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    はるち

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    if鯉先生と政略結婚するお話、その2

    #鯉博
    leiBo

    君、軽やかに欺けよ「サッカーの才能がある人間は全員サッカー選手になるべきだと思う?」
    「おれたちの子どもの話ですか?」
    「そんなものまだいないだろ」
     ベッドに腰掛けて身支度を整えていた男に、横たわったままのドクターが蹴りを入れようとする。完全な死角から入ったはずのそれを、しかしリーは振り返りもせずに受け止めた。まだ、ってことは期待しても良いんですかねぇ、という言葉は砂糖を入れすぎた紅茶のように甘く、骨まで蕩かすようだった。掴まれた足を撫でる吐息は、容易く昨夜の官能の名残を身体に呼び起こす。肌がぞわりと粟立つのは、何に起因するものだろうか。
     前向きに検討すると、という交渉事における穏便な辞退の言葉に、リーはくすりと微笑んで足を開放した。冗談だったらしい。とりあえず、今のところは。
    「どうしたんです、急に」
    「なんとなく、だよ。だからあまり深く考えずに答えてくれ」
    「そうですねぇ……。まあ、本人の希望次第じゃないですか? 別に野球選手を目指したっていいでしょう。それで成功するかはわかりませんがね」
     リーがシャツに袖を通し、鱗の肌とそれに刻まれた傷を覆い隠す。政府の高官として、彼が決して穏やかとは言えない人生を送っていることは、袖口から覗く傷痕からも知ってはいたが。自分の爪では傷一つ付けられない彼の肌に、ここまでの痕を残した過去を、そういえば自分は何も知らない。
    「才能のあるなしと、どういう人生を選ぶかは、結局のところ無関係でしょう」
     人の心を読むのが得意であるという彼は、質問の意図を理解した上で、そう言っているのだろう。
     例えば。
     殺戮を指揮する才能に恵まれていたとしても、それが人生を決める理由にはならない、と。
    「……そうだね」
     けれど、それは。彼に対しても同じであり、だからこの問いかけは自分たちにとって皮肉でしかなかった。才能によって人生を選ばざるを得なかった自分たちの。
     口八丁手八丁、そして三寸不爛の舌と人の心を見通す眼を持つ彼は、確かに人を動かす官僚向きの才能に恵まれている。龍門のウェイが目をつけることも納得だ。しかし、とドクターは思う。その立場であるには、彼はあまりにも――情が深いのではないか、と。
     大を救うために小を切り捨てざるを得ない立場に就くには、あまりにも。
     全員を救えるわけがないことは、自分だってよく知っている。いつだって救いの方舟には定員がある。空から降り注ぐ慈雨の恩恵に預かれなかった人間を見つけ出すことが、彼よりももっと地べたに近い場所にいる自分たちの役回りだ。けれど、空から地表を見下ろす人間は、自分では決してとの届かないものを見て、果たして何を思うのだろう。
     先日、彼が解決した事件の顛末を思い出す。彼から直接聞いたわけではない、人づてに聞いただけだ。奪われた荷物を取り戻すために、強盗団を皆殺しにしたこと。それに巻き込まれて、一般人も数人、亡くなったこと。
     彼が自分の元を訪れて、自分を求めるのは、決まってそういう時だった。
     本当は、とドクターは思う。彼は、自分が公務のために切り捨てざるを得なかった人々のことを、ずっと悔やんでいるのではないか、と。
     だから。本当は、こんな役職ではなくて。龍のごとく空から地表を見下ろすのではなくて。市井の人々と共に生き、手の届くところにいる人を助けられるような立場の方が、彼にとってはずっと良かったのではないだろうか。
    「何考えているんですか、ドクター」
     彼がまだ毛布にくるまっている自分の頬を撫でる。仕事に行くのが億劫なのだろう。けれども行かねばならないのが宮仕えの悲しさだ。
     双月めいた彼の瞳は、自分の真意を見透かすように目を凝らした。太陽は物に影を作るが、月光は物を影とする。きっと、今の彼では、自分の心を当てることは出来ないだろう。
    「君が官僚じゃなかったら良かったな、と思っていた」
     瞬きを一つ。苦いものでも飲まされたような表情で、それでも唇だけが笑みの形を描こうとする。
    「……そうだとしたら、あなたはおれのことなんて選ばないでしょうに」
     声に滲む色は、彼にしては珍しい色をしていた。それはきっと、寂寞と呼ばれるもので。
     彼は一度も、この結婚を政略結婚とは言わなかったけれど。その実、自分よりもそう思っているのではないだろうか。ドクターが結婚したのは、彼の立場とロドスが受ける恩恵であって、彼自身ではないのだと。
    「リー、少しだけかがんで」
     彼について、多くのことを知った。酒よりも茶が好きであること。本当は仕事の付き合いで飲むのは嫌なこと。でも自分と晩酌をするのは好きだと言ってくれること。芸術についての話をするのが好きなこと。美しいものが好きなこと。それは人でも同じで、そばを美しい人が通りかければ目で追っていること。でも一番は自分だと言ってくれること。
    「どうかしました?」
     愛が深いこと、情が深いこと。人の中にいるくせに孤独で、寂しがりで、人との縁が途切れ、向ける先のなくなったそれを、彼は溺れそうに抱えていること。
     それを自分に注ぎ込んでいること。
    「いってらっしゃいのキスをしてあげる」
     そういったときの、彼の百面相と言ったら見ものだった。シーンかカシャに撮影機材を借りておくべきだった! 彼が呼吸を整えるまでに、たっぷり三分はかかっただろうか。これは部屋を出たら走らないと仕事には間に合うまい。
     ようやく覚悟を決めたらしく、彼は目を閉じて自分に口づける。初めての時よりもずっと慎重に、丁寧に。けれどそれは、百年の眠りに落ちた最愛の人が、目を覚ますような願いよりも。自分の隣で永遠に微睡んでいることへの祈りに似ていた。
     唇にするとは言ってないんだけどなあ、と思いながら、ドクターはそれを受け入れた。唇が離れて、目を開けた先には、縋るような鬱金の瞳がある。
    「いってらっしゃい、私の旦那様」
     別れがたさを分かち合うように、頬を撫でる。自分よりもずっと低い体温は、雪解けの水と同じ温度をしていた。もし、凍りついたものを溶かす存在があるのなら。それはきっと情と呼ばれるもので。溶け出したものは、それを求めて流れ出すのだろう。きっと、溺れてしまうまで。
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