺と夫婦にならぬか?」
胸が、鼓動が高まる。身体に、熱が帯びる。生まれて初めてのことだ。初めて、目の前の人を欲しい、と。一目惚れというものを経験した。
◇
ヒカリが摩訶不思議の舞による、その名の通りの不可思議な現象に巻き込まれてから数日が経った。不可思議な現象というのは身体が縮んでしまう、というものであった。
年の頃は10歳前後といったところだろうか。精悍な目つきは失われていないものの、瞳は大きく幾分か柔らかな印象が持たれる。頬は子ども特有の丸みを帯び、まだ声変わり前の声は知っている彼の声より高く、ひどくかわいらしいものだ。
ヒカリは幼くとも、利発である。見知らぬ土地、見知らぬ人々に囲まれているというのにまったく物怖じせずに、順応した。記憶は年の頃と変わらないみたいなので、彼にとっての未来にあたる今について、あまり詳しいことは言わなかったが。
いや、順応したと言ってよいのだろうか。
簡単に言うと、テメノスはヒカリに一目惚れされて求婚された。
「俺と夫婦にならぬか?」
「はっ?」
とんだマセガキ……いや、流石はク国の王子か、随分とおませさんである。求婚されたときに仲間たちがいたわけで。ソローネは爆笑し、あらあらまぁ、とキャスティは口を抑えた。きゃ~とアグネアは叫びだし、流石は幼くともヒカリだなとパルテティオとオズバルドはウム、と頷き、オーシュットは干し肉を食べていた。
「いや、えっと……。私達はまだ会ったばかりですし…、」
「一目見て、そなたに心惹かれた。そなたのような美しい者を今まで見たことがない。ずっと、側にいて欲しい。そなたを伴侶として迎えたい」
手を握ったまま、真っ直ぐにそう告げられる。その瞳に一瞬、絆されそうになるが慌てて首を振る。
「いや、そもそもあなたは子どもです」
「むぅ…」
「いいですか。私のような大人とあなたのような子どもだと、犯罪になる可能性もありましてね…」
「まぁ、いいんじゃないの別に」
どうせ、将来は……ね? ひとしきり笑ったあとにソローネがそう言えば、他の仲間たちもうんうんと頷く。確かに私とヒカリはいわゆる恋仲であり、仲間たちも公認の恋人である、ということは確かだ。
だからといって、私が好きなのはあくまでも今のヒカリ――大人になったヒカリなのだ。幼い彼ではない。
「分かった。今はまだ……ということだろう? 求婚はひとまず置いておいて、そなたを想うだけでも駄目だろうか。法が、そなたが許すその時に改めて願い入れたい」
そこまで言われてしまえばテメノスに断る理由もなかった。周りの仲間達の視線を感じながらぐぅ、と唸りつつテメノスは頷いた。
◇
「俺の許嫁殿を知らぬか?」
朝起きたらいなくなっていたのだと、目をこすりぽてぽてと、小さな足音をさせながら幼いヒカリはテメノスを探していた。
テメノスはヒカリの求婚を丁寧に断ったのだが、誰か……おそらくソローネだろう、が幼いヒカリに婚姻の約束をしている相手のことを“許嫁”と呼ぶ、と教えたようで。それ以来、幼いヒカリはテメノスのことを許嫁殿、と呼ぶ。
「あら、ヒカリくん。テメノスならあっちの水汲み場の方よ」
キャスティは屈んで、あっちよと指さして丁寧に教える。ヒカリはそれに礼を言って、水汲み場を目指す。
「ちっちゃなプリンス、あんたの許嫁なら向こうにいたよ〜」
ヒカリを見かけたソローネは尋ねられてもいないが、そう声をかけた。ありがとうとソローネにヒカリは手を振る。
「許嫁殿」
「はいはい、貴方の許嫁はここですよ」
遠くから自分を探しているヒカリが来ていることはなんとなく察していた。先程までいたオーシュットがちっちゃないいなずけがやってくるよ〜とわざわざ伝えてくれたからだ。彼女の耳にはテメノスを探すヒカリの声がきこえていたらしい。
最初は許嫁という呼び名に抵抗があったが今はもう慣れてしまい、開き直っている。
発端のソローネはもちろん、オズバルドまでもがテメノスのことをヒカリの許嫁と認識しているのだ。
「どうしましたか?」
「そなたの姿が見えぬから…」
屈んで幼いヒカリに目線を合わせる。少しだけ不安そうに瞳が揺れる。
「ごめんなさい。不安にさせてしまいましたね」
そう謝ればヒカリが勢いよく首を振る。
「いや、すまない。こんな……。水汲み、手伝おう。それを持てばよいか?」
「そうですね。では、ひとつ頼みます」
水が入った桶をひとつ手渡してやればうむ、と力強くヒカリは頷く。
「ふふ、私の許嫁は頼もしいですね」
微笑ましい光景にそうつぶやく。穏やかな日常も悪くはないとそう思えた。摩訶不思議の舞の効力もそうそう長く続かないだろう。
もう少しだけ。隣で自分の手をひく許嫁殿を目を細めて、眺めながらそう、テメノスは思った。
◇
「許嫁殿!」
「はい、あなたの許嫁はここですよ」
私の許嫁殿、と茶化したようにテメノスは笑う。この呼び名にもすっかり慣れてしまった。ヒカリはパルテティオと手合わせをしていたらしい。玩具の剣を片手にテメノスを手招きする。
「はいはい、どうしましたか?」
屈んでやれば、目を閉じて欲しいと頼まれる。
「? こうですか」
「動かないでくれ」
言われた通りに目を閉じれば、幼いヒカリの、小さな掌がくっついてきて、指が私に絡められたのが分かった。なんだかくすぐったくて、思わずふふ、と声を出して笑ってしまう。
「まだですか?」
「まだ、待っていてくれ」
吐息が、顔にかかったのが分かる。ヒカリの顔が近づく気配を感じ、素早く顔を背ける。
「駄目です」
寸でのところで掌で遮る。危ない。このまま唇を奪われるところであった。
目を開ければ、駄目か? としょんぼりした表情で、上目遣いでこちらを見る幼いヒカリがいた。
「ソローネ殿に教えてもらったのだが…」
…絆されそうになるが、首を横に振る。後でソローネは叱るとして。
こつん、と手に持っていた杖で幼いヒカリの頭をほんの少し、軽〜く小突く。
「駄目です。それに、不意打ちとは卑怯ですよ」
ぐぅとヒカリが唸っている。意地の悪い言い方をしたが、やっぱりそこは譲れない。
「ならば……」
今はこれで、と言ったかと思うとそのまま頬に柔らかく、ぷにと温かな感触。ヒカリが走り去っていく。
思わずそこに触れる。なんだか触れられた場所がひどく熱い。頬にじわじわと熱が集まっていくようだ。
「許嫁殿、顔が真っ赤だよ」
一部始終をどこからか見ていたソローネの言葉でようやく私は動き出すことができた。
◇
摩訶不思議の舞により、小さくなった日の夜。所在なさげにうろ、としてる彼を見た。
聡く、大人びた言動をするが中身はまだ子どもなのだ。見知らぬ土地、見知らぬ人々に囲まれて不安でなかったわけはないだろう。
目は微睡み、眠そうである。そんな幼いヒカリに私はそっと声をかけた。
「ヒカリ、おいで」
野営の天幕の中、簡易的な寝具を敷いたそこに手招きする。
「……っ…でも、」
目を彷徨わせ、遠慮がちにヒカリは顔を伏せた。彼の生まれや育ちを思えば、人に甘えるということが不得手なのかもしれない。そう言えば、成長した今のヒカリもそうだった。
「夜は冷えますからね。あなたが一緒に眠ってくれると温かくて、私が助かるのですが……」
一緒にここで眠ってくれませんか? そこまで言えばヒカリは大人しく私の懐へと収まる。小さな彼の身体を抱きしめてやれば、すぐに寝息が聞こえてきた。
その温もりを胸に、私も目を閉じた。
あの日から、夜は幼いヒカリと眠ることが日課となった。
野営地で、夜間に見張り当番のときは私の寝袋を使って先に眠っていてもらう。
私が床につくまで懸命に目を擦りながら起きようとしている幼いヒカリに、あなたには私の寝床を先に眠って、温めておいて欲しいのだと頼めばそれならば、と大人しく先に眠るようになってくれた。子どもの体温はひどく温く、私の身も心も確かに温めてくれた。
街に着いたのでこの前からは宿屋に宿泊している。
もちろん、私と幼いヒカリが同室だ。
ベッドは二つあったので、それぞれのベッドで眠っていた。久方ぶりの一人寝はなんとなく寂しいようなそんな心持ちだった。
夜になり、湯浴みを終え、静かに部屋に戻った。夕食の後、酒場で皆と少しだけ酒を飲み交わしてきた。ヒカリはアグネアとオーシュットと共に先に宿に戻っていた。
きっとヒカリはもう休んでいるだろう。
静かに机に向かって書き物をし、本を読み終え、すっかり夜もふけた頃にベッドに潜り込んだ。そのとき、声がした。
「テメノス……」
ベッドのそばの机のランプに灯りを灯す。
目を擦りながら幼いヒカリがそこに立っていた。
てっきり、もうとっくに隣のベッドでヒカリは寝ているのだとばかり思っていた。
「どうしましたか?」
眠れないのですか? ベッドから体を起こし、そう尋ねるとヒカリは首を振る。
「話がしたいのだ。そなたと、ふたり。よいだろうか?」
「分かりました」
テメノスはヒカリに向き直る。ベッドに腰掛ければヒカリは跪き、テメノスの手を取る。
「テメノス…俺の許嫁殿。初めてそなたを見たとき、なんて美しいのだろうとそう思った。母に本で読み聞かせてもらった。ク国の砂漠の泉に月夜にだけ現れるという大層美しい月の精がいるという。そなたを見たとき、きっと月の精はそなたのような姿をしているのだとそう思った。月明かりのような銀糸にずっと触れていたい。いや、こんな俺の知る限りの言葉で言い表すことはできない……。俺は、俺はただテメノスとずっと共にいたい」
「ヒカリ……それは……」
「分かっている。まだ、子どもだから。俺がもっと立派に大人になったときに、改めて申し入れたいと思っている。ただ……なぜかははっきりと分からないが、もうそなたとこのように言葉を交わすのは最後のような気がして……。もう会えなくなる。だから……」
手を取ったまま、跪き、子どもは求婚する。取られたままの手を私はじっと見つめるしかなかった。
「そなたにずっと、側にいて欲しい。離れたくない。結婚すればそれが叶うのだと…」
「ヒカリ……」
大人びた告白に交じる子どもじみた我儘のような願い。真摯に、真っ直ぐに自分を射抜くその眼差しはよく知っているものと何ら変わりはなかった。
「……恋人」
「?」
「皆が言っていて……。はっきりと聞かされたわけではないのだが……。テメノスには恋人が……好い人がいると……」
「俺では駄目なのか? その者はそなたを守れるのか?」
「えぇと……。そうですね」
そっと、幼いヒカリの額にかかる前髪を払い除けてやる。額にぴとりと手を当てて微笑む。
「そうです。私には恋人がいます。その人はとびきり強くて、剣の達人です。そして真摯で、いつも真面目で真っ直ぐで…。私を守ってくれる。私も彼を守ってあげたい。守る、だなんて烏滸がましいかもしれないけど彼はたくさんの大きな荷物を背負っている人です。それを私が側にいることで少しでも支えることができればいいと思っています。私が彼に与えられるものなんてほとんどないのかもしれないけれど、それらを全て彼のものにしてもらえれば、いいと」
「……そうか。………そなたにそこまで想われるその者が羨ましい…。だが、そなたがそこまで言うのならば素晴らしい御人なのだろう……。俺も負けられぬ」
「大丈夫です。あなたもきっとそんな人になれます。だって、」
私の恋人はヒカリ、あなたなんですから。
耳元でこそりと秘密の話のように、そっと囁く。
ばっ、と勢いよく真っ赤になった耳元を押さえ、こちらを目をまん丸くして見る幼いヒカリににっこりと笑う。
「私の恋人は大人になったヒカリです」
大人になったあなたは私達と旅をしていて、今は不思議な力で一時的に子どもの姿になっているようなのです。
「…?…そうか、そうなのか……」
「ごめんなさい。嘘をついていたわけではないのですが…。こんなことを言ったところであなたを混乱させるだけかと思ってまして」
「いいや、嬉しいぞ! それでも、やはり羨ましい。自分自身、だとしてもそなたにそのように想ってもらえている自分が」
だって、そなたが想っているのは子供の俺ではなく、そなたと旅をしていた大人になった俺なのであろう? と。
流石はヒカリだ。この子は本当に聡い。
「あぁ、でもね、ヒカリ。私、大人になったあなたには求婚はされてはないのですよ」
口元に指を一本立てて、内緒ですよと片目を瞑る。
「だから、今のあなたにとっての私は確かにあなたの許嫁、ですよ」
「俺の、許嫁殿」
テメノスの手の甲に恭しく、ヒカリが唇を落とす。
幼いヒカリは私の手を取り、私もそれに応え、手を握り返す。
指と指を絡めたまま、それから長いことお喋りをした。
テメノスの知らないク国のお話。彼が目指す、目標とすべき武人の姿。目を輝かせて、興奮気味に話すヒカリは年相応の子どもらしさを見せ、なんだか少し安心した。
「……ん」
かくん、と船を漕ぎだすヒカリの手をそっと握る。ひどく温くなっていた。眠いのだろう。
「……そろそろ寝ましょうか」
「ん、んん……」
ぐずる子どものようにいやいやと首を振るヒカリの背を、とんとんとあやしてやる。
「もう、おわかれなのか…?」
「あなたが眠るまで側にいますよ。それに、また会えますから…」
おやすみ、と。子どもを抱き上げて頬を擦り寄せる。
「テメノス……」
名を呼んだまま、眠りについたその額に口づけを落とす。おやすみのキスぐらいは許してもらえるだろう。
◆
真っ暗な中、そっと身体を起こす。身体は怠く、酷く眠気が襲う。
それでも、どうにかして目を開けた。
隣りにいる愛しい人。その腕の中からそっと身を捩って抜け出す。
離れた温もりが名残惜しい。
「さようなら」
でいいのだろうか。ひとりつぶやいてみるととても悲しくなってきた。
規則正しい、静かな寝息を立ててよく眠っている美しい人。僅かな月明かりに照らされて、銀色の髪はきらきらと輝く。
許して欲しい、心のなかでそうつぶやいてその人の唇に、そっと唇で触れてみた。
柔らかく、湿った、温かな感触はどこか生々しかった。
寝ている間に、こんなことをするなんて許嫁殿が知ったらきっと、怒るだろう。それでもいまは許して欲しい。
だって、この唇はどうせ自分のものだろう。
「おやすみなさい」
もう一度、つぶやいて目を閉じる。
うん。挨拶はきっとこれでいいだろう。別れの挨拶よりよっぽどいい。
きっとその後、彼におはようと言うのは紛れもない自分なのだろうから。
◆
カーテンの隙間から零れる朝日が眩しい。鳥の囀りも聞こえてくる。
まどろみの中からゆっくりと意識を覚醒させ、目を開ける。腕の中の人がもぞりと動く。
「…テメノス?」
ぼんやりとしたままの声と表情で不思議そうなヒカリがいた。幼いヒカリではない。テメノスと一緒に旅する、テメノスの恋人である成長したヒカリだ。
「……ここは? 俺はなぜテメノスの寝台に……」
「あぁ、戻ったのですね。あの子の言う通りだった。…ヒカリ、服は着てますか?」
「えっ!? あ、あぁ。ちゃんと着ている…ぞ?」
自身を見下ろしながら慌てたようにヒカリがそう言う。
「ふふ、ちゃんと服も伸び縮みするのですね。全く摩訶不思議とはよく言ったものです」
あくび混じりに笑えば、ヒカリは頭に疑問符を浮かべたまま首を傾げる。
「すまぬが…記憶が途切れているようで……」
「まぁ、それは追々、説明するとして……。あぁ、でもその前に」
おはようございます、ヒカリ。おかえりなさいとテメノスが挨拶をする。
「あぁ、おはよう。……俺の許嫁、殿……?」
そこまで口にして、不思議そうに自身の口元をヒカリは押さえる。
「はい、あなたの許嫁殿ですよ」
ころころと笑ってテメノスは、ヒカリに口づけを強請る。
啄むような口づけを交わし、最後に「あなた、求婚もしないうちに許嫁になっちゃいましたね」と悪戯っぽく囁いた。