N-7N-7
「やあ赤毛の姫君、お邪魔しているよ」
「ちん!?」
見覚えのある赤毛の娘が床下から出てきたので、ノースディンは挨拶をする。応接セットの向かいに座る弟子が、警戒する赤毛の娘に声を掛ける。
「ヒナイチくん、今日のヒゲはお客さんだから、何もしないよ。しないでくださいよ? クッキーがあるけど、食べるかね」
赤毛の娘はノースディンに隙を見せないように不自然な歩き方で室内を大きく迂回し、ドラルクの隣に座った。ノースディンは苦笑した。人間に嫌われるのはどうでも良いが、会話の席では少々やりづらい。
「貴女の美しい顔に憂いがさすようなことはしないとも」
「カーッ! ナチュラルにやっとるじゃないか! なんだそのキメ顔!」
弟子と使い魔がそろって不快感をあらわにした。
「私はクッキーの追加を持ってきますから、何もしないで待っててくださいよ、良いですね」
「クッキー? クッキーならまだ……」
見れば斜め向かいに座る赤毛の娘が次から次へとクッキーを口へ運んでいる。理由を察したノースディンは弟子が隣室へ立つのを見送った。
「ひひょうひょう、ング……『氷笑卿』」
赤毛の娘は頬張っていたクッキーを飲み込む。リスか何かのようだった。
「何か?」
「今日はクラージィを迎えに来たんだろう? 一緒に帰ったら、親子で暮らすのか?」
「あれがそれを望めば」
「そうか」
さくさく。赤毛の娘はクッキーを食べる。
「望まなかったら?」
さくさく。
「……」
クラージィはすでにこの街で生活の基盤を固めつつある。きっとノースディンの元より、このふざけた街での生活を選ぶだろう。ノースディンの血族としてではなく、ひとりの吸血鬼として。
さく……。
赤毛の娘はクッキーをつまむ手を止めた。
「私には兄がいるのだが、兄は私の机のおやつを勝手に食べてしまうんだ。二個あるミニ羊羹を一個くれと、ちゃんと言ってくれれば、私だって平和的にわけてあげてないこともないのに。子供だと思っているから、対等に話をしないんだ。それで喧嘩になる」
何の話だろう。
「うーん……吸血鬼の齢や親子の感覚は人間とは違うのだろうけれど、私から見ればクラージィは私よりずっと大人のひとだ。だから、たぶんあなたも望むことをきちんと言ったほうがいいと思う」
「知っているようなことを言うね、お嬢さん」
「クラージィとは、一緒におやつを食べた仲だからな」
赤毛の娘はまたクッキーを食べ始めた。
弟子がクッキーの皿をトレーに載せて戻ってきた。赤毛の娘が顔を輝かせる。そんなにクッキーが好きなのか?
電話が鳴った。赤毛の娘はスマートフォンを取り出し、応接セットから少し離れて短い通話をする。
「ドラルク、大型の下等吸血鬼が出たそうだ。行ってくる。クッキーは……」
「ご苦労さま。クッキーは帰ってから食べたまえ」
赤毛の娘は事務所のドアから小走りに出て行った。
ノースディンは事務所の時計を見て、ソファから立ち上がった。
「私もそろそろ行くとしよう」
「店まで行くなら、ウチに寄らずに直接行けば良かったんじゃないですかね?」
事務所を出る背中に弟子が言う。振り向くと弟子の使い魔がノースディンに向かってシャドウボクシングをしていた。
ノースディンはまだ人の多い夜道を歩いていく。目指している通りが騒がしい。真横を赤い帽子の退治人が走り抜けたので、ノースディンは呼び止めた。
「あれ? ドラ公の師匠?」
赤い退治人は立ち止まって、声を掛けてきた相手の顔に驚く。
「何かあったのかね」
「カクレツチグモのでかいのが出たって……もしかしてクラージィさん、このへんに来てるんすか」
「アルバイト先だ」
ノースディンは退治人の後を追った。大通りから逃げてくる者を避けながら二人は別の通りに出る。通行止めを示すロープが張られ、赤毛の娘が避難誘導に立っている。
「ロナルド、ひとつ向こうの通りでカクレツチグモの目撃情報がある。行ってくれ」
「ヒナイチ、クラージィさん見なかったか」
「えっ? このへんにいるのか」
赤毛の娘と同じ制服を着た男が走ってきた。
「副隊長! 一般のかたが下等吸血鬼を――」
「怪我人か?」
三人の顔に緊張が走る。
「いえ、斃しちゃったであります」
赤毛の娘は市民の誘導を部下らしき男に任せ、通行止めになった区画の内側に入った。退治人とノースディンはあとに続いた。
そのとき、三人の頭上を、大きな黒い影が通り過ぎた。
「なんだ? あれ……」
「あんなでかいチスイガラス、見たことねえぞ!」
退治人と赤毛の娘が驚きをもって見上げたものをノースディンも見た。鳥に似た生き物。もうずいぶん昔に見たきりの、原初の姿に近い大きさだった。
巨大な黒い鳥は通行止めの区画に降りていく。通りの向こう側に、黒い鳥を追うクラージィが見えた。
ふと薄ら寒い気配がノースディンの胃の腑を撫でていった。身体を内側から冷やされる感触は覚えのないものだ。考える暇もなく地響きが起き、土埃が舞う。黒い巨体が路上にひっくり返っている。
「何だ? 何が起きた」
退治人は銃を構えたまま戸惑っている。
「なんか寒いぞ、急に」
赤毛の娘がノースディンを見た。ノースディンは、私ではない、と言おうとしたが、それどころではなかった。鳥を追っていたクラージィがその場に倒れた。
駆けだした退治人たちを追い越して、ノースディンはクラージィに駆け寄り、抱き起こした。ぐったりと冷たい手触りに血の気が引く。冷えた背中を支える指先に力が入らない。
「……おい」
ノースディンは恐る恐るクラージィに声を掛けるが、反応はない。
「おい! クラージィ!」
「倒れた拍子に頭を打ってるかも。動かさないほうが――」
退治人が横から口を出す。
「起きろ、起きてくれ……!」
と、クラージィの力なく閉じられていた眼が僅かに開いた。
「大丈夫……大丈夫だノースディン」
冷え切った指先がノースディンの頬を撫でた。
「大丈夫……ただ、とにかく……眠い……だけ」
クラージィはそれだけ言うと、再び目を閉じて――寝入ってしまった。ノースディンはわずかの間、すうすうと寝息を立てるクラージィを抱えてぽかんとしていた。
「どうする? VRCで診てもらうか?」
赤毛の娘が気遣わしげにノースディンに言う。VRCというのは、この街の研究機関だったか。
「いや、それには及ばない」
ノースディンはクラージィの腕を掴むと、肩を貸すように背中で支えて立ち上がった。
「このまま連れて帰ることにするよ」
ノースディンはクラージィの身体を支えたまま、バランスを取りつつそっと浮き上がる。
「ケツホバじゃねえんだ?」
退治人が言った。
「靴の裏か、尻かの違いなだけさ」
ノースディンは答えて、街の上空まで一気に浮上した。