2025-06-29
兵舎の外に椅子と小さなテーブルを持ち出してはさみと櫛と霧吹きを並べれば、にわか床屋の開店準備は終わりだ。木陰を吹き抜ける風はいつも通り強いけれど、夏に向かう空気を吹き飛ばして結構気持ちがいい。良い季節だ。
ルカが死んだ。俺たちだけの力じゃなくて、ありゃあ嵌められたんだと思う。ハイランドでもあいつの狂気を受け止めきれなくなったのだ。だから必ずあちらからのリアクションがあるはずだ。講和かそれともまだやりあうのか。決めるのはジョウイなんだろうな。
すくなくとも、うちの軍師様は終わると思っちゃいない。タイラギにもナナミにも申し訳のねえ事だけどさ。
ただハイランド軍が引いていったのはたしかだから、俺たちにも暇ができる。警戒を怠ることはしないとしても、前線に付きっ切りでいないといけないだとか、処理すべき仕事が山積みで崩した端から積まれていくなんて事はないわけだ。
ありがてえよ、それだけは。
日のあるうちに暇ができた。珍しくフリックも同じような時間が空いたというのだから、それもまた日頃の行いという奴だろう。
「日頃の行いが悪い奴がなんか言ってる」
「悪いこたねえだろ。訓練だって真面目にこなしてるし、書類仕事はまあぼちぼち」
「ぼちぼちじゃダメだろ」
「誰も俺に完璧な書類なんて求めてねえんだから良いんだよ」
そう言えば、フリックは小さく笑って俺の髪を撫でた。随分ほったらかして好き放題に伸びた髪をわさわさと荒く撫でられるのは気持ちがいい。もう括れる長さだから別にそのままほったらかしていても良いのだが、乱戦になると掴まれて面倒なこともあるからな。
戦争がこれからもまだ続くのなら、暇な時期に切ってしまうのが一番だ。その辺の髪結いに任せたっていいのだけれど、あんまり人に刃物をもって後ろに立たれるのは好きではない。何をされると思ってるわけじゃねえけど、こういうのは理屈じゃないんだよな。
結果として、似たような感覚を持っているこいつに頼む事になったのは一緒に旅を初めてそう経たない頃だ。砂漠を初めて越えたぐらいじゃなかったかな。
「けっこう伸びたな」
旅の空ではお互いに出来る事はお互いで済ますのが一番楽だ。丁寧に櫛でとかして、霧吹きで湿らせたらなんとなくの長さを決める。そんな、適当に切ればいいのにと思いはするけれど、フリックに丁寧に扱われるのは気分がいいのでそのままだ。
はさみが入る音がした。人の賑やかなざわめきが聞こえ、木の葉が揺れる音もする。フリックの呼吸音とか、髪を払う音と感触とか。
戦争は終わっちゃいないが、今この瞬間は随分と穏やかだ。
「お前はさ」
目を閉じて、半分ぐらい寝ていた。わさわさと髪をさばいて、また櫛を通す。
「俺とどうなりたいんだ」
突然の言葉に、思わず振り返りかけてじっとしてろ、と怒られる。はさみが鳴るもんだから、その動きには従うしかない。他の誰にも聞こえないけれど、俺には聞こえるぐらいの小さな声は、聞き間違えようがないぐらいはっきりしていた。
「どこまで欲しいんだ」
穏やかな午後の話題としては、なかなか刺激的だ。長さを整える時間はさほどかからないだろう。
どこまで言っていいものか。実際にやりたいことか、それとももっと違う話か。抱きたい、と言うのは簡単だけれど、それを受け入れてもらえるかは分からない。
抱きたいと望むのが、オデッサに見せたことがない顔がみたい、という願望だと知れれば、流石に引かれるんじゃないか。
「次、ってあるだろう。そこまでいらないってんなら別に俺はそれでもいいし」
「いらないことない」
ガキみたいだ。もっと欲しいよ、それはもちろん。でもぜんぶさらけ出すのはあんまりにも情けない。
振り返れないのがもどかしかった。フリックはどんな顔をして、昼間っからこんな話題を口に出してるんだろう。
小さな笑い声がした。
「ガキみたいな言い方だ」
その笑みが、少しだけ自嘲ぎみにかすれる。
「こうやって顔を合わせないようにしないと言えない時点で、俺もまだガキみたいだ」
ちみちみと飛び出した毛を切り終わり、もう一回わさわさと髪を乱してから整える。終わり、と肩を叩かれるが早いか、俺は勢いよく振り返った。予測していたのか、フリックはとくに驚いた様子もない。
「俺は、ぜんぶ欲しい」
「……だろうな」
でなきゃ、言わねえよ。お前みたいな面倒な奴相手に好きだなんて言わねえ。
フリックは深くため息をついて、手を伸ばした。俺の前髪をかきあげる。
「前髪も長いな」
逸らされた、と思った。でもここは外で、他の誰が見ているかなんて分からない。