嘘を吐くから愛してるって千回言って「それじゃあ、おれが告白したことも忘れちまったんですかい?」
リーがドクターへの面会を許されたのは二十七番目だった。それが早いのか遅いのかはわからないが、ロドスに常駐しているオペレータの数を考えるならば優遇されていると考えるべきだろう。医療オペレーターに自分の番が来たことを告げられたリーは、扉の前で最後に一度だけ深呼吸をした。そして退出したニアールと入れ違いに病室への扉を開け、
「あ、リー。お見舞いに来てくれたんだ」
ベッドの上に、変わらぬ微笑を自分に向けるドクターの姿を認めた。湖に石を投げ込むように、広がる感情が胸を満たす。ささめきめいて広がり、自分の胸に空いた虚へと反響するそれが落胆なの安堵なのか、リーは名前を与えなかった。
ベッドサイドに置かれているパイプ椅子へと腰を下ろす。椅子の軋む音は、ドクターの身体に繋がれた機械から聞こえる電子音に混じって耳に痛い。
「もう仕事をしているんですか?」
ドクターの手にはタブレットがあり、テーブルの上には作戦資料と思われるものが広げられていた。あなたは怪我人でしょうに、という棘をはらんだ言葉に、ドクターはただ肩を竦めるだけだった。頭に巻かれた包帯の白さが痛々しく、消毒液と薬品の匂いは病的なまでの肌の白さを助長している。腕から伸びる点滴の管は鎖と何が違うのだろう。それは病人が治療に専念できるよう、ベッドへと括り付けておくためのものではないのか。
けれどドクターはなんてことのないように、「ケルシーたちが過保護すぎるんだよ」と頭を振った。
「もう動けるんだから、いつまでも休んでばかりいられないだろう? またカジミエーシュの方で動きがあったみたいだし」
成程、ニアールがここを訪れたのは、見舞いというよりは仕事という意味合いが強かったのか。勿論彼女の性格を考えれば前者の比重の方が重いのだろうが、しかしそれだけで話を終えることが許されるような状況ではないことは、ドクターの手にあるカジミエーシュ語の資料を見れば火を見るよりも明らかだった――この場合、見えているのは陽なのかもしれないが。
「随分と長いこと眠っていたからね。執務室のデスクの上がどんなことになっているのか考えたくもないよ」
「あなたの代わりに見てきてあげましょうか?」
「頼んでもいいかい? ついでのその片付けも」
そいつはさすがに御免こうむりたいですねえ――と、二人分の笑い声が病室に響き、室温をわずかに上げた。こうして穏やかに世間話が出来るということは、やはり。
「ところでドクター、一つ聞きたいんですが――」
リーが声のトーンを一つ落とすと、その声を聞き漏らすまいとするかのように、ドクターは耳をリーへと近づけた。それは意識してのことなのか、それとも無意識なのか。そこに広がる波紋の一つも見落とすまいと、リーはドクターの瞳を間近で見つめた。
「――今回の件より前の記憶を失くしたっていうのは、本当なんですかい?」
凍りついた冬の湖面に、石を投げ込んだようだった。いくつもの波紋が広がるけれど、それが湖面に映るもの、そして下に広がるものを見失わせる。
「誰から聞いた――って、アしかいないか……」
「あんまりあいつのことを責めないでやってくれませんか。おれが無理やり聞き出したんですから」
患者の情報を吹聴して回っていると思われては困る。ドクターは困ったようにリーを見て、わかっているよと声を和らげて答えた。
「そうだね。――といっても全部の記憶を失くしたわけじゃないよ。一週間くらいかな?」
初めの一言は真剣に。後半に行くにつれて、お道化たものへと変わる口調は、リーを安心させるためのものだった。
ドクターが乗っていた車両が襲撃されたのは、彼らが最後に会ってから三日後のことだった。襲撃犯は辛くも退けたものの、その戦闘はすさまじいものだった。誰も死ななかったことが奇跡みたい――と、ブレイズは語った。ドクターが乗っていた車両は爆散し、戦闘が終わった後は、元は石畳が敷かれていたというその場所は瓦礫が転がるばかりの荒野へと変貌していたという。死者が出なかったこと、それを奇跡だというのなら、それはドクターを守ってはくれなかったのだろう。
戦闘に巻き込まれたドクターは頭部に傷を負い、意識を取り戻すまでに三日が必要だった。けれど意識が回復してからも、面会許可は中々下りなかった。病み上がりであると言われたらそれまでなのだが――しかし。医療部に出入りしている彼の子どもは、とある情報を、彼に伝えた。
ドクターが再び記憶喪失になった、という。
「短期記憶の障害だよ。頭に強い刺激を受けたことで起こる症状の一つだ――そんなに大したものじゃない。自分が誰なのかも、何をすべきなのかも覚えているよ」
勿論君のことだってちゃんと覚えている、とドクターは微笑みかける。心臓が不随意に震えるのを感じた。
「石棺で目を覚ましてからしばらくのことはちゃんと覚えている。バックアップもあるしね」
「バックアップ……というと?」
ドクターは手元にある端末、PRTSを指で弾いた。
「日記だよ。PRTSに保存しているんだ。とはいっても今回の任務ではオフラインにしてたから、やっぱり直前のものは消失しているんだけど――」
ドクターは悔しそうに眉をひそめ、深々と溜息を吐いた。それは、リーが病室を訪れてから絶えず上機嫌に振舞っていたドクターがようやく見せた、本心の欠片だった。
「まあ、何があったかはみんなが教えてくれるから大丈夫だよ」
けれどもそれはすぐに笑顔の仮面に隠される。エクシアとはパーティをする約束をしていた、ポデンコとは任務が終わったら庭園に花を見に行く約束をしていた――と、ドクターは指折り数える。
「もしかして、リーがここに来たのもそのためなの? 何か約束をしていた?」
何か奢る約束でもしていたのか、と。ドクターはリーの瞳を覗き込む。その底には何も沈んでいないことを、純粋な疑問以外には何もないことを確かめてから、リーは。
「約束、ってわけじゃあありませんがね――」
病室が禁煙であることをここまで呪ったことはない。煙草の一本でもあれば、気も紛れただろうに。しかしここまで来た以上、腹をくくるしかなかった。一世一代の大勝負、全てをかけた博打に。
「それじゃあ、おれが告白したことも忘れちまったんですかい?」
「――は?」
ぽかん、とドクターが口を開ける。今ならまだ、取り返しがつくだろうか? 冗談だと、揶揄っているのだと言って。ドクターは怒るし、信頼を損なうかもしれないが、しかし許してくれるだろう。今ならば、まだ。
だから、それを理解した上で、リーは言った。
「告白したんですよ、おれは。あなたに。付き合ってくれませんか――ってね」
今やドクターは、完全に静止していた。凍りついた冬の空のように。呼吸さえ止まっているようだった。だからリーは手を伸ばし、その頬に触れた。そこに血が流れていることを、体温があることを、ドクターが生きていることを確かめたリーは、深々と息を吐いた。
「ねえ、ドクター。おれは、あなたのことが好きですよ」
「あなたは――どうですか?」
ドクターが再び動くまでの三秒は、永遠よりも長く感じられた。わたしも、と消え入りそうなほどに。
だからドクターは気づかなかったのだろう。リーが嘘をついているということに。
最後に会ったときに。リーはドクターに、告白などしていない。
だからこれは嘘だった。彼が、ドクターを手に入れるための。恋人という、特権的な立ち場を手に入れるための。
「君のことが、好きだよ」
こうして、稀代の噓つきは、何と引き換えにしても欲しかった居場所を手に入れた。
ドクターの隣、何かあった時に呼ばれるのが二十七番目などではない居場所――恋人という席を。
***
会う前に最後にもう一度だけ、鏡の前に立つ。髪は乱れていない。曲がった襟を整える。この前会ったときは、シャツの襟にインスタント麺の汁が跳ねていたのだ。彼に笑われたとき、顔から火が出るほど恥ずかしかった。平然を装ってはいたけれど、きっとそれも見透かされていたのだろう。ドクターは鏡に映る自身に瑕疵がないことを確かめてから、待ち合わせの場所へと歩き出した。今日は数か月に一度、面談のためにリーがロドス本艦を訪れる日だった。歩きながらずっと、ドクターの頭は何を話すかとは別のことで一杯になる。ラナに調合してもらった香水は、彼も気に入ってくれるだろうか? ロベルタが選んでくれたリップは? スージーに髪も整えてもらった。服装は代わり映えしないけれど、きっとこの前よりも――
「あぁ、ドクター。お疲れさんです」
前方で、誰かがドクターに見飼ってひらひらと手を振っている。背の高い影は見間違えようもない。高鳴る心臓を押さえつけながら、努めて冷静に、ドクターは手を振り返した。
「やあ、リー。お疲れ様。待たせた?」
「いいえ、今来たところですよ。あ、そうだ。ドクター、腹は減ってますかい? 龍門の土産を買ってきたんです。相談しながら、一緒に食べるってのはどうですかい?」
勿論茶ならおれが淹れますよ、とリーは言う。ならそうしようかと答えると、決まりですねとリーは両手を打ち鳴らした。視界を春色に染める感情に、ドクターは名前を与えないことにした。それの正体に気付いてしまえば、きっと自分たちはこのままではいられないから。
ただ、彼の隣にいるだけで、十分に幸せだから。
***
渡された合鍵、ドクターの私室を解錠するためのカードキーをかざすと、その扉は軽い電子音を立てて開いた。
「ああ、リー。おかえり」
ソファに腰かけていたドクターは、リーの方を向いて微笑んだ。合鍵を渡したのはドクターからで、彼がせがんだわけではない。だって私たちは付き合っているんだろう――と、顔を真っ赤にしたドクターは俯きがちにそう言った。リーはこのままドクターを抱き締めて良いものかしばし考え、大人しく鍵だけを受け取ることにした。ドクターを初めて抱き締めたのは、それから一週間後のことだった。キスはまだしていない。
「晩飯はもう済ませましたか?」
「いや、まだ」
「そりゃ丁度良かった。おれもまだなんです。何か食べたいものでも――」
一旦言葉を切ったリーは、ドクターの方へと足を向けた。どこかぼんやりとした表情で自らを見上げるドクターの隣に腰を下ろすと。ソファのスプリングが軋みを立てた。
「……何か、悩み事でも?」
ドクターの顔にかかる髪を耳にかけたところで、その頬に浮かぶ憂いが晴れることはなかった。一緒にいる時に、時折ドクターが見せる表情だった。
悩んでいる、というほどではないんだけど――と。困ったように眉を下げたドクターは、降り始めの雨が石畳を濡らすようにぽつぽつと呟いた。
「今日は定期健診だったんだけど、やっぱり記憶はまだ戻っていなくて」
「……」
改めて言われるまでもなく、リーにもわかっていることだった。自分たちの関係が崩壊していないということが何よりの証左だった。短期記憶の欠落、ドクターが陥っている記憶喪失は、半年がデッドラインだと聞いている。半年過ぎても戻らない記憶が蘇ることはほぼない、と。
「だから――なのかな。たまに、夢でも見ているような気持ちになるんだよね」
「何が……です?」
「君と、こうしていることが」
髪を梳いていたリーの掌に自らのそれを重ね、ドクターは自分の頬へと触れさせた。
君の誠意を疑っているわけじゃなくてね――という声は絹糸のように手触りが良く、それが自分を安心させるためのものだとはわかっていた。ドクターの抱く疑問がこの関係性を確かめるための検算だというのなら、ドクターはスタート地点から間違えている。信じるべきものを、始めから誤っているのだから。
「私が誰かと付き合っているっていうのが、どうもね」
「信じられませんか?」
重ねて問えば、ドクターは頷いた。その瞳は困惑に揺らめき、迷いを伝えていた。それを嬉しく思う。ドクターが、自分の弱さを見せてくれることを。それには胸を震わす喜びがあり、自分はこの人を騙しているのだ、という罪悪が、より一層重くなる。
「だって私はロドスの戦術指揮官なんだよ? 色恋なんてしている場合じゃないだろう。特定のオペレーターに入れ込むべきじゃあ、ない。――そう思わないかい?」
「……そうかもしれませんね」
それは、これまでに嫌になるくらい幾度も、傷になるくらい何度も、ドクターの中で反復されてきた問なのだろう。それはドクターに取って消えない棘だ。自らの感情を、抱いた恋情を、この関係を、ドクターは今でも肯定できずにいる。
それでも。
「あなたは、おれのことを、好きでいてくれるんですね」
「……」
「あなたは――おれのそばにいてくれるんですね」
ドクターは目を伏せた。白い頬に睫毛の影が落ちる。病室で見たときよりも幾分か健康的に見えるはずの姿は、けれども瞬き一つの内に消えてしまいそうな儚さを宿したままだった。また、目を離せば。この人は消えてしまうかもしれない。今度こそ、死んでしまうかもしれない。――自分のことなど忘れてしまうかもしれない。それが何より恐ろしい。
「そうだね」
ドクターが自らの胸元を掴んだ。それは胸を掻きむしる様にも、心臓を掴もうとする様にも見えた。苦し気な笑顔は、陸の上にあっても呼吸を許されない人魚のようだった。
「私は――君のことが好きだよ」
「きっと、また記憶をなくしても、私は――君のことを好きになる」
「――なら、もっと……恋人らしいことをしましょう」
リーがを抱き寄せると、ドクターは大人しくその肩に頭を預けた。肩にかかる重みを嚙みしめながら、リーは明るい未来の話をする。失われた過去ではなく、これからの話を。
「次の休みは龍門に出かけるってのはどうです? おれの家でゆっくり過ごしても良いですし、買い物にでも行きましょうか?」
「……、そうだね」
ドクターは、幸福な夢でも見るように眼を閉じた。今、目を閉じれば。自分も同じ夢が見られるだろうか。
嗚呼。
もっと早くに――こうすれば良かった。
***
「しないの? 告白」
ネイルを塗り直しながら尋ねるウタゲに、ドクターは苦笑した。とはいえ彼女の行動は自分の油断を誘うためのブラフであり、その眼差しがネイルストーンに彩られた彼女渾身のネイルアートではなく自分に向けられていることには気づいている。
「誰に? なんの?」
書類を整えながら答える。しない――とは答えない。それは相手がいるということを前提とする返答だからだ。
「もー、ドクターってば素直じゃないなあ。告白って言ったらすることなんて一つしかないでしょ。あなたのことが好きです! って言わないの? ってコト」
「恋バナがしたいなら別の人を呼んでこようか? アンジェとか」
「アンジェとはさっきお茶したときに盛り上がったから大丈夫でーす」
成程、だからこそ自分にも水が向けられているのか。年頃の女の子というものはどうしてこうも難しいのか、とドクターは痛むこめかみを揉む。ウタゲはそれを気にする様子もなかった。
「怖くないの? 好きな人が取られちゃうかもとか――」
「――死んじゃうんじゃないか、とか」
思わず顔を上げる。にんまりとこちらを見つめるマゼンタに、計略だったことを理解しても全てが遅い。
「縁起でもないことを言わないでくれよ」
言いながら、冷たい想像が汗となって背中を滑り落ちていく。このテラの大地がどれほど残酷であるかは、よく理解しているつもりだった。けれど――それについて、どこまで本気で想像したことがあっただろうか?
自分が、いつか彼を失う可能性について。
「そうなる前に、告白しようとは思わないの?」
それまでは鉄壁を装っていたドクターから望む反応を引きずり出したウタゲは、けれどもそれで手を緩めることはなかった。まんまとかまに引っかかった自分自身を呪いながら、ドクターは椅子に深くもたれかかる。会話を続けるのは、半ば自棄だった。
「告白、ねえ――。ティーンエイジャーじゃないんだから。そういう惚れた腫れたをするような歳でもないよ」
「ふうん、でも――」
自分は今のままでも十分に幸せだと、そう言おうとして。
「ドクター、ずっと苦しそうだよ」
「……」
半ば無意識に、ドクターは自らの胸元を掴んでいた。ただ彼の傍にいるだけで幸せだった。けれど、どうして。人間の欲には限りがないのだろう。一人であることを孤独だと感じるようになったのはいつからだろう。
彼がいないと寂しい。けれど彼を見ていると、もっと寂しくなる。彼と一緒にいる時だけ、その苦しみは和らぎ、しかしその春の記憶は、彼のいない全ての時間を凍てつく冬へと変えるのだ。
「告白、しちゃえばいいのに。ドクターにもチャンスはあると思うよ?」
「また他人事だと思って……」
ドクターが嘆息すると、ウタゲはけたけたと笑い声を上げた。彼が自分のことを憎からず思ってくれているのはわかる。けれど、それで告白できるのかと言われたらまた別の問題だ。
彼に好きだと言えたなら、何かが変わるのだろうか。
彼が、自分が死ぬ前に。彼が他の誰かを愛する前に。君のことが好きなのだと――自分の傍にいてほしいと、そう言えたなら。
「ねえ、見て見てドクター! このネイル、良い感じじゃない?」
ほらほら、とウタゲは輝く両手の爪をドクターの方へ示した。その笑顔には他人の恋路に対する興味はもう欠片も残っておらず、だからドクターも苦笑しながら彼女渾身のネイルアートを覗き込んだ。嗚呼、全く。誰かを好きになることに、これくらい軽やかであれたら良かったのに。
もしも、とドクターは夢想する。もし――好きだと伝えたら。彼はどんな顔をするだろうか? 共に過ごした時間はもう短いとは言えず、ならば手を伸ばしたら届くだろうか?
彼に、好きだと言えたなら。
***
「どうして?」
半年がデッドラインだった。半年間逃げ切ることが出来れば、リーはこの関係を真実にすることが出来る。自分はドクターに告白をし、ドクターはそれを受け入れた、という存在しない過去を、本当にすることが出来る。
「どうして――嘘を吐いたんだ?」
けれど崩壊は、彼の予期せぬ形で訪れた。蒼褪めたドクターが自分に詰め寄るのを、リーはどこか冷めた気持ちで見つめていた――夢の中にいるかのように。ドクターの自室で、中途半端に開いたままのカーテンから差し込む夕日は部屋を赤く染め、現実感を見失わせる。
可笑しなことだった。自分は今まさに、夢から醒めたというのに。
「……思い出したんですか?」
静かに問いかけるリーに向かって、ドクターはPRTSの画面を突き出した。
ドクターが取り戻したのは記憶ではなく記録だった。PRTSに保存していた日記の復元に成功しなければ、きっと一生騙されたまま、嘘は真実へとなっていただろう。リーはドクターを、そして彼自身を騙し続けて。自らを欺いていることを、忘れてしまうその日まで。
「どうしても――思い出したかったんだよ。君が、告白してくれたときのことを」
血を吐くような言葉だった。だとすればそれは皮肉としか言いようがない。存在しないものを求める無垢な努力が、甘い夢を見せる砂上の楼閣を崩壊させたのだから。
「どうして――こんな嘘を吐いたんだよ」
ドクターが復元した日記には、全てが書いてあったのだろう。あの日、自分たちが最後に会ったときに、本当は何があったのかを。リーを見る眼差しにはナイフと同じ鋭さがあり、けれどもそれに傷ついているのはドクターの方だった。
「私たちは、恋人同士なんかじゃなかった――あの日、君は、私に告白なんてしなかった」
告白したのは私の方だった――と、ドクターは、血を吐くような声で叫び、彼を断罪する。
「私を拒絶したのは、君じゃないか!」
***
「――今なら、聞かなかったことにできますから」
だからそれ以上は言わないでください、と。リーは静かに、その唇へと笑みを湛えた。それは、ドクターから言葉を奪うのに十分すぎるほどだった。続く言葉を失った唇は凍りつき、それは酷く歪んだ笑みのようにも見えた。
「ドクター。……あなたは、ロドスの戦術指揮官なんですよ」
わかっていますか、と。嬰児のおいたを嗜めるような口調でリーは諭した。その穏やかさは、線の針よりもドクターを苛むことを知った上で。
「特定のオペレーターに入れ込むべきじゃあないでしょう? あなたにはやるべきことがあるんですから」
色恋なんて、している場合じゃあないでしょう、と。優しい言葉は、ドクターの心から、一つ一つ、色を消していくようだった。彼の手で咲いた花が、他ならぬ彼の手によって、一つ一つ摘み取られていく。彼が淹れてくれた茶の味、振舞ってくれた手料理、共に過ごした時間――その全てが灰色に染まり、
「――うん、そうだね。わかった」
ドクターは。
なんてことのないように笑った。
「またね、リー。これからも、頼りになるオペレーターでいてね」
それじゃあ、とドクターはその場を立ち去った。出発の準備があるから、と。そう言って。
その背中を見送りながら――リーは酷く、疲れたように息を吐いた。
「ええ、また」
ドクターが襲撃されたのは、それから三日後のことであり。
彼らが望んだ明日が来ることは、永遠になかった。
***
リーの胸に幾度も拳を打ち付けた後は、ただ、啜り泣きだけが聞こえていた。
その涙を拭いたいと思ったところで、今の自分にはそうする権利すらなかった。
「あのときは……そうするのが、一番正しいと思ったんです」
ドクターはきっと、勘違いをしているだけだと。与えられる体温が冷めていく感覚を、寂しさと錯覚しているだけだと。だから自分が手を引くのが一番良いのだと、そう思っていた。自分たちの間にある感情に、確かに恋という名前を与えられるのだとしても。
自分という存在、恋という感情は、ドクターにとっての瑕疵となりかねない。恋愛が、この人の理性を曇らせることがあったら? いつか自分の命を天秤にかけることで、ドクターがテラの大地に関わる選択を違えることがあったら?
けれど、何も分かっていないのは自分の方だった。ドクターが襲撃され、搬送されたと聞いたと聞いたときは、全身が石へと変わったかのように動けなかった。病室に入ることすら許されないまま、何日も立ち尽くすことしか出来なかった。ドクターが意識を取り戻しても、会いに行けるのは二十七番目だった。
理解していなかったのは自分の方だ。
正しさなど、何の言い訳にもならないと。
言い訳をして逃げていただけだ。ドクターと、自分自身の気持ちから。
「あなたが、目を覚ましたら――謝ろうと思っていました」
それで許されるなどと思ったわけではない。ただ、その花を踏みにじったことを、謝らなくてはならないと思っていた。ドクターが必死な思いで、手渡そうとしたその感情を。
けれど、ドクターの記憶が失われていると知ったときに。
自分は何を思ったのか。
これでやり直せると――、そう思ったのではなかったか。
「許してくれとは言いません。……おれが、あなたを騙していたことは事実ですから」
ドクターはリーの胸に顔を埋めたまま、何も答えなかった。震える肩を抱き締めたいと、そう思ったところで、今の自分がそうすることなど許されるはずがなかった。
本当は何も、許されてなどいなかったのだ。
あの日、病室で嘘を吐いたときから。手を繋ぐことも、抱き締めることも――傍にいることでさえ。
それでも。
「あなたのことが好きだった。――それだけは本当です。だから……あなたのことを突き放すべきだと思っていました。おれの存在が、あなたにとって邪魔にならないように」
「……じゃあ、どうして」
どうして、と。くぐもった声が問いかける。
「どうして――傍にいてくれるの?」
「……今、あなたの傍にいたいと思うのは――おれのエゴです」
そうだ。
こんなものは、もう恋ではない。ただのエゴだ。自分の存在が、この人の瑕疵となっても。道を誤らせることになっても。自分はただ、この人の傍にいたい。傍にいて、共に傷つきたい。同じ重荷を背負いたい。同じ過ちを犯したい。この人がいつか地獄に落ちるのならば、その地獄に落ちたい。
「――い」
ドクターの声はか細く、この距離であっても満足に聞こえなかった。聞き返そうとしたときに、先ほどよりも確かな声で、震える言葉が彼の耳に届く。
「許さない」
それは、予想していた結末だった。もう後悔さえも遅いのだ、と。喉元をせり上がる悔恨が、リーの呼吸を止める前に。
「ずっとそばにいてくれないと――私、君のことを許さないから」
夢の続きが、彼の腕を引く。ドクターは、涙で濡れた眼差しで、彼を見上げた。絶えず落ちる雫が湖面を揺らすけれど、その瞳の底にあるものを隠すことはできなかった。
「ねえ、リー。私は――君のことが好きだよ。記憶をなくしても、騙されても。優しくて、情が深くて、愛するものを手放せない、君のことが好きだ」
「君は――どう?」
息を吸って、再び吐くまでの三秒は、永遠よりも長く感じられた。
リーはそっと、ドクターの涙を拭った。そうする権利はまだ、彼の手の中にあった。ドクターが与えてくれたものだった。
そして、もう一つ、彼だけに許された特権として、リーはドクターに口づけた。震える唇は塩辛く、けれど何よりも甘い。
吐息と眼差しが交差する先で、嘘はようやく真実となり、遂に彼は、何を犠牲にしても得たかったものを手に入れる。
「ドクター、おれは――。あなたのことが、好きです」