帰る場所「うん、そう、予定より早く終わりそうだから……うん、うん、だからそのまま君の部屋に直行するよ。うん、けどこっちから最低でも6システム時間は掛かると思うし何時になるかはわからないから先に休んでていいよ。君だって講義や研究で疲れてるだろ?僕は大丈夫だから……あ、ごめん、そろそろ行かなきゃ。じゃあまた」
「…………」
レイシオは玄関先に転がっている翠色の塊、もとい、自分の恋人であるアベンチュリンを発見してはぁ、と大きく溜め息を吐く。
仕事帰りの恋人がこんな風にして玄関で行き倒れているのを見つけるのはこれが初めてではない。だからといって慣れていいものでもない。
昨日の昼過ぎに掛かってきた通信で遅くとも今朝にはこちらに到着しているという話だったが、目を覚ましてもベッドに横たわる自分の隣は空っぽのまんまで、何か予期せぬトラブルでも発生したのかと連絡をしようと起きればこの有様である。
まぁ、何事もなかったのならそれに越したことはない。尤も、こんな風に行き倒れているのを、何事もないと言ってしまっていいものかどうかは些か疑問ではあるが。
「おい、ギャンブラー」
床に転がっている塊に声を掛ける。
晴れて恋人という関係になって少し経つけれど、いまだに僕は彼の名前をうまく呼ぶことができないままでいる。
「んー……」と小さく返事ですらない呻き声がそこから漏れたけれど、塊は塊のまま、そのまま動き出すことはない。
玄関先に放置するわけにもいかずそっとこわれものを扱うような丁寧さでその身を起こして腕の中に抱き抱える。
ちいさくて軽いからだだ、と彼を抱える度に思うことを今日も思う。それでも今日は怪我ひとつなく帰ってきただけ良しとしよう。玄関先に転がっている彼に傷を見つけて、その具合や無事を確認するまでの生きた心地のなさなんて毎度毎度やっていられない。
今日は久々に互いの休みが被る日で、だから偶には少し遠くの方までドライブでもしようかなんて話していたけれどこの様子じゃ無理だろう。
そもそも彼はしばらく少し遠い星での任務が続いていて、だから今日無理して会うこともないだろう、と僕は言ったのだけれど。
寝室まで彼を運んでさっきまで自分が眠っていたベッドに横たえる。
風呂は目が覚めてからでいいだろう。とりあえず上着とズボンを脱がせて寝苦しくないようにしてやる。
カラン、と何かが床に落ちて転がる音。
「え、」
◆
後生持っておきたいほど大事なものなんてない。
金があれば何でも手に入るのだと思っていたけれど、実際金で手に入るものは僕の心までは満たしたりはしなかった。
「……んー、あれ、レイシオだ」
鼻の頭を撫でていった珈琲の香り。頁を捲る紙の音。それらにアベンチュリンが重い瞼を開けばすぐ傍に腰掛けていた男の視線がゆっくりとこちらに落ちてくる。
「あれ、レイシオだ、じゃない。君は何度言ったら人ん家の玄関で行き倒れるのをやめてくれるんだ」
はぁ、と溜め息を吐いたあとでのばされた手のひらがぐしゃぐしゃと髪を撫でる。
乱暴、とまではいかないけど粗雑な、それでも優しい手のひらだ。
どっぷりと重苦しい泥のような眠りのあとでそれを受ける度に帰ってきたのだと思う。
傍らに腰掛けたままのそのひとに腕を回して、額を押し付ける。ゆっくりと息を吸い込んで吐き出す。肺の中がレイシオの匂いで満ちていく。
「ただいま」
「おかえり」
腹は空いていないか?とか、何か飲むか?とか、聞かれたことには小さく首を横に振って、「もう少しこのままがいい」と口にすればそれを赦す合図のようにパタリと本が閉じられる。そのあとで頭に乗せられた手のひらは今度は髪をぐしゃぐしゃにしたりはしなかった。
「毎度言うがこんな状態になるまで仕事をするな。今日だって無理に帰ってきたりしないで向こうにもう一日滞在したらよかったんだ」
「んー、そうなんだけどそうしたら次いつ休み被るかわかんないし」
それに最後に会ったのいつ?三週間前?ひと月前だっけ。
「早く会いたかったんだよ。わかってよ」
「ふん」
「んー、でも何でだろうね。自分の家ならどんなに疲れててもちゃんとソファかベッドまでは辿り着けるんだけど」
レイシオの指先が髪を撫でたり耳たぶを指でなぞったりしていて少しだけこそばゆい。
「この家の玄関に入るともう君の匂いでいっぱいで、だからかなぁ、安心してそのまんま体に力入らなくなっちゃうんだよね」
「それにここならこうやって君が拾ってくれるし」と言えば「毎度ここまで運ぶ僕の身にもなれ」と軽く額をつつかれる。
そう言いながら捨て置いたりはしない、愛想を尽かしたりもしない君のやさしさに甘えて安心したりしている。
「でももう昼過ぎかぁ。さすがに今からドライブに行くのは微妙だし美術館にでも行く?君何か気になる展示があるって言ってなかったっけ」
「いや、いい」
「あ、もう行っちゃった?」
「そういうわけじゃない。ただ今日はこのまま家で過ごすのも悪くないと思って」
「お家デートってこと?」
「まぁ、そういうことだ」
程良くあたたかい湯の張られたバスタブに浸かっていると、そのまま気持ち良くて溶け出していってしまうのではないかという気にさせられる。そんな状態でわしゃわしゃと髪を洗われたり、マッサージをされたりしているのだから尚更。
「はー天国」
「それは何より」
シャンプーの匂い。心地好い手のひら。
「気持ち良くてこのままほぐれてばらばらになりそう」
「それは困るな」
あはは、と笑えば湯の上を揺蕩うアヒルも揺れる。
「君の家っていつ来ても整理整頓されてて余計なものがなくて気持ち悪いなって思ってたんだけど」
「散らかった部屋では思考も整理されないからな」
「でもこのアヒルはそんな君に選ばれてここにいるんだなぁって、ちょっと羨ましかった」
サァ、とシャワーの湯が当てられて泡が洗い流されていく。
「そんなこと思っていたのか」
「だから君がいつでも来ていいってここの合鍵くれたの嬉しかったんだ。ここにいてもいいって言われてるみたいで」
「そう言ってるつもりだったんだが」
「〜〜〜〜……君って本当さぁ……」
「本当……?」
「何でもない」
ゆらゆらと近付いてきたアヒルのくちばしをつん、と指で弾く。
濡れた額に唇が落とされたあとで、啄むようにキスをする。
数週間ぶりにしたそれに、ああ、ずっとこれが欲しかったのだ、と何かがすとんと落ちてきて僕の中の空白を埋める。
そのまま首に腕を回したら「濡れるだろう」と言いながら拒むことはしない君がすきだ。
すきだ。
バスタブの湯も石鹸の匂いもタオルのやわらかさも髪に当てられるドライヤーの温風も、
どれも全部レイシオと同じまるみを帯びて僕に触れる。
ここにはいたいもくるしいも存在しない。
「ごめんね、なんか何もしないままで一日終わっちゃいそうで」
「いいんじゃないのか、偶には」
僕達はその後、夜までの時間のほとんどをソファの上で過ごしていた。
並んで腰掛けて、隣の肩に頭を乗せて。だんだん溶けて染み込んでいくみたいにソファの上に沈み込んで。
ゆるやかに、穏やかに、意識が溶け出していってしまいそうな時間をただ過ごしていた。
「ていうか、お家デートっていうよりは君が僕の世話をしてるだけっていうか」
一日中甘やかされていい加減ふやけてしまいそうだ。
「お気に召さなかったか?」
「全然、そんなことはないけど、してもらうばっかりだなぁって思って」
「別に、僕がただそうしたかっただけで」
「これ、」と差し出されたのはピノコニーで僕が彼から貰った処方箋の入った小瓶だった。
「えっ、」
「今日久しぶりにそれを見て、君が無事に帰ってきたら君に優しくしてやりたいと思っていたことを思い出した」
手のひらにそれを返されて、僕はなぜだか無性に泣き出したいような気持ちになる。
「いまだにこんなもの持ってたのか」
「君が初めてくれた愛の言葉だから」
「別に僕はそういうつもりじゃ、」
「生きろ、幸運を祈る、なんて、優しい君はきっと相手が僕じゃなくても言ったんだろうけど、あのとき僕はこれを見て帰ろうって思えた。だからお守りなんだ、あれから、もうずっと」
後生大事に持っておきたいほど大事なものなんてない。なかったはずなのに。
これがほんの僅かの間、自分の預かり知らぬところでどこかにいってしまいそうになっていたことを知っただけでどうしてこんなに苦しい。
「確かに、」
レイシオが徐に口を開く。
「確かに僕は相手が君じゃなくても同じ言葉を掛けていたと思うが、その言葉は君だから渡したんだ。それであのとき僕は初めて自分が君を失いたくないと思っていることに気が付いた」
「じゃあやっぱりそうなんじゃないか」
「まぁ……そうなのかもしれないな」
そう言った君の声がなんだか泣き出しそうで、それが堪らなく愛おしくて。
あの真っ暗の闇の中で君からの言葉が灯台の灯りのように行く先を照らしたこと。
帰りたいと思える場所があること。
全部君が教えてくれたこと。
「口では色々言うけど最後に僕を掬いあげてくれるのはいつだって君なんだ、もうずっと」