口紅(ヒカテメ)コンコンとノックの音がする。どうぞ、と声をかければ扉がガチャリと開き、ヒカリが顔を出す。
「テメノス、少しいいか?…っ、すまない。まだ身支度中だったか」
「ヒカリ、おはようございます。構いませんよ。もうすぐ終わりますので」
鏡の前に立つテメノスが服を整えながらヒカリに挨拶をする。
「もう少しだけ準備が必要なので待っていて頂けますか?」
鏡台の前に座りなおしたテメノスが、懐からなにかを取り出す。それは黒い丸いものだった。掌に乗るぐらいの大きさで、不思議そうに見つめるヒカリに気付いてかテメノスが「紅ですよ」と蓋を開けて中身を見せる。中から赤い色が見える。
「ソローネくんに借りたのです」
指先で紅を取り、唇に乗せていく。テメノスの色のない唇が色づいていく。
「…あまりひどい顔色をしていると心配されるのでこれで誤魔化しています」
秘密ですよ、と色づいた唇の前に指を立ててテメノスが密やかに言う。ヒカリの眼にそれは痛々しく映った。
「…テメノス」
ヒカリが、テメノスの手を取る。テメノスの手は酷く冷たかった。
「眠れているのか?」
「……」
鏡を真っすぐ見たままテメノスは黙っていた。鏡の中の彼の唇が毒々ほどに赤く染まっていく。ヒカリがテメノスの目の下の隈をすりと指先でなぞる。
「眠れていないのだろう」
「そうですね」
ぱちんと、紅入れの蓋が閉められる。テメノスがゆっくりと立ち上がる。
「あなたは優しいですね。ヒカリも眠れていないのでしょう?」
あなたも酷い顔色だとテメノスが微笑み、そっと頬に触れる。そうして、そのままゆっくりと赤く色づいた唇を近づける。
ちゅ、と軽やかな音がして静かに唇が離れる。
「ふふ、これでちょうどいいですね」
「そうだな」
はみ出た赤を指で拭う。鏡に映るヒカリとテメノスの唇には揃いの赤が映っていた。窓の外は白んできて、夜明けが近かった。