2025-05-02
「本当に帰ってきたんだねえ」
珍しく酔っぱらったアナベルが繰り返す。小さな酒場のカウンター、人の声がまるで波音のように揺蕩ういい店だ。隣に座ったアナベルは、柔らかい手でビクトールの肩を抱いた。女にしては大きな掌で優しく引き寄せられる。
「本当にねえ」
「そんなにか」
1年ほど前、一旦挨拶には寄ったが、その時にはノースウィンドウに帰ったと嘘をついた後ろめたさもあり、どこかよそよそしかったと自分でも思っている。それ以前と言えばデュナンでネクロードの手がかりがまったくつかめないことに業を煮やした自分がもう帰らぬ、と言った時だ。
アナベルは反対しなかった。しても無駄だと悟っていたのだ。忘れてしまえという事も出来ず、かといって代われるはずもない。ビクトールを見送ることしか出来なかったアナベルの、深い悲しみの目をどうしていままで忘れていられたのだろう。
女の体は暖かく、柔らかい。ビクトールは息を吐き、そのままの姿勢でグラスを傾けた。
「そんなにだよ。私はあんたが、帰ってこないものだと思っていた」
今でも、アナベルのビクトールを見つめる瞳には悲しみがある。アナベルは知っているからだ。ノースウィンドウにいたころの自分も、失い打ちのめされた自分も。過去の上に立脚するビクトールの肩を、アナベルの掌が優しく撫でる。
帰ってこないと言われても、なんの反論も出来ない。ネクロードを討ち取った今だからこそ言えるが、ビクトール自身だって本心のところでは信じていなかったように思う。自分は何も成せぬまま、ただ無様に、地にはいつくばって死ぬのだ。最期にディジーでもアナベルでもない、ネクロードの顔を思い返して憎しみに顔を歪めて死ぬのだと信じていた。
だが、実際の所はどうだ。仇を討ち、自分はこうして生きている。
現実感がない。
ノースウィンドウに帰れて、10年が経ったことは思い知った。だが、それがまだしみわたっていないのだ。いつか本当だと信じられるのだろうか。
グラスをくるりと回せば、中の氷が澄んだ音を立てる。アナベルの体は暖かく、柔らかい。見知った、何もかもを知っている、女の体。
掌に、骨がずいぶんと細い感触が残っている。ノースウィンドウに過ぎ去った10年の重みに耐えかねたビクトールが握りしめた腕の感触は、ただアナベルほど柔らかくも優しくもなかったが、しっかりとした現実感をもってそこにあった。
ネクロードを殺したこと。そのための10年が夢でも幻でもなく、現実としてそこにあるという明確な事実を、フリックの存在が証明している、ような、気がする。上機嫌のアナベルと同じぐらいに酔っているからだろうか。口をつけた酒精はかなり濃く、喉が焼けるようだ。
「嬉しい」
アナベルは繰り返す。心配をかけたことを申し訳なく思うが、ただ彼女が心から喜んでくれることはビクトールにとっても幸いだ。過去から地続きの今を、また一つ肯定できる気がする。
復讐劇は終わった。では次はどうすべきなのだろう。何も考えて来なかった「次」の話。新しい人生の話だ。
復讐劇の終幕と、今、自分がここに生きている事を証明するためにトランから連れてきてしまったフリックはいったいどうするのだろう。自分はこれからどうしたいのか。ノースウィンドウに一人戻り、畑を耕すことは元の生活に一番近いかも知れないが、人を殺して生きた10年がそんなことを許すはずもない事は知っている。
「なあアナベル。傭兵隊の件だがよ」
「ああ、すぐすぐって話でもないが」
ミューズに新設が予定されている傭兵隊が、目に見える一番手近な未来だ。だが、そこにあいつがいるとも思えない。だから嫌だと切って捨てる自分がいる事だけは明確で、その明確さにビクトールは理由を見つけられない。