2025-06-10
少々帰るのが遅くなった。大した仕事ではないと思っていたのが思ったより長引いたのだ。月はもうとっくに沈んで、歩哨の足音が時折兵舎の中を響き渡るだけの深夜。ビクトールは私室のドアを開けた。
音を立てないように静かに荷物をおろし、なかから装備一式を取り出して椅子の背にひっかける。手入れは明日にしよう。起こしてしまっては申し訳ない。
気を使ったというのに、ちらりとベッドのほうを見ればフリックは眠そうに目を開けていた。寝ころんだままなのは入ってきたのがビクトールだと最初から認識しているからだ。
「寝てていいぞ」
出来るだけ小さく言った声は夜の中に溶けるばかり。フリックは聞いているのかいないのか、リアクションもせずに布団をかぶりなおして目を閉じた。細く開いたカーテンから差し込む月明かりだけがうすぼんやりとその様を照らしている。
気を許されている。だからこそ、ほんのわずかに心が波立つのを感じる。
あとはもう寝るだけだ。ビクトールはのそのそと自分のベッドに近づいたが、ひとつ唸って自分のものではなく隣のフリックの寝台に座り込んだ。安物の寝台がぎしりと鳴るが、誰もそれに頓着しない。
「おい」
「なんだよ」
当然のように返事があった。起き上がりこそしなくても、フリックは寝返りをうってこちらを向く。色の薄い目が月明かりに細められた。
その目元を撫で、額にふれて髪を撫でる。固い髪がさらさらと手の上をくすぐっていく。大人しく受け止めていたフリックの目が眠気にとろりと閉じたのを見計らって、ビクトールはそっと身をかがめた。
唇が触れ合う直前で、フリックが目を開ける。
「お前がいつも訊くのはさ」
眠気など何もない、透き通った声音だった。起き上がることはせず、ビクトールを押しのけもせず、ただ随分と近くにいる男のことを見つめている。
「俺に選ばせようとしてたんだよな」
「それは最初に言わなかったか」
嫌がることは一つもしたくはない。それはビクトールにとって本心だ。少なくとも、本心の一つ。
「お前が嫌なら俺はやめるけどって」
「嫌だといった覚えはないがな」
フリックはわずかに目を逸らしたが、すぐに視線を元に戻した。白い月明かりでもその双眸の色はよくわかる。
「その言い方、癇に障るんだよ。責任逃れか」
ビクトールははは、と嘲りか何か分からぬように笑った。いつでも拒否が出来るように、なんてごまかしだ。許可を与えるセリフを吐くたびに、その行為は許可を与えたフリックの責任になる。少なくとも、彼の思考回路ならばそう思うだろう。
最初から全部計算づくに決まっている。いつか気づくだろうということもだ。
「そうだとして」
髪を撫でていた指に力をこめる。フリックの眉が不愉快そうに寄ったが、押しのけられはしなかった。
「お前はどうすんの?」
今更放せるわけもない。あの女も含めて全部手に入れると腹を括ったのはビクトールのほうがずっと先なのだ。
ビクトールがもう少し力を籠めれば、ベッドに押さえつけることなんて簡単だ。望みはいくらでもある。全部暴いて、突き入れて、飲み込ませてやりたい。出来ればそれを許して欲しい。
許してほしくて、同じぐらい、同じ事を望んでほしくもある。
「俺はお前が嫌がることはしたくねえの」
いちいち全部訊くだろう。
キスをしていいか。もっと深いキスは。舌を絡めて唾液を飲むような奴をしたい。そしたら頭がきっとゆだってくるから、服を脱がせてみたいし、舐めたっていい。どろどろに溶かして、奥に入り込みたい。俺のを全部飲んでほしい。イく時の顔が見たい。中で感じた時の顔を知りたい。俺にだけ見せてほしい。
それも全部、お前に許されたいんだ。
「……おまえ、それを俺に全部訊くのか」
「訊くけど」
嫌ならどこかで止める。無理やり暴いて、失うなんて愚かなことはしたくない。
ビクトールがはっきりと言うのを聞いて、フリックはふかくふかくため息をついた。目元を覆い隠して、あほか、と呟く。
そうして、ビクトールに聞かせるでもなく言った。
「……俺、思ったよりお前の事好きだな」
自分の声に驚いたように、目を覆う手に不自然な力がこもって、耳から首のあたりから、音を立てる勢いで真っ赤になったのを、ビクトールはひどく驚いて見つめるしかない。