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    はるち

    好きなものを好きなように

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    はるち

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    鯉先生の実家で生き神として祀られている博士のお話。十割捏造です。

    #鯉博
    leiBo

    今は遠き方舟よ 神様を飼っている。
    「……ふむ」
     高所から下げられた香炉は白檀の香りを振りまき、その人は白い着物の上から薄衣のように薫香を纏っていた。細い指先が、テーブルの上に置かれた茶杯に伸ばされる。今しがた、少年が淹れたものだ。テーブルの反対に座り、相対している少年は行儀よく膝の上で拳を握りしめていた。
     芙蓉を模したその陶器はこの人の肌のように白く、茶の水色をよく映した。少年が思わず生唾を飲んだのは、喉の渇きのせいではない。
     唇が茶杯に触れる。こくりと音を立てて、茶が喉を流れていくのがわかる。雪が溶けて蕾がその姿を覗かせるように、頬に朱色が差す。濡れた唇で、その人は。
    「四十五点」
     ぐ、と少年の喉が鳴る。その人は唇を三日月の形に釣り上げ、爪でかつかつと机を叩いた。炎国の歴史を講義している最中で、少年の間違いを正すときのように。
    「茶杯を温めるのを忘れていたのかい? 蒸らす時間が長すぎるよ、渋みが出ている。せっかくの茶の甘さが台無しだ」
    「……この前と同じ時間ですよ」
    「だから駄目なんだ」
     その人が急須の蓋を開けると、閉じ込められていた茶の香りが溢れ出した。
    「この時期の茶葉は普段のものよりも柔らかい。旨味も渋みも早く出る。茶葉に合わせて時間を調整することを覚えなくてはね」
    「……わかりました」
     下手な言い訳も口答えもやめて、年頃の子どもらしく頷くと、その人は穏やかな笑みで応える。
    「でも、この前よりも美味しくなっている。上達したね、長子殿」
     先日茶を振る舞った時の点数は、確か三十六点だった。九点分の成長。それでも合格点には届かない。
    「ご褒美をあげよう」
     おいで、と両手を広げる。
    「……」
     躊躇いの間も、その人は両手を下ろそうとはしない。沈黙と笑顔は、何にも勝る圧力だ。結局のところ、教えを乞う側である少年に選択の余地はない。
     観念した少年は、硝子でできた花束をそうするように、その人を抱え上げる。
    「向こうの戸棚に月餅があるんだ。一緒に食べよう」
    「あるんだったら最初から言ってくださいよ。茶と一緒に用意したのに」
    「言ったらサプライズにならないだろ」
     その人は軽い。嘘のように、虚のように。それは少年に力があるからというわけではなく、あるべきものが欠けているからだ。
     その人が纏っている着物。その大腿から下は、不自然に潰れている。本来ならそこにあるはずの足が、ないから。
     だからこの人は誰かの助けがなくては、十数歩離れただけの戸棚に行くことも満足にできない。
    「薔薇の香りの餡なんだ。きっと君も気に入るよ」
     抱えあげると、必然その人の頭が少年の鼻先に近づく。白檀の奥底に潜む薫香は、この人自身が漂わせているものなのか。不自然なシルエットはこの人から人間性を奪っている。まるでこの世の存在ではないかのようで、けれども腕の中には生物の温かさがある。この人がもつ儚さと美しさは、此岸と彼岸のあわいを彷徨うものだけに許されている。
     砂糖漬けの酔芙蓉、桃源郷に咲き誇る春、美酒を満たした酒坏に浮かぶ月。
     浮かぶ言葉はどれもこの人を表しているようで、けれども何かが違う。それは一面であり全てではない。この世全ての言葉を尽くしたところで、この人を言い表わすことなどできようか。
    「あなたが選んだものなら、間違いありませんよ」
     今、少年が抱えているものは、数年前に父が連れてきた生き神である。
     名を、博士ドクターという。
     
     ***
     
     少年が初めて神様と出会ったのは、十の誕生日を迎えた日のことだった。
    「ああ、君が鯉家の長子殿だね。父上にはいつもお世話になっているよ。私のことは博士と呼んでくれ」
     父が連れてきた【生き神】については少年も知っていた。出先で天災に巻き込まれた父を救ったのだという。命の恩人とも言えるその神様、博士と名乗るそれを連れ帰ったとき、使用人たちは妻を亡くした当主はついに気でも触れたか、或いは騙されているのだと噂していた。
     龍種は一途な生き物であり、つがいに先立たれたものは後を追うように亡くなることが多い。気が弱った父は魔性に憑かれたのだと、少年も思っていた。
     しかし。
    「はじめまして、博士」
     少年の返事に、博士は嬉しそうに微笑んだ。
     生き神という名称は伊達ではなかった。博士は鯉家の商いに積極的に口を出すことはしなかったが、助言を求められれば答え、そのどれもが的確だった。その上で偉ぶることも、自分を敬えと強要することもない。あくまで自分は当主の好意のもとで存在を許されているのだと、博士は理解していた。初めは遠巻きに見ていた使用人たちが博士を、少なくともその存在価値を認めるようになるまで、さほど時間はかからなかった。
    「当主殿。今日の仕事は長子殿も同席する、ということでいいのかな?」
     博士は月に何度か、鯉家を訪れる来客の相談役を務めていた。初めは当主が連れ帰ったという生き神、珍しい毛並みの青い猿を見物に来るような感覚で訪れた彼らは、帰る頃にはそれ以上の価値を見出していた。
     彼らの本質は商人である。役に立つものにはそれに見合う値段をつける。
    「カジミエーシュの企業と取引ですか。あの地の商業連合会に付け入ることはなかなか困難ですよ。ネオンの影には気をつけた方がよろしいかと。闇に乗じて矢が飛んできますからね」
    「ライン生命、ですか。確かにクルビアでは一番伸びしろがある企業でしょうね。最近では鉱石病についての論文も興味深く――」
    「リターニア? そうですね、何もおすすめはできませんが……楽の音には警戒を気」
     来客との会話が終わった後、使用人が博士と少年に茶と菓子を持ってきた。少年はただ大人たちの会話を聞いていただけだったが、それでも話を理解しようと懸命だった。結果として詰め込まれた知識の量に頭痛がしてくる。疲れ切った脳に、饅頭の甘さが染みた。
    「疲れたろう」
     博士は全く応えた様子もなく、穏やかな笑みを茶を啜る。饅頭を咀嚼し終えた少年は、博士の方へと向き直った。
    「十二番目の方」
    「うん?」
    「十二番目に訪れた方の融資を断ったのは何故ですか?」
     それが印象に残っていたのは、少年も見覚えのある客だったからだ。父の取引先の一つだったはずだ。その客は、新しい事業を始めたいからと融資の相談にやってきたのだ。けれど博士は父に目配せをすると、父はそれを断った。
     あれは博士の采配だと、少年は思っていた。
    「……。彼を見て、君はどう思った?」
    「どう……ですか?」
    「そうだね。身なりの良い紳士だった。融資の相談に来ているのだから身だしなみを整えるのは当然だね。去年に流行っていたものだ。擦り切れた裾のところは丁寧に繕われていた。きっと奥方の仕事だろうな。でも服のサイズがあっていなかった。ぶかぶかだったろう? でもそれを仕立て直す金銭的余裕も時間的余裕も、仕立て直してくれる奥方も、今の彼にはいないようだった」
     茶で喉を湿らせた博士は滔々と語る。あの客は何を着ていただろうか。裾はどうなっていたか。思い出そうにも思い出せず、そもそも自分はそんなところには注目していなかったのだと思い知る。
    「彼の左手を見たかい? 薬指に日焼けの痕が残っていた。指輪の外したのは最近だろうね。先立たれたのか、愛想を尽かされたのか――いずれにせよ、今の彼はあまり安定してはいないんだろうね」
    「どうして、そう思うんですか?」
    「茶を飲もうとする時に、指が細かく震えていただろう? 緊張のせいかもしれないけど、一年での体重減少と合わせて考えるとアルコール依存症の可能性も出てくる。当主殿の話では、お酒好きの性格だったそうだし――」
     かつかつと、博士が爪先で机を叩く。
    「商売相手としてはいささか不安要素が強い。融資相手としては尚更だ。だから今回はお断りするよう助言した。まあ、私から言うまでもなく当主殿もそのおつもりだったようだけどね」
     ぽかんと口を開けて、少年は博士の話に聞き入っていた。それこそ、今までアドバイスを受けていた来客たちのように。だから博士が少年に向き直った時、彼は慌てて居住まいを正した。
    「長子殿。僭越ながら私からアドバイスだ。人間は自分の欲するものを裏切れない。それは時に家族や仲間、信念や信仰、あるいは正義と呼ばれる。相手が何を望んでいるかがわかれば、何を信じ何を裏切りるかを予想することも、何を愛し何を憎むかを予測することもできる」
     だから、と博士は笑う。少年は初めて、目の前にいる人間に対して、恐怖にも似た感情を抱いた。
     そして――もっと、この人について知りたいとも。
    「人の心がわかる人間になってね」
     
     ***
     
     少年の住む屋敷は広大だった。
     自分を含めた家族の住む主殿があり、その隣には使用人たちの住む屋敷がある。その他に畑と馬小屋、そして石蔵が四戸前。
     少年は蓬莱に似せて作られた庭を進む。石灯籠が立ち並ぶ庭には蝋梅や躑躅、紅葉が植えられており、四季折々の彩を見せていた。
     庭を進んだ先には石蔵が一つある。以前までは鯉家に伝わる骨董品を収蔵していた場所だ。けれどあの日以降、この蔵は改修され、たった一人のためにある。
     蔵には鍵がかかっている。鍵を持っているのは少年と当主、そして世話を任されている一人の使用人だけだった。
     鍵を開けて中に入る。ここはいつでも暁天のように、薄明かりと霧のような香気に満ちていた。
    「おや」
     座っていた博士が、視線を少年へと向ける。何か作業をしていたのか。机の上にはいつものように本が積まれているのではなく、乳鉢と枯れ枝や草が――きっと薬草の類だろう――が置かれている。
    「薬でも作っていたんですか?」
    「そうだよ」
     おいで、と手招かれるままに、少年は博士の隣に座った。
    「ほら。この屋敷にきてからずっと私の世話をしている女中がいるだろう」
     少年にも覚えがあった。博士の食事や着替え、入浴など身の回りの世話を、一人で受け持っている女性だ。父が博士を連れ帰った時から、彼女一人に任せていた。
     それは信頼の現れであると同時に。
    「彼女の息子は鉱石病なんだけどね」
    「……」
    「最近病状が悪化したそうだから、薬を使っていたんだよ。ここだといささか設備が不足しているから、本当に気休めのようなものだけど……。当主殿に頼んで良い薬を取り寄せているから、それまでの時間稼ぎに過ぎないけどね」
     鉱石病の治療にはとにかく金がかかり、身内に感染者がいることが明らかになれば迫害は避けられない。だから彼女の子どもがそうであることを知っているのは、おそらく当主だけだった。そして当主は、子どもの治療に協力することと引き換えに、彼女に博士の世話を任せたのだ。
     彼女の欲するもの、それは息子の安寧だ。それは自分たちにとっては枷であり首輪となり得る。そこにあるのは信用ではなく利用であり、より純粋な雇用関係だ。
     人間は、自分の欲するものを裏切れない。
    「……なんでも出来るんですね、あなたは」
    「まあね。私は方舟に乗っていたから。茶の淹れ方は、方舟に乗った龍に教わったんだよ」
    「またその話ですか」
    「本当だとも」
     尤もらしい口調で博士は語りだす。乳鉢や薬包紙を傍らにどける辺り、もう作業は終わっているのだろう。
     方舟に乗っていた、というのは博士が好む御伽噺だった。ここに来る前はどこにいたんですか、と今よりもっと幼かった少年が尋ねたときから、ずっと。
     博士は方舟に乗ってこの大地を旅していたのだという。或るときは塔の上で巫王の血脈と、或るときは極北で山の如き異形と、また或るときは深海からの侵略者と相対する。それは少年にとって心躍る冒険譚だった。
     けれど物語の結末はいつも同じだった。方舟は崩壊し、博士は一人荒野に投げ出される。
    「私を最後に送り出したのも、龍だった」
     この話をする時、博士はいつもここではないどこか、今はもう戻れない遠い日を見つめていた。
     どうしてその人と一緒に逃げなかったのか、とは尋ねない。以前そう聞いた時、博士はうつむいて首を横に振った。自分を逃がすため、敵を引き受けてくれたから、と。
    「きっと酷い死に方をしただろう」
     そうして一人になった博士を助けたのもまた龍であり、こうして博士はこの屋敷へとやってきた。
     この話を聞く度に、少年はいつも思った。――この人が、この屋敷に留まっているのは。その龍への、悔恨のためなのか、と。
     博士の瞳に、声に、今尚身を焼く熱と、身を裂く寂寥が宿っている。この話をするときだけ、過去を懐かしむときにだけ、博士が見せる色だった。
     それは、少年の身の裡を焼く炎を良く似た色をしていた。
     
     ***
     
     博士は興味のあることに熱中すると、寝食を忘れた。
    「ほら、博士。今日はもうそれくらいにして。食事にしましょう」
     長椅子の上で寝そべって本を読んでいた博士が、勢いよくそれを閉じる。食事と聞いて目を輝かせるのは子どものようで、少年は思わず笑みをこぼした。
     身の回りを世話するのは使用人の役目だった。しかし、茶の味が合格点を超えた日に、博士は言ったのだ。
     ――いつか、君の手料理が食べてみたいなあ。
     茶を淹れるのは嗜みであれど、調理となると長子としての領分を超えていた。それでも、彼が使用人たちに混ざって厨房に立ったのは。ひとえに、博士の存在があったからだ。
     良くやったね、と認められると誇らしい。
     頑張っているね、と褒められると嬉しい。
     博士の言葉の一つ一つは、少年にとって野に咲く花のようだった。思わず摘んで、手の届くところに留めておきたくなるような。だから向けられた笑顔と言葉を、少年は胸の中にしまい込んで、時折水をやるように思い出していた。
     初めは、本当にたいしたものは作れなかった。しかし、何を食べても博士は嬉しそうにしていた。食べる度にアドバイスをもらい、上達していく過程は学業と同じで楽しかった。
    「今日は何?」
    「天津飯ですよ。あなた、好きだって言っていたでしょう」
     ああ、そう。それが食べたかったのだと博士は笑う。だから見過ごすところだった。栞代わりに本の中へと滑り込んだ紙に。
    「……」
     少年は笑顔を崩さない。あれはきっと、来客からの手紙だろう。生き神からの助言を受けた客の中には、博士をいたく信頼するものもいる。大抵は使用人があしらっているが、何人かとは個人的な連絡を取っているようだった。博士の身の回りの世話をしている女中がここのところ不在がちなのは、連絡係を努めているからではないか――と少年は踏んでいる。
    「どうかした?」
     表情が浮かないことを察してか、博士が不思議そうに尋ねる。今だけは、その瞳を見ることが恐ろしかった。心の奥の奥まで見透かされそうで。
    「あなたの口に合うか、不安なだけですよ」
     子どもの無邪気さは、こういうときには便利だった。博士はこちらの内心を知っているのか、それとも気づかないふりをしているだけなのか。
     一人では食卓まで動くことの出来ない博士を抱え上げ、席につかせる。
    「本殿に戻らなくてもいいのかい?」
    「どこで飯を食うかはおれが決めますよ」
     向かいの席につく。温かい茶も食事も二人分。
    「いただきます」
     時折、思う。
     ――父は、この人がどこにも行かないように、足を切ったのではないか、と。
     
     ***
     
    「また振られたのかい?」
     呆れた声はけれども温かく、彼の前に茶杯が置かれる。
     少年は青年に片足を入れる年齢にまで成長していた。
    「振られたわけじゃありませんよ。遊びですから」
    「言うねぇ、色男。いつか刺されるよ」
     いくら時が経っても、茶の温もりだけは変わらなかった。けれどそれ以外の全ては流転する。かつては世界の全てに感じていた屋敷を出て、学舎に通うようになり、そこで義兄弟の契りを交わす学友たちと出会った。炎国の歴史や文化、商いについて以外にも多くのことを学んだ。例えば、色事といった。主殿と石蔵を往復していた日々は終わり、彼の世界は広がった。
     それでも、世界の中心は変わらない。
    「……」
     じい、と彼は目の前の人物を観察する。博士は面白がって笑うばかりだった。そこには嫉妬や悋気の気配はない。先日まで好い仲にあった女性が、最後に残した言葉を反芻する。
     他に好いた女がいるんでしょう。
     そう言って袖にされることは、初めてではなかった。
     自分に近寄る女性が多いのは、自分に魅力があるからだと自惚れるほど盆暗ではない。それは鯉家の長子だという後光があってこそだ。だからといって彼女たちを無下に扱ってきたつもりはない。なのに終点はいつも同じで、堅物の義弟にはいつも説教をされる。
    「なにかアドバイスが欲しい?」
    「……そうですね。博士も最近は、客人との面談が減っているようですし」
     以前は月に数度行われていたそれは、今は月に一度あるかどうかだった。あまり客人が【生き神】を信仰することのないように、という当主の判断だと彼は踏んでいた。生き神はあくまで鯉家に属するものであり、鯉家が生き神を祀っているわけではない。
    「一つ、博士に御助言をお願いしましょうか」
    「何なりと、長子殿。女性とどうすれば関係を長続きできるかだけど――」
    「見合いをすることになりました」
     ふつりと、声が止む。石蔵の中に、彼の声だけが響く。
     頃合いだということはわかっていた。だから父からその話があったときも、別段驚きはしなかった。ああもうそんな時期なのか、と。庭で咲いている躑躅を見つけ、初夏の訪れを感じるような気分だった。
     自分の立場を思えば、今まで婚約者がいないことのほうが不思議だった。それはまだ幼い頃に亡くなった母の葬儀やら、入れ替わるようにしてやってきた生き神やらでごたついていたせいだろう。ずるずると惰性で続いていた子供時代は、けれどももう終わる。
    「だからあなたに賜りたい助言は、どうすれば欲しい物が手に入るのか、ってことなんです」
     立ち上がり、手を伸ばす。自分を追い越した背丈が落とす影に、博士は怯えたようだった。脇の下に手を入れれば、この人はあっけないほど簡単に持ち上がる。まるで子どもを抱きかかえるようだった。
     かつては姉のように思っていた人が、今はこんなにも小さい。
    「知っていたでしょう、あなたは。もうずっと前から」
     伸びた裾が、机の上に置かれた茶杯に引っかかり、床に落ちて割れる音がした。
     この人は気づいていたはずだった。自分よりずっと聡明で、人の心に敏いこの人は。けれども互いに目を閉じたまま、すれ違う度に触れる手の甲の感触で、自分たちは笑っていたのだ。
    「わた、しは――」
     生き神など、誰が言ったのだろう。それが嘘だということは当主もこの人も、自分もよく知っている。
     揺れる瞳は、自分だけを、ただ自分だけを映している。震える声は、熱い身体は、毒でしかない。けれどもそれは甘美な毒だった。それを飲み干して死ねるのならば、後悔はないと言えるほどに。
     人間は、欲するものを裏切れない。
    「おれに、一番欲しいものをくださいよ――博士」
     自分も、この人も。
     月をこの手に収めることは、花を手折るように容易かった。
     
     ***
     
     火が絶えると、この石蔵は途端に底冷えのする石棺へと変わる。
     博士はまだ眠いようだった。しかしそろそろ身支度をしてやる時間だ。毛布にくるまったまま頑なに寝台から降りようとしない博士を抱え上げた青年は、はて、と首をかしげた。
    「どうかした?」
    「……痩せましたか?」
    「だとしたら、君が無理をさせるからだよ」
     神妙な顔で青年は頷き、博士は冗談だよと苦笑した。
    「君は私の言うことを何でも真に受けるから困る」
     青年は博士を椅子に降ろした。鏡台は博士のためにと青年が用意したものだ。
     青年に髪を梳かれるがまま、大人しく椅子に腰掛けている姿は人形のようだった。長子がこんな、下女のやるようなことをしていると知ったら、使用人たちは卒倒するだろう。
    「おれがいない間に火が消えたら、この毛布を使ってくださいね」
    「はいはい」
    「わかっているんですか。あなた、この前は本に夢中になって忘れていたでしょう。戻ってきたら中が冷え切っていたから驚きましたよ」
    「ああ、君がいてくれなかったら風邪を引いていたかもね」
     君がいてくれてよかった、と微笑まれ、青年はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
     普通の人間であれば、自分で炭を足すことも、薪をくべることもできるだろう。しかし足のないこの人には、いささか荷が重い。以前は身の回りを世話する女中がいたのだが、最近は空けがちなのだという。
    「子どもの容態が芳しくなくてね。……私の世話をするより、やることがあるだろう」
     俯いた顔に、影が落ちる。博士が手づから薬を作っていた子ども、直接の面識はなくとも、それは心が傷まない理由にはならない。青年は、今しがた自分で梳いたばかりの髪の一房に口づけた。艶を持たせるために使った椿油の香りがする。
    「今はおれがいますからね。まあ、今日は用事が長引きそうなので――」
    「見合いは今日なんだろう?」
     博士が首を傾げると、絹糸めいた髪がさらりと揺れた。
    「良いご縁があるといいね」
    「……」
     石を飲まされたように、腹の底が重くなる。後ろから抱きしめると、博士は優しく腕を撫でた。それが、今は憎らしいほど残酷だ。
     この人は、行かないで、と引き止めてすらくれない。
     ならば、どうすれば良いのだろう。自分がしていることに、父も気づいているだろう。しかし何も言ってこない。ならば、正妻の立場に満足して、他の誰かを囲うことに頓着しない女であれば――
    「やめたほうが良いよ」
     しん、とした言葉は、月を映した湖に広がる波紋に似ていた。
    「君はそこまで器用じゃないよ。料理も茶も、十分上達したけどね」
    「……最近はあなたの面倒を見ることも得意になりましたよ」
    「そうだね」
     でも本当はそんなことはしなくて良いのだと、言外に博士は囁いた。自分と違って、君はいつでもこの場所から出ていけるのだと。
     青年は肩口に顔を埋めた。着物の合間からはうなじが覗き、白い肌の上には情の残り香が散っていた。
     目を閉じる。
    「いってきます」
     花を手折り、月を盃中に納めたとて。
     いつか花は散り、月は欠ける。
     自分のものには決してならない。
    「うん。いってらっしゃい」
     
     ***
     
     この家では、一日は泥のように長く、その癖一週間は流れる水のようにあっという間だった。子どもが大人になるまでは瞬き一つほどの時間しかなかったように思える。
    「おや」
     書を読むくらいしか娯楽のないこの身にとって、話し相手は貴重なものだ。
    「珍しいお客様だ」
     しかしそれは相手にもよる。
    「いや、この家にとって客人は私の方かな? 当主殿」
     本殿ではなく、こちらに彼が足を運ぶのは随分と珍しい。おそらく自分がこの場所に住むことになって以来だろう。
    「あなたとも久しく顔を合わせていませんでしたからね、息子が世話になっているようで」
    「どちらかと言うと世話になっているのは私の方だけどね。もしかしてその件でお叱りに来たのかな? 最近来客と合わせてくれないのはそのせい?」
    「まさか。そんな野暮なことはしませんよ。私も妻と出会っていなければ、あなたに絆されていたかもしれない」
     食えない男という印象は、出会った頃から変わらない。男は老獪で老練な雰囲気を纏い、棘のように胸を引っ掻く感情に蓋をして、博士は微笑んだ。
    「茶でも淹れようか。と言っても、私は動けないから、道具は当主殿に持ってきてもらわねばならないが」
    「お気遣いなく。用意してありますので」
     そこで当主は石蔵に入った時からずっと、傍に下げていたものを机に置く。
    「昼間から酒とは。いいのかい? 今日は見合いなんだろう?」
     当主が布を解くと、酒瓶が現れる。
    「親が同席するなど、それこそ野暮でしょうよ。それより、あなたと積もる話もありますから」
     盃まで本殿から用意してきたらしい。目の前に置かれ、せめて酒ぐらい注ごうとすれば片手でそれを制される。
    「毒など入っておりませんよ」
    「……そんな心配をしているんじゃない」
    「なら飲んでください。そうだ、せっかくだから賭けをしましょうか」
    「どちらが先に潰れるか? 賭けになるかな。君、強い方じゃなかったろ」
     当主は愉快そうに笑い、手酌で注いだ酒に口をつけた。別に今更そんなことが必要な間柄でもあるまいに、と思いながら博士もそれに倣う。
     久方ぶりの酒は、喉が焼けるようだった。
    「あなたは変わりませんねえ」
     しみじみと、遠い過去を懐かしむ口調だった。そういえばここにつまみはない。ならば思い出話が、酒の肴だろう。
    「出会った頃のまま、天災の嵐から私を救い出したときのままだ。それも仙界の秘術ですか?」
    「……」
     確かに、目に見える老化という意味では、自分は変わっていないだろう。髪だけは元から白いので、これ以上色が褪せることはないが。
    「息子も私も変わりましたが。あなたと懇意にしていた客たちも。容姿が衰えないのは神だからなのかと、女性からはよく聞かれましたよ」
    「光栄だね。また彼らと会う機会があったら私から説明しよう」
    「ああ、そうそう」
     彼が盃を満たす。それに口をつける。上等な酒なのだろう。しかし茶の味わいに慣れた舌にはいささか刺激が強い。
    「あの子どもは死にましたよ」
    「……」
    「だからあの女中が教えてくれました。あなた、感染者のための組織を作ろうとしていたんですね? この屋敷で、出会った人たちに協力を仰いで」
     いつからですか、と当主は問う。
    「この家を利用していたのは、いつからですか。出会った時からですか?」
    「……それを君に咎められるとは思わなかったな。利用というのはお互い様だろう」
     彼は家業のために。自分は夢のために。
     互いを利用していたのではなかったか。
    「来客と会わせてくれなくなったのは拗ねていたからなのか? 安心してくれ、私のパトロンは君だけだよ」
    「それは光栄だ。ただ、投資先は選んだ方が良い、というのはあなたの意見でしたね」
    「……何が、」
     言いたいんだ、という言葉が、喉をせり上がる何かに阻まれる。それは動揺でも怒りでもない。もっと即物的なもの。ごぽり、と。むせ返るような濃度と熱を持つそれは。
    「……あ、――ぁ」
     血だった。
     ぐらりと博士の身体が傾ぎ、椅子から崩れ落ちる。床に横たわる博士を見下ろしながら、それでも当主は盃を傾けていた。
    「毒ではありませんよ。――薬です。一族の秘薬ですよ」
     本当はもう長くないんでしょう、と。
     当主は言う。
     あれの目は誤魔化せても、自分は出来ないと。
    「……しご、とを。減らしていたのは……きみの、温情、だったのか」
    「勿論。あなたの人望に嫉妬したとでも?」
     可笑しそうな当主に、博士も笑みを返そうとする。けれども出てくるのは、血の混じった咳だけだった。
     毒とは希釈した薬である。ならば、逆もまた然り。
    「あなたに元気になってもらおうと、この薬を用意したんですが――、この薬は少しばかり、副作用が強くてね。弱った今のあなたでは、耐えられないかもしれないと思った」
     だから。
    「賭けをしようと思ったんです。あなたを拾ったときのように」
     あの時。
     あの嵐の中で、当主は言った。
     もし自分たちが生き延びるなら、あなたを神として家に迎え入れよう。
     もし死んだなら、この大嘘つきと末代まで呪ってやる。龍は執念深いのだ――、と。
     そして二人は生き延びた。
     ――ならば、今度は。
    「賭けは、――勝ちのようですね」
     咳をする体力もなくなったのか。博士は床に伏したまま、もうぴくりとも動かなかった。吐き出した赤色だけが、命のように広がっていく。
     当主はもう一度、盃を煽った。
     勝利の味は、ただ舌に苦いだけだった。
     
     ***
     
     あ、ドクター。
     どうしたんです。そんなに驚いた顔をして。
     はは、そんなに意外ですかあ? あなたが残るっていうんなら、当然おれもいるでしょう。
     ……そんなに怒らないでくださいよ。命令違反なら謝りますって。
     あいつらですか? 先に行きましたよ。あなたが撤退までの時間を稼いでくれたおかげです。
     だからここにいるのはおれだけですよ。だからそんな顔しないでください。
     ……、っと、何やら騒がしいですねえ。せっかくの再会だって言うのに。まさかもう追いついてくるとは。いやはや、向こうさんも随分と熱心だ。見習いたいもんですよ。
     さ、ドクター。この先です。エーギルの皆さんとは、もう話をつけてありますから。
     ――。
     おれですか?
     安心してくださいよ。すぐに追いつきますから。おれはちょおっと、遠回りをするだけです。
     ああもう、泣かないでくださいよ。大丈夫。おれを信じて。ね?
     だから、ドクター、――。
    「――タ、……ク――、博士ドクター!」
     深い眠りに落ちていた意識を、彼の声が呼び覚ます。
     目を開ける。はじめに自覚したのは寒さだった。身体が鉛のように冷たい。
     遅れて眩しさを自覚する。天井から降り注ぐ光と、――彼の瞳。
    「どうして、こんな……!」
     ――ああもう、どうして君は。
     見合いを終えて、着替えることもせずにやってきたのか。髪も衣服も、普段よりも整えられていたのだろう。しかし髪は乱れ、せっかくの装いも台無しだ。
     口から出たのは軽口でも笑い声でもない。血の混じる咳だった。ハレの日の装いを、五臓六腑からの流れものが汚していく。
    「誰にやられたんですか、一体、何が」
    「……誰のせいでもないよ。時間が来たんだ」
     机の上を見やる。そこには酒瓶も盃もない。一番付き合いの長い彼のことだ。きっとうまく隠し通すだろう。
    「待っていてください。薬を持ってきます。医者も――」
    「……いい、行かないでくれ」
     血を吐いている人間とは思えない力で、博士は青年の腕を引いた。普段から白い肌からは血の気が失せ、額には汗が何粒も浮かんでいる。
    「君に、一つ……謝らないといけない。方舟から来たというのは、嘘なんだ」
    「今更何を、そんなこと――」
     
    「私は百年後の未来からきた」
     
     時間が止まった、錯覚がした。
    「本艦が沈んだあの日に、本当は私も死ぬはずだった――、全く、エーギルの技術力はたいしたものだよ。時空跳躍タイムスリップを、本当に、可能にしていただなんて……」
     血で、命で、文字を綴るように、博士は一言一言、喉を震わせながら、言葉を絞り出していた。
    「まあ、でも、不良品だったかな――辿り着く時間も場所も選べなかったし、足も失う羽目になった……」
     でも、と。
     もし、この時代、この場所にたどり着いたことに、意味があったのなら。
     博士は微笑み、手を伸ばした。
     普段、自分がされているように。かつて、彼にしていたように。髪を梳く。
    「ねえ、目を見せて――。私は、君の目が、一番……好きだったんだ」
     否。
     違う。
     今でも――好きだ。
     夜が降りてくるように、金の双眸が自分に近づく。
     それは月と同じ輝きだ。いくら手を伸ばしたところでもう届かず、寂寞と郷愁を持って見上げるしかなかった、過去の光。
     それに、ようやく――この指が、届く。
    「君に、会いたかった。……会いたかったんだよ、リー」
     
     ***
     
    「――さて」
     灰皿の上では、燃え残った煙草が白煙を上げていた。彼は夜霧のように、煙草の匂いを纏っている。彼の手が、茶杯に伸ばされる。芙蓉を模したその陶器は、鱗の肌と同じ滑らかさと白さを宿しており、茶の水色をよく映した。思わず唾を飲んだのは、喉の渇きのせいだけではない。
     唇が茶杯に触れる。こくりと音を立てて、茶が彼の喉を流れていくのがわかる。雪が溶けて、蝋梅の蕾が花を咲かせるように、頬に朱色が差す。濡れた唇で、彼は。
    「五十二点」
    「……精進します」
     鷹揚にリーは笑い、その向かいに座るドクターは嘆息した。
     龍門の私立探偵をしている彼が、ロドスト業務提携を結んだのは最近のことだ。調べたところによると、彼は龍門のバランサーをしているらしく、近衛局とも裏社会とも中立を保っている。――そんな彼がどうして、ロドスの協力することを決意したのか。ドクターは未だ、その真意を測りかねていた。
    「はは、随分上達していますよ。ドクターは覚えが良くて助かります」
     先日は確か、四十六点だったか。着実な進歩である。自分用の茶杯に口をつけながら、思ったことを口にするなら今ではないか、とドクターは思った。こうして彼と二人きりで茶を飲む時間を取っているのは、単に書類仕事の休憩というよりも、彼の真意を探るためという意味合いの方が強い。
     どうして、名を捨てたのか。どうして、家を捨てたのか。――しかし、まずは。
    「リーは茶も料理も随分と上手だよね」
    「おや。おだてたって何も出ませんよ? ここに来るまでに、食堂でも随分働かされましたからね」
     彼がロドス本艦を訪れる際は、食堂はお祭り騒ぎなのだ。その様子を思い出したドクターは笑いながら、首を横に振った。
    「違うよ。どこで学んだんだろう、と思ってね」
     普通、良家の貴公子であれば、そういったことは使用人がしてくれるのではないだろうか。彼はいつ、何のために、その技術を習得したのか。
    「そうです、ねえ――」
     ふ、と彼が遠い目をする。ざわりと、石を投げ込んだように波紋が胸に広がる。
     彼の瞳に、声に、宿るものは。今尚身を焼く熱と、身を裂く寂寥の混ざり合う色。
     まるで、百年の恋情に身を焦がすような。
    「方舟に乗った貴人に、教わったんですよ」
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
    1754

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