あげない、とは言ってませんよ(ヒカテメ)ただいま、と玄関から声がしてしばらくしてリビングの扉が開く。
「おかえりなさい」
「ただいま、テメノス」
まだ寒さが残る2月。鼻のてっぺんを赤くしたヒカリがコートとマフラーをいそいそと外す。
ただいま、おかえりと言い合ってはいるが一緒に住んでいるわけではない。
私の住むマンションに大学が終わってからだったり、バイトの後にヒカリがやってくる。
大学とヒカリの一人暮らしのマンションとちょうど中間地点に我が家があるせいだが、どうしても出席しなければいけない講義が朝早くにあるから起こして欲しいだとか、講義の後にバイトへ行くには家に帰ってからでは間に合わないだとか(ヒカリは地域の剣道教室で先生をしている)そんなお願いを聞くのに泊まらせてあげて、時にはお礼だとか言ってヒカリが私の帰りを待ってご飯を作ってくれたりして。
いちいち近くのコンビニで買っていた新品の下着だとか歯ブラシだとかも、面倒でしょうしもう買って、私のところに置いておきなさいと言って、あれよあれよという間に彼の着替えだったり、私物が増えていっている。
ある時、私が忙しくて携帯を見ていなくて、ヒカリが家に寄る旨を連絡していてくれていた。おまけに残業で帰宅が遅くなった。
玄関の扉の前で、ちょこんと三角座りしてヒカリが待っていて心臓が止まるかと思った。雪もちらつくひどく寒い日だったのに。
そのくせ、ヒカリは私を見るとホッとしたように「よかった。なにかあったとのかと心配していたのだ」なんて。
私の手を取って、安心して嬉しそうに笑ったのだ。触れた手はひどく冷えていたのを覚えている。
(結局その後ヒカリは風邪をひき、休みの間私が看病してあげた)
それから合鍵を渡したのだ。家族以外で合鍵を渡すのなんて、ヒカリが初めてだった。
このときはまだ付き合ってはいなかったのだから驚くしかない。
まぁ色々あったが、これはいわゆる半同棲というものだろうか。
でも、こういうのも悪くはないと思っている自分もいる。
おかえりを言える相手がいることも、ただいま、と言ってもらえる相手がいることは心地が良かった。
◇
「あれ? ヒカリ、手ぶら…ですか?」
今日は2月14日、バレンタインデーだ。大学やヒカリのバイト先の剣道教室できっとチョコレートやお菓子をたくさんもらってくるものばかりと思っていたのに。
「ん?」
「いや、今日はほら、バレンタインじゃないですか」
尋ねればあぁ、とヒカリが頷く。
「貰っていない。断ったな。俺がもらいたい相手は、たったひとりだからな」
テメノスだ、と真っ直ぐな視線に射抜かれる。
この男は……眩しいほどに真っ直ぐで、憎らしいほどに澄んでいる。
彼が教えている剣道教室は小学生を対象としたものだ。そこには女の子も何人もいるだろう。なのに、馬鹿正直に断ったのか。
まったく、一体どんな顔をして……いや、きっとこんな顔だろう。
そう断られてしまえばきっと、誰もなにも言えまい。
「もしも、私にもらえなかったらどうするんですか?」
「そうなったら……」
目に見えてヒカリがしゅんと落ち込む。ないはずの犬の耳と尻尾がぺたんとしょんぼりとしているのが見えるかのようだ。
なんですか。まるで捨てられた子犬みたいな目で私を見ないで欲しい。
「テメノス」
「? ……っ」
ヒカリが私の口元へ指を、運ぶ。思わず開いた口から、トリュフチョコ差し入れられて溶けていく。
甘い。
その後、唇が塞がれる。ヒカリが舌先を私の中に入れて口内が熱さで、チョコが溶けていく。キスのせいかチョコのせいか分からないけれども、甘い甘い口づけだ。
ようやく唇が離れる。
「もらえなかったら、チョコよりも甘いものを頂こうか」
「あげない、とは言ってませんよ」
くるりとヒカリに背を向ける。
今日は、珍しくお休みを取ったのだ。
慣れない手作りのガトーショコラ。冷蔵庫にあるはずだ。本当はご飯のあとのデザートのつもりだったけどもう、渡してしまおうか。
手作りを失敗したときのために百貨店でちょっとお高めのチョコも購入済みだし、チョコが苦手だったときのためにちょっといいワインも準備している。
「あぁ、知っている」
くつくつとヒカリが笑う。近頃、来る度に甘い匂いが部屋中漂っていたから気づいていたのだという。
一生懸命練習していたのもバレていたのか。
「ヒカリのいじわる」
もう知りません、と頬を膨らます。さっきのしょんぼりした顔も、演技だったというわけか。
「そなたが用意してくれたものは全部欲しいのだが…」
つんつんと膨らんだ頬を指でつつかれる。そっちを、向けば駄目か? と上目遣いで見つめられてしまう。失敗したとき用のものもぜーんぶお見通し、ということか。
「ちなみにこれは俺からだ」
さっき口に入れられチョコを箱から出してヒカリが、見せてくる。淡い黄緑色をしていて私の目の色みたいだろう? と。
あぁ、もう分かりましたよ。
ヒカリの服の首の襟元を掴んで思いっきり引き寄せる。
「私にもください」
とびっきりの甘いやつ。そうすれば私が用意したものぜーんぶあげますから。
「あぁ、もちろん」
鼻先が当たってくすぐったい。甘いものすべてと、なによりも甘いそなたもいただこうと、ヒカリが低く囁く。
合わさった唇は、チョコレートよりも甘かった。