2025-04-04
なんだか煩くて目が冷めた。お目目の周りが痛くてぎゅっとこすって、また痛い。暗くて、ランプの灯りが小さくて、少しだけあったかいお部屋。知らないお部屋。
ピリカはどうしてこんなところにいるんだろう。おとうさんとおかあさんはどこ?
石の床ははだしの足には冷たかったけれど、ここでじっとしている方がよっぽど嫌だった。
重たい扉を開ければ、わっと人の声がした。なんだか大騒ぎの大人たちがたくさんいる。お祭りの前と言うよりもなんだかもっと怖い。金属がかちゃかちゃと鳴っている。怖い。怖い。あの音は、嫌い。
足が震えた。ドアノブで体を支えても、体の芯からの震えは収まらない。怖い音。怖い声。薄暗い戸棚の中から出たら、おとうさんとおかあさんがいて。
悲鳴が上がった。ピリカの口からだ。忙しそうに廊下を行き来していた大人たちが、初めてピリカに気づいたのか、一斉にこっちに視線を向けた。怖い。怖い。
「起きたみたいだぞ」
「泣きそうじゃねえか。お前らの顔が怖いから」
「いいからポールかレオナさんかバーバラさん呼んで来いよ」
両手いっぱいに剣や矢を抱えた人たちがピリカの周りに集まってくる。怖くて怖くて、扉の中に隠れたくて、でも体が動かなかった。カタカタと震える事しか出来ない。ここはどこでこの人たちは誰なんだろう。おとうさんとおかあさんはどこ。
思い出した。べたべたの赤いもの。血がいっぱいについて、だんだんと冷たくなっていったおかあさん。見たことのない怖い顔で目を見開いていたおとうさん。ピリカは知っている。もうおとうさんとおかあさんはいないんだ。
目の奥が熱くなって、押し出されるみたいに涙があふれた。目元にしみた気がするけど、そんなことどうでもいい。
「ああ、泣くな」
「泣くなとか言えねえだろ。ほら、これ使っていいぞ」
「もっと綺麗な布ねえのかよ」
「あんたら、ちょっと退きな」
女の人の声がした。髪を撫でられる感触がある。涙でゆがんだ視界に、綺麗な人の顔があった。お化粧をした、初めて見る女の人。
「ピリカだね。初めまして、あたしはレオナ」
「れ、」
レオナさんと名前を呼びたかったのに、声にならなかった。喉がひっくり返ったみたいに声にならない。涙ばっかりたくさん出る。ご挨拶しないといけないのに。
「大丈夫。ジョウイから話は聞いてるよ」
レオナさんがハンカチでピリカの涙を拭ってくれる。でも全然足りなくて、ピリカの目から落ちる涙が止まることはない。どうやって止めてたか、どうしても思い出せない。怖くて、悲しくて、さみしくて、ぐちゃぐちゃの中から涙を選んで吐き出しているみたい。
「抱っこしていいかい。ホットミルクでもどうだい」
「お、いいですね」
「あんたらは仕事しな」
ピリカが頷くと、レオナさんはぎゅっと強くピリカを抱っこしてくれた。いいにおいがする。おかあさんとは違う、お化粧とお花の匂い。レオナさんが歩き出す。あとから男の人がピリカのくまちゃんを差し出してくれた。レオナさんが渡してくれたハンカチと一緒に抱きしめると、やっと、涙が少し減る。でも全然止まる気配はなかった。
「ジョウイおにいちゃんとタイラギおにいちゃんは?」
「ちょっとお使いにリューベまで行ってるよ。すぐに帰ってくるさ」
鍛冶屋さんの炉の前を通って、階段を上がる。一階も下の階に負けず劣らず賑やかだった。でもお祭りの楽しそうさとは少し違う。何が違うのか、ピリカには分からないけど、どこか、なんだか嫌な感じがした。
武器がたくさんあるからかしら。ここはトトの町ともお家とも違う。
階段を上がり切ったすぐそばのカウンターにはなんだか大きい熊みたいな人がいて、レオナさんに手を上げた。
「なんか腹減ってさあ。つまめるもんねえかな」
「ちょっと待ってな。ピリカ、この人に抱っこしてもらっていいかい」
おとうさんよりずっと大きい人だ。その人は一瞬目を瞬かせたけど、顔全体が笑顔になってピリカに手を伸ばしてくれた。
ビクトールさんっていうんだって。抱っこされるとレオナさんとは全然違うけど、あったかい。またちょっと涙が減って良かった。
片手だけで抱っこされるのは初めてで、こんなに高い位置でものを見るのも初めてだ。ちょっと怖くてしがみついた体は大きくて固い。でも怖くはない。
「ビクトール、あんたもホットミルクでいいかい」
「いやもうちょい腹に溜まるもんにしてくれよ」
「ナッツのはちみつ漬けならあるね」
「いいじゃねえか」
ぴったりとくっついていると暖かい。すこし怖くなくなってくる。レオナさんがミルクをいれた小さなお鍋をかまどにかける。次にすこし手を伸ばしてとった小さなツボから白いお砂糖をお鍋に入れてゆっくりとかき混ぜ始めた。ふつふつとお鍋の中のミルクが泡立つのはすぐだ。
二つの大きなマグカップに、ミルクがゆっくり注がれる。最後に小さなお匙に金色のはちみつを掬って、片方のミルクにだけとろりと落としてそのままかき混ぜる。くるくるくると回る数を数えて、分からなくなった。
「はい。熱いからね」
差し出されたマグカップにはミルクがたっぷり入っている。ハンカチとくまちゃんとの交換でマグカップをうけとれば、またあたたかくなってようやく涙が止まった。ひっく、と喉の奥に残ったくせを宥めるように、ビクトールさんが髪を撫でてくれる。
ふうふうと吹いてミルクに口をつければ、暖かくて甘い。喉の奥のいがいががすこしだけ収まったような気がする。ぽろりとまた涙が出たけど、何も言わずにビクトールさんが拭ってくれた。
「ジョウイな、すぐに帰ってくると思うからよ」
ビクトールさんもマグカップをもって、入口の方を眺めている。時々そばに人が来て、ピリカの姿に一瞬だけ驚いて、でも何事もなかったみたいに何かを内緒話して行く。多分怖い話なんだと思う。
ビクトールさんはピリカに聞かせないよう、声を小さくしてくれているから、ピリカも聞こえない事にする。ハイランドとか。軍隊がどうとか、怖い怖いお話だ。
マグカップの中身がなくなったころ、突然入口がざわめいた。馬の蹄の音がして、たくさんの人の話し声がする。なにか、良くないことが起こった時の大人の話し声。たくさん雨が降ったとか、そういう何か良くない事が起こった時によく似ていた。
入口の扉が開かれ、大人たちが急ぎ足で入ってくる。真ん中の人がいろんな人から一度に話を聞きながら、ビクトールさんに近づいてきた。
「えっと、ピリカか」
少し怖い顔をしたその人はちょっと立ち止まって、それからビクトールさんに抱っこされたピリカと視線を合わせてくれた。青い色の目が優しく笑う。
「ごめんなピリカ。こいつは良い椅子だとは思うんだけど、返してもらっていいか」
「お仕事?」
「そう。大事な、お仕事」
ピリカは優しくていい子だね。おとうさんとずっと一緒に居たかったけどお仕事だったら仕方ない。ピリカがそういうと、おとうさんはいつもそういって褒めてくれた。だから、ピリカは我慢できる。
「うん」
「いい子だ。助かるよ」
その人もピリカを撫でてくれた。ビクトールさんも撫でてくれて、まるでお姫様みたいに椅子に座らせてくれた。くまちゃんも渡してくれて、また髪をなでてくれる。立ち上がったビクトールさんは内緒話を受けて、ほんのちょっとだけ眉を寄せた。吐いた息がため息に似ていると思う。
「マジかよ」
目を覆って、少し考え、ビクトールさんはまたピリカを見た。
「じゃあ俺は仕事に戻るが、ピリカ」
しゃがんでピリカに視線を合わせ、にっかりと笑う。
「ジョウイ達が帰ったら出迎えてやってくれな。大事な事をあいつらに任せてるからよ」
もしかして、ジョウイおにいちゃん達に関係する悪い事なのかもしれない。でもそれを聞いても、ビクトールさんは教えてくれないとピリカは思う。
「うん、お兄ちゃんたち、待ってる」
「頼んだぞ。多分、すぐ帰ってくるからよ」
深く頷き、くまちゃんと抱えなおす。レオナさんがカウンターから顔を出し、二人に何か包みを押し付けているのが見えた。