小さな町を照らす、淡く優しい光が金の髪を透かしている。静寂の暗闇を響かせるのは鳥に代わって虫達の声。窓から溢れる光を灯す家から、人々の声が微かに聞こえる。それらをどこか遠くに感じながら見上げれば、そこには微笑む月と煌々と輝く星。
少しの間彼らを眺めていた彼は視線を戻し、片足の爪先で地面をとんとんと軽く叩く。そのまま足を軽く動かしたかと思えば、繰り広げられたのは風を切る音を乗せた華麗な足捌き。目にも止まらぬ足技は虚空を静かに裂く。片足でとんっとその場で跳躍し、くるりと横に回る大振りの蹴りが風を起こした。
「……っ」
着地したと同時に地面に付いた彼の手が途端にぴきりと痛み、僅かに呻く。そんな彼の姿を密かに見守っていた、小さな庭園に生い茂る木々が風に揺られてざわざわと音を立てる。まるで、笑っているかのようだ。
彼は笑い声を気にも留めずに一息吐くと、己の両腕を見つめた。その両腕には手から肘の辺りまで包帯が巻かれている。
拳を作り、その手を開く。自身の感覚を確かめるその動作は彼にとってはもはや呼吸と同義だが、今の彼の動きは酷く緩慢で、まだ動物や機械の方が上手く動かせると思う程に不格好な仕種だ。
「まだ本調子には程遠い、か」
ぽつりと零れた呟きを拾う者は、誰もいない。
「あーっ! ゼファー、こんなところにいたのね!」
「……っと、案外早かったな」
――はずだったが、一人の少女に気付かれてしまった。宿屋の中心を担う小さな庭園へと続く扉がいつの間にか開かれていた。ゼファーに向かって数段の階段を小さな少女が慌てて駆け下りてくる。そんなに急ぐと転ぶぞ、と告げる前に彼女が口を開いて。
「もう、絶対安静よ! ってアレンが言って……うわっ!」
残念ながら美しく足を踏み外した彼女のフードを掴んでやることは今はできないため、彼女が地面と仲良くする姿を眺めることになる――と思っていたが、彼女の背後から宙を舞って追い掛けてきていた小さな妖精がフードを掴んでいた。
「カナ様、ご無事ですか!?」
「わっ、と……ありがとう、リッピ!」
態勢を立て直したカナがリッピを見上げる。リッピもまた彼女を心配そうに見つめていたが、その視線は矛先を変えゼファーに注がれた。
「むむむ、ゼファー様……やはり私も四六時中ご一緒しなくてはならないようでございますね……!」
「そんなことはないぞリッピ。それよりお前はカナの側にいた方がいいんじゃないか?」
ゼファーが乾いた笑いを漏らすが、どうやらリッピは本気らしく微塵も揺らがなかった。
リッピに世話をされる。それがどういうことか、小さな妖精を知っている者であれば容易に想像が付くだろう。食事や着替えの準備、ベッドメイキングを済ますどころか果ては就寝時に子守歌など、生活の全てにおいて面倒を見られることになる。
「そんなことがあるのよ、ゼファー! 今すぐ安静にしないとアレンに言い付けるんだから!」
両手を腰に添えながら言い張るカナは普段よりも強気だ。子供じゃあるまいし、アレンに言い付けられたから行動を控えるかと聞かれればゼファーは首を振る。そんなゼファーの表情から察したらしく、言うことは聞かないって顔ね、とカナは得意げに笑みを浮かべた。
「だけど、そうはいかないわ! だって、ゼファーの今の主治医はアレンだもの」
自信満々のカナの発言に思わず目を丸くする。なるほど、それも一理あるか。主治医の言うことには従うべきである。
不本意ながらも納得しつつ、つい顎に手を添えようと動かした腕がずきりと痛んだ。自身でやったこととはいえ予期せぬ痛みに堪らず声を漏らすと、忽ちリッピが慌て出す。一方でカナはだから言ったでしょう、とでも言いたげだ。
「それじゃ、俺の主治医が戻ってくる前に部屋で大人しくしておくとするか」
「ゼファーさん、その必要はないですよ!」
鼓膜を震わせたのは、もう一人の少女の声。サラ、とカナが笑顔で振り向いた先にはにこりと微笑む少女の姿。そして彼女の背後には、噂をすればなんとやら。
「極力動かないで、って言ってたよね? ゼファー」
困ったような苦笑とは裏腹に、言葉の端々に怒気が込められているように思えたのはきっと気のせいではない。
「あー……アレン大先生」
謝罪の言葉よりも先に口を突いて出たのは、そんな一言だった。ゼファーがこの場を誤魔化すべく頭をがしがしと掻こうとするが、やはり腕は碌に持ち上がらなかった。
「ゼファーが身体を動かさないと落ち着かない人だってことはよく知ってるよ。だから、無闇に君の行動を制限したつもりじゃないんだけど、ね」
とんとん、とアレンはゆったりと階段を下り、ゼファーの眼前に立つ。
「ただ……みんなも、僕も……君のことが、心配なんだよ」
アレンは顔を俯かせたままそう言って、縋り付くようにゼファーの腕にそっと手を添える。
ああ、知ってるよ。みんなが酷く、優しいことを。ゼファーはアレンの手から滲み出る不安を拭うように、応えるように、僅かに動かせる左腕で、小さく感じるアレンの背をそろりと撫でた。
「ゼファー。はい、あーん」
「……おう」
アレンの優しい一言と共に口に向けられたフォークに、ゼファーは大人しく口を開く。出来立てのハンバーグは、ゼファーの口内に収められた。次いで、くすりとひとつ鈴の音が鳴る。その音を立てた少女にゼファーはじとりと不満を訴える目を向けたが、彼女はなおも漏れ出る笑いを堪えていた。
「ご、ごめんなさい! ゼファーさんがなんだか子供みたいで、つい……」
「ふふっ! アレンはお母さんみたいね!」
「しかし、最初の頃と比べますと羞恥心がなくなったようでございますね。ゼファー様」
少なくなったみんなの分の紅茶をカップに注ぎながら、リッピがどこか生温かな視線を向けて笑いが滲んだ声を乗せた。
「……おい、何楽しそうにしてやがるリッピ」
「むおぉ! ゼファー様、ご勘弁を! わはっ、わはははっ!」
もふもふの身体を容赦なくもふもふとしていると、腕に痛みが走り大人しく手を引っ込めた。サラが心配そうな視線を寄越していたが、それに軽く手を挙げて応える。
「ったく。恥ずかしいも何も、さすがに三日もされてりゃ慣れるっての」
そして再び、丁寧に小さく切り分けられたハンバーグがゼファーの口に運ばれる。ゼファーのその姿は確かに幼い子供を連想させた。
「ねぇ、ゼファー。腕はどれくらい動かせるようになったの?」
「あー、リッピをもみくちゃに出来る程度だよ。まあまあだ」
「今のゼファーのまあまあは信用できないわ。アレン!」
カナはゼファーの回答を一蹴してアレンに視線を投げる。じゃあ何で俺に聞いたんだよ、と口を突いて出そうだったが程良く温かなハンバーグと共に飲み込んだ。我ながら厚い信頼の無さだ、とゼファーは肩を竦める。
「ある程度動かせるようにはなってきてるよ。ただ重たい物を持ったり腕を動かしすぎると痛みが出てくるから、もう少し安静にしてないと、だね」
「アレンの治癒術でも一度で治しきれないなんて、本当に重傷なんだね……」
「ゼファー、まだ一人で色々できないものね」
だから人を子供みたいに言うなっての、と告げようとした口は無常にもアレンにより意図せず塞がれた。仕方がない、食事が美味いので黙っていてやろう。
「ですが、着実に完治には近付いてきているのでございましょう? ならば、私達でゼファー様の安静を死守せねば!」
「うん、そうだね! 鍛錬しちゃわないように見張っておかないと!」
どうやって安静させようか、と本人を目の前にして作戦会議を始めた彼女達に思わず呆れの溜息を吐く。真剣な彼女達にはその溜息すら届いていないらしい。どんな状況でもなんだかんだで彼女達の明るさに救われていることを、ゼファーは人知れず実感していた。
やがてみなが食事を終える頃に会議は終結し、方向性は決まったらしいがゼファーは素知らぬ振りをした。後片付けをしていると、ふとゼファーに視線をやったアレンがひとつ声を上げる。彼の視線を追えば、ゼファーの包帯が少しばかり汚れていた。
彼らに気付いたカナが荷物の中から包帯を取り出した時、彼女もまた声を上げる。彼女が手に持っている包帯はもう残り少なく、荷物の中にも予備の包帯の姿はなかった。もう少しあると思ってたんだけど、とアレンが首を傾げる。
「うーん……最近アレンの治癒術に頼ってばかりだったし、包帯とかもあんまり使ってなかったから買い出しも忘れちゃってたのかも」
「先日もどたばたと慌ただしい日でございましたゆえ、気付けなかったのでしょう。これまでアレン様の治癒術に幾度助けられてきたかがよくわかります……」
申し訳なさそうにするリッピに、あんまりそう言ってっと逆にアレンが委縮しちまうぜ、とゼファーが告げると、リッピが我に返ってぴょんと身体を跳ねさせた。
アレンにとって治癒術が皆の力になることは当然なのだ。いつぞやの夜に言ったように、それこそ今更だろう。その証拠に、アレンはただ微笑んでいた。
しかし結局気遣いを見せた彼女達はゼファーとアレンを宿屋の一室に残し、買い出しに向かってしまった。他の細かな買い出しもあるので時間がかかるかも、と言い残して。ばたん、と閉じられた扉を二人して見つめる。
「ったく、あいつら……」
「うん。やっぱり、みんな優しいよね」
それじゃあ包帯替えるから、手出して。アレンの言葉に応え、ゼファーは緩慢な動きで腕を差し出した。しゅる、と優しく解かれた包帯の下には、赤い地図が描かれた皮膚。特に肘から下は酷い傷――火傷を負っていた。
アレンが簡易な詠唱を紡ぐと温かな光がゼファーの両腕にきらきらと降り注ぐ。数日間繰り返し治癒術が掛けられている腕の火傷の痕は、僅かにだが和らいで見えた。毎日悪いな、と告げようとしたゼファーがアレンを見遣ると、彼が傷痕にじっと眼差しを向けていることに気付く。
「傷、気になるのか? 俺は――」
気にしない。そう言いかけて、言葉を飲み干す。きっと自分が気にしなくても、その分アレンやみんなは気にしてしまうだろう。
「……お前の治癒術なら、傷痕なんて残らないだろ」
「うぅん、どうだろう。時間が経つと治りにくくなるし、ゼファーのその傷みたいに完全な傷痕になると治せないから……」
アレンがゼファーの左目の下の傷をそっと撫でた。そんなアレンの手に、ゼファーがぎぎ、と腕を半ば強引に動かして触れる。
「ま、これは治す必要なんざないけどな」
「……ふふ、そうだね」
アレンが、口元を綻ばせた。
ゼファーの手を取り、指を一本ずつ丁寧に触っていく。痛みはないか、感覚はあるか、動かせるか。彼のその手付きは、あまりにも優しかった。
深い意味は持たず、手首に問題はないかと指を絡めてゆっくりと上下に曲げられたが、ゼファーがつい自身の指に力を入れる。がっちりと絡み合った手を見て、アレンがゼファー、と困ったような笑みで制止の声を上げた。痛みこそあったが、絶好の機会を逃すゼファーではなかった。
「指は昨日より動かせるようになってるね。これならシャワーぐらいだと一人でも問題なさそうだけど……」
「あー、動かすとまだ多少痛むから引き続き頼む。悪いな」
「じゃあ、今日は様子見だね」
両腕が使えないのは想像以上に日常生活に支障が出るものだ。そんな中、率先してゼファーの面倒を見ていたのはアレンだった。食事も、着替えも、身体を洗うことも勿論のこと。数日前の自分にアレンに身体を洗ってもらうことになるぞ、なんて伝えても何を言っているんだと足蹴にされるだろう。
大変心臓に悪いが、美味しい思いをしていることもまた事実。時間は掛かってしまうもののシャワー程度であれば一人で問題ない状態にはなっていたが、それをアレンには告げない。ただの浅ましい男の下心だ、なんて口には出せなかった。痛みが僅かに残っているのも本当ではあるのだが。
しかしアレンの熱心な看病っぷりはまるで本当の医者だ。とは言っても治癒術を得意とするだけで、彼のここ数日の言動はこの町の医者の受け売りだ。
治癒術で応急処置はしていたもののゼファーは誰が見ても重傷だったため、近くにあったこの町に駆け込んだ時には随分と驚かれた、らしい。それだけあの時遭遇した火の精霊の力が強力だったというのもあるが、アレンの治癒術でなければここまでの回復は見込めなかっただろう。
「しかし、やっぱりアレンの腕は最高だな。俺があんな無茶できたのも、お前の治癒術のおかげだよ」
ゼファーが告げると途端にアレンの表情に暗雲が立ち込める。そして、彼は眉尻を下げたまま弱々しく微笑んだ。
「僕を、そうやって無茶する理由にしてほしくはない、かな」
瞠目する。賛辞の言葉のつもりだった。信頼を伝えたつもりだったが、彼の誇りを傷付けてしまった。
多少の怪我であれば、アレンはいつものことだとただ柔らかく微笑んで応えただろう。だが、今の彼の脳裏に色濃く残っているのは、人の身が焼け焦げる匂いに、焼け爛れた腕、変色した皮膚、駆けていく相棒の背中と――酷い重傷を負ったゼファーの姿。
お互いの無茶は支え合う。それがゼファーとアレンだ。しかし――
「……悪い。お前を傷付けるつもりは、なかった」
言い訳に過ぎない言葉だ。誰かが傷付くことで、傷付く者がいる。ましてやアレン達はそれが顕著な優しい者達だ。あまりにも軽率だった、とゼファーは己の発言を後悔した。
顔を俯かせていたゼファーの耳に、くすりと微かな笑いが届く。
「僕の方こそ、ごめん。ちょっと意地悪だったかな」
「……焦らせるなよ、相棒」
堪らず深い溜息を吐いてしまう。どうやら全てが本心ではなかったらしい。あまりにも無茶をしたゼファーに対して、アレンなりの意趣返しだ。両腕がまともに動いていれば、今頃アレンの肩を掴んでいただろう。
「僕の腕を信頼してくれてるのは嬉しいけど、治癒術は万能じゃないんだ。治せない傷だって、たくさんある」
アレンはそう言って、暗い表情で視線を落とした。
俺はそうは思わないがな、とゼファーは内心で呟く。きっとこのことを伝えても、今のアレンは力無く微笑むだけだ。
「……お前も、無茶すんなよな」
きっとアレンは、ゼファーの治癒で相当量の魔力を使用したはず。彼の魔力も精神力も、恐らく随分と削られただろう。
腕をどうにか動かして、アレンの左手を手に取った。そこにはじっと見つめなければ気付かない程度の、小さな火傷の痕。ゼファーばかりを優先して、後回しにされた傷。あわよくば、彼の傷こそ残らなければいい。そう願う。
「今のゼファーよりは、無茶しないかな」
「はは、どうだか。……アレン」
彼の名を呼ぶと、アレンはゆるりと顔を上げる。そうして、抱きしめられない代わりに――唇を重ね合わせた。
ごうごうと響く轟音と共に地面を抉って迫り来るのは、空を劈くほどに灼熱に塗れた炎の渦。地を焦がし、木々を焼き尽くし、辺りは忽ち荒野と化していく。鳥は空高く羽ばたき、動物達は逃げ惑う。燃え盛るそれは、人々から永く祈りを捧げられなくなり怒り狂った火の精霊達が生み出したものだった。
彼らの想定をも超えた魔力が宿る渦は、周囲を真っ赤に染め上げていく。一歩近付くだけでも全身が塵となってしまいそうだ。その渦は、サラとカナが避難に当たっている人々が住まう町の目前まで迫っていた。
鎮火させることはできないかと水の魔術を放ったり地術で押し留められないかと試したが、全て焼け石に水だ。アレンの氷の魔術は言わずもがな相性が悪すぎる。彼の氷の棺は僅かに渦の動きを阻んだものの、熾烈な炎に溶かされた。リッピの魔力による障壁もまた力及ばずだ。
町の人々には何とかするとは言ったが、ここまで強大な魔力は想定外だ。どうしたものか、と火の粉を周囲に巻き散らす強風に耐えていると、何かに気付いたアレンが声を上げる。
「ゼファー! あの渦の中心、精霊がいるみたいだ!」
目を凝らして渦の中心に視線を向けると、アレンの言葉通り他の個体よりも大きな精霊が確認できた。リッピの探知によればこの凄まじい魔力の出入口はどうやらあの精霊になっているらしい。他の精霊が放つ魔力を受け止め、それを放出している。
ならば、その出入口を塞いでしまえばいい。そうは思うが炎の渦の勢いは絶えることなく、空をも焦がしていく。術を放ってもあの中心には届かないだろう。かと言って、強力な術を紡ぐための時間も惜しい。
「――アレン! 悪いが、後頼んだ!」
振り返ることすらしないゼファーの言葉で察したのか、アレンがゼファーの名を呼んで彼を引き留めようとする。君だってただじゃ済まない。その言葉は轟音の中にあっても相棒には届いていたはずだが、ゼファーは彼らを置き去りに地を蹴った。
風を切って駆け抜けたそのままの勢いで炎の渦に飛び込む――直前に、氷の魔力が全身を覆った気配があった。相棒のサポートに、ゼファーは不敵に笑う。
渦の中は、想像以上に苛烈だった。熱い、なんて言葉では追い付かない灼熱の地獄。アレンの魔力が次第に剥ぎ取られ、他の生き物の命の灯すら糧に変える勢いの紅蓮の焔に忽ち皮膚が焼け焦げていく。紅い波は喉を過ぎ去り、肺が消し炭になりそうだった。
侵入した異物を拒絶する暴風を押し返しながら、一歩一歩足を前に進めていく。
そうして死に物狂いで辿り着いた中心にいる精霊は、ないていた。
魔力が暴走している苦痛か、魔力を固定する器となったことへの嘆きか。涙も流さず、言葉も通じない精霊の想いは、ゼファーにはわからない。
理解できることは、ただひとつ。精霊自身でもどうしようもないほどに、炎の魔力に雁字搦めにされていたこと。
息苦しい。熱くて堪らない。熱が痛みとなって襲い掛かる。自分という形が保てているのかすら認識が危うい。それでも、両腕を目一杯中心に伸ばして――解呪した。
ああ、きっと。浄化の炎は、こんなものでは済まないのだろうな。
意識を手放す直前に思ったのは、そんなことだった。
「ゼファー。腕以外の火傷はもう平気なの?」
両腕を保護する包帯をくるくると巻き直しながら、カナが問い掛ける。
「ああ、特に問題ないぜ。アレン大先生のおかげでな」
ゼファーは両腕に特に酷い火傷を負ったが、それ以外も酷い有様だった、らしい。伝聞なのは最も凄惨な状態を自ら確認できていないからだ。それは目の当たりにしたリッピが狼狽し、アレンが顔を歪ませるほどの重傷だった、ということしか把握できていない。
ちなみに喉や肺に影響はなく外傷のみだったというのが不幸中の幸い――なのだが、少しばかり疑問を抱く。あれだけの熱波を至近距離で浴びて、身体の内部に異常は見られなかっただなんて。思うに、アレンの魔力に覆われたことが少なからず関係しているのだろう。彼はきっと、何も言わないだろうが。
身体の傷に関しては、元々ゼファーの全身の至る箇所には幾つかの小さな傷跡があるが、火傷の痕が見受けられなかった。アレンの治癒術によって完治している何よりの証だ。
そもそも全身の傷はアレンに隅々まで確認されているのだ。だが、そのことよりも服を脱ぐ際、腕の動きを見るために告げられた言葉がゼファーの記憶に今も色濃く残っている。
『両腕は挙げられる? はい、バンザイしてみて』
幼い子供に語り掛けているような優しげな口調と態度。なんだか新しい扉が開きそうになってしまったが、既の所で耐え抜いた。ズボンを穿く際も腕に力が入れられないため手伝ってもらっていたのだが、今思い返せばあれは確かに子供のようだった。カナの指摘はあながち間違いではなかったわけだ。
何より、極め付けは風呂場。全身を隈なく確認されることは勿論ながら、非常に距離が近い。アレンは傷の様子を見ていただけなのだが、残念ながらゼファーの中では邪な思考が芽生えていた。彼の身体をつう、と伝っていく滴。やけに鼓膜を響かせる声。いかん、これ以上はいけない。
彼が不埒な回想をしているとは露知らず、カナはふわりと花を咲かせて笑う。
「そう、良かった! みんな、とっても心配してたんだから」
「知ってるよ。まぁ、今回はさすがに無茶だったかもな。悪かったよ」
「むー、ほんとに反省してるの?」
けろりとした顔をするゼファーに、カナが不満の声を上げる。
「……ゼファーが目を覚ますまで、アレンは、私達が心配になるくらい苦しそうな顔をしてたわ」
「……意識がなくたってわかるさ、そのくらい」
アレンにどれほどつらい思いをさせたかなんて、手に取るようにわかってしまう。あの時はあの方法しかなかったとゼファー自身は思っているが、果たして相棒はどうだったのだろうか。
「それよりカナ、包帯の巻き方間違ってんぞ」
「うわわっ! ちゃんと巻いてるのにどうして緩くなってるの!?」
「あのなぁ……」
呆れの溜息一つ。だけど今はなんだかひどく可笑しくて、声を上げて笑った。
「そういえば、結局精霊はどうなったんだ?」
ベッドに腰を下ろすゼファーがアレンに疑問を投げると、アレンが彼の髪を拭きながら口を開いた。
「それならゼファーが意識を失ってる間に聞いたよ。ちゃんと祭壇を作り直すことにしたんだって」
そもそも事の始まりは、数百年前から精霊に祈りを捧げるために置かれていた祭壇が、数年前に町長により撤去されたことだった。ゼファー達が泊まる隣町の問題の町長は精霊を快く思っていなかったようだが、さすがに今回の一件で懲りたらしい。僅かにだが飛び交う火の粉の被害を受けた町、炎の渦で破壊された自然。何より、祈りによって自分達の町が精霊に守られていたことを身を以て理解した、と。
「ま、賢明な判断だな」
祈りさえあれば、あの精霊達も怒りを露にすることはないだろう。人々の祈り――つまり彼らにとっての栄養が供給されなくなっていたのだから。空腹の人間の機嫌が悪くなるのと同じこと。
渦の中心で器になっていた精霊については、人間達の価値観では推し量ることはできない。基本的には火の精霊達は姿を現さないらしく、それが彼らの在り方なのか、今となっては真意を知る由もないが。
髪を拭き終えたアレンはタオルを畳んで、ゼファーの身体を確認する。彼の筋肉質な身体からは火傷の痕は既に消え去っており、重傷だった両腕には傷の一つも見当たらなかった。
「……うん。もう大丈夫そうだね」
「ああ。手も問題なく動くし、腕を動かしても痛みはない」
「ほとんど完治、かな。念のため、明日先生にも見てもらおうか」
火傷を負ってから五日目の夜。隣の部屋のサラ達も寝静まった頃、大先生からお墨付きを貰ったゼファーが両腕を高く突き上げ伸びをして、そのままぼふりと仰向けにベッドに倒れ込んだ。
「こんな窮屈な思いをしたのは久しぶりだったぜ」
「無茶も考え物だよ、ゼファー」
「おいおい、それをお前が言うか。アレン」
ゼファーが寝台に沈み込んだまま視線を向けるアレンの腕には、ゼファーの衣類が抱えられている。今日でアレンに着替えを手伝ってもらうのも終わりか、とアレンからそれを受け取ると、彼がどこか楽しげに微笑んだ。
「この五日間のゼファーのお世話、結構楽しかったよ」
「そう言ってくれるなよ、相棒……でもま、お前に世話されんのも悪くなかったかもしれん」
ゼファーは性格ゆえに、自身が弱っている姿を見せることを良くは思わない。彼が無防備な姿を見せるのも、アレンにだけだった。
アレンがふわりと口元を綻ばせていると、半身を起こしたゼファーがアレンの腕を掴んだかと思えば、彼をそのままベッドに押し倒した。
「隙あり、だ。今度は俺がお前の世話をする番だよな」
アレンに馬乗りになるゼファーが上半身が露になったままで、彼の腕を抑え込んでいた。影が落ちたゼファーの表情には、どこか色香が漂う。
「ダメだよ」
ぴしゃり、と音がしそうな簡潔な一言。一瞬にして鼻先がぶつかってしまうほどに縮められた距離に、アレンは動揺することなくゼファーの誘いを跳ね除けた。
相棒の態度にゼファーは堪らずがっくりと肩を落とす。明らかに雪崩れ込むこの雰囲気でそう言ってのけてしまえるアレンはやはり曲者だ。
「お預け、か?」
「……今は、ね」
暗がりでもわかる、赤く染まったアレンの頬。目を丸くしたゼファーが、くしゃりと笑う。
「仕方ねぇ。なら、今は我慢するか」
「うん。……ふふ、おやすみ、ゼファー」
背中に回された腕にふわりと抱き締められ、ぽんぽんと優しく叩かれる。まるでまだ子供扱いをされているようだ。ゼファーはそのまま口付けをひとつ落として、どさりとアレンに重なるように横になった。
「ああ。……おやすみ、アレン」
そうして二人は絡み合いながら、夢の中へと旅立った。彼らは、朝一番にカナがノックもなしに入ってくることを、まだ知らず。