うれしいかなしいさみしいああ、ほら、まただ。
「いってくるね」と「ただいま」をするときにいつも端正なままで形を失わないその顔が少しだけ泣き出しそうに歪むこと、気付いたのはいつだったっけ。
「そう、今回はちょっと特殊かも。どれくらい特殊かというと……うーん、ピノコニーのときくらい?」
「それは僕も同行した方がいいんじゃないのか」
「んー、でも上からは指示出てないし君だって大変な案件の度に同行するわけにはいかないだろ。君は君で研究やら開発やらで忙しいんだしさ」
「そうか」
その顔に少しだけ影が落ちる。教授はきっと気付いてないんだろうけど。
「大丈夫だって。現地に協力者もいるらしいからさ。今回教授に同行依頼が来てないのはだからじゃないかな」
「…………」
どこか不満そうに彼はじっとこちらを見つめたまま口を尖らせる。
教授って案外わかりやすくてかわいいよな、と思えるようになったのは彼からの好意を素直に受け取れるようになってきたからかもしれない。
「まぁまぁそんな顔しないでよ。ちゃんとお土産買ってくるからさ」
「なっ、別に僕は……」
そうやってすぐにムキになるのも愛おしくてかわいい。
あーあ、本当気付かなければよかったな。
教授からの好意を受け取って、同じだけを返したいと思い始めている自分にも、教授の表情にも。
気付いたらその分離れ難くなってしまう。
「僕がいなくてさみしい?」
「ふん、煩くなくて丁度良い」
そんな顔で言われてもなぁ。
「何笑っている」
「別にー?最速で終わらせて帰ってくるから大人しく待っててよ」
ひらひらと手を振って背を向ける。
時間はまだあったけどこのままここに留まっていたらどこにも行きたくなくなってしまいそうで。
「ギャンブラー」
呼び止められて振り返る。
「無茶はするな。何かあればすぐに連絡しろ」
「大丈夫だよ。最後に勝つのはいつだって僕なんだから」
あー、振り向かなければよかったなぁ。
また君のあんな顔。
もしこれが最後に見る君の顔になるとしたら、それは少しだけ嫌だなぁ。
なんて、言えるわけないんだけどさ。
「じゃあいってくるね」
大事なものができるのは嫌だ。
だってどうせみんな僕を置いていなくなってしまう。
何か大事なものができるってことはさ、そのもののかたちをした場所が自分の中にできてしまって、そこはもうそれ以外で埋めることができなくなってしまうってことで。
埋まらないと解っている空白を増やすくらいなら最初からもうそこには何も、誰も入れなければいい。
それだけのはなし。
「ギャンブラー!」
視界いっぱいに見たこともないくらいに憔悴しきった教授の顔。
「えー、なんで……」
その向こう側にはもう何度も見たような白い壁と天井。消毒液の衛生的な匂い。重い体。
ああ、僕はまた負けられなかったのか。
思わず口から溢れた言葉に教授の顔がぐしゃりと歪む。
「どうしてそんなことを言うんだ」
喉の奥から搾り出したような彼の声はひどく静かで、怒りでも悲しみでもなく、どちらかといえば諦念に近い、けれどその全てを綯交ぜにしたような、あとひとつ言葉を発したら何かが決壊して泣き出してしまいそうでもあって。
「ちゃんと帰ってきたんだから泣かないでよ」
へたりと力なく傍に置かれた椅子に沈み込んだその人の頬に触れたいと思ったけれど、うまく力が入らなくて腕をのばすことすらできない。
「泣いてない」
「でも泣きそうだよ」
「うるさい」
この人はどうしてこんな顔をするのだろう。
僕のことを好きだと彼は言ったけれど、僕の存在が彼の人生にとってどれだけの価値を生むというのだろう。十分ひとりでも生きていけて、どこまでだって歩いていけてしまうのに。
それなのにこんな顔をする。
「君は僕がいなくなったら泣くのかなぁ」
「どうしてこの状況でそんなひどいことが言えるんだ……」
さっきまで泣き出す寸前みたいだったくせに、今度は信じられないものでも見るかのような目を向ける。
「君が僕のせいで泣くのが見てみたいなぁって」
「は?」
「君はそんなことないって言うかもしれないけどいつも僕が仕事に行くときと戻るとき泣き出しそうな顔してるから、戻らなかったら泣いちゃうのかなぁと思って」
「君は僕を泣かせたいのか……?」
てっきり否定されるものとばかり思っていたのに返ってきたのはそんな質問で、少しだけきょとんとしてしまう。
「そういうわけじゃないけど一回泣いちゃえば案外どうでもよくなったりするんじゃないかな」
はぁ、とレイシオは小さく溜め息を吐く。
「君はそうやって今までずっと色々なことを諦めてきたのか?」
「別に僕は泣いたりしないけど……」
どれくらいのことなら泣き出したくなるのだろう。
最後に泣いたのはいつだったっけ。
いたい、かなしい、くるしい、さみしい、
人生の殆ど全部そういうものでしかないのに。
泣いたところで何も変わらないのに。
だからどんなときにどう泣いたらいいのかなんてもうとっくに忘れてしまった。
「僕はもうどうやったら泣けるのかもわからないから、君みたいな人が僕のせいで泣いてくれたらそれでいいような気がして」
「それが自分に好意を寄せる人間に対して言うことか?」
「だからだよ」
君はいつでも正しいから。
正しい君が流す涙にはきっと正当な理由があるのだろう。
それこそ信じるに値する程の。
「つくづく最低だな、君は」
「そんな最低な僕を好きなのは君だろ?」
じ、と橙の瞳が僕を見る。
その指先が髪に触れて、そのまま何かを確かめるように僕の輪郭をなぞる。
「僕はこうやっていつも君が戻ってくるのを待つことしかできないんだ。無力すぎて嫌になる。泣きたくもなるだろう」
「教授、いつも僕のこと待ってるの?」
「そうだが……って何を笑っている」
触れていた指先がふに、と頬を摘む。
「いや、君って本当に僕のこと好きなんだなぁと思って」
「だからそうだと何度も言っているだろう」
力なく投げ出されたまんまの僕の手のひらをレイシオの両手が包み込む。
「だからもう無茶はするな、自分を傷付けるな、いつも無傷で帰ってきてくれ、それができないならもっと僕を頼ってくれ」
それはまるで懇願にも似た、
「いつか死ぬのが嫌だと泣き出したくなるくらい幸せにするからいい加減諦めて首を縦に振ってくれないか」
「あはは、プロポーズみたい」
「だからそうだと何回言えばわかるんだ」
「んー、どうしようかなぁ」
笑って茶化したけれど触れた手のひらがひどくあたたかくて泣き出しそうになったこと、君が一生気付かなければいい。
だって君に置いていかれるのは嫌だもの。
僕の幸運が僕じゃなくて君を守るものならよかったのにな。