麝香の御神酒ラーマがビームの集落を訪ねたのは四月の事だった。
森の奥にあるゴーント族の村はその日いつになく賑やかだった。ビームが、村の女性達と裸足のまま唄いながら花を踏んでいる。ドーティを太腿の刺青までたくし上げ楽しそうに舞うが如く花を踏むビームの姿にラーマは声を掛ける事すらも忘れて魅入ってしまった。
すると、ラーマの姿に気付いたビームが片手を大きく挙げる。
「兄貴!来てくれてたのか!」
「邪魔をしてしまったようだな」
「そんな事ねぇよ」
ビームは女性達へ声を掛けるとその場を離れて壺に入った水で足を洗った。
そして躊躇する事無くラーマを抱き締める。相変わらずその腕力には驚かされる。同時にムスクのような甘い匂いがラーマの鼻腔を擽った。
「何をしていたんだ?」
「マフア酒を仕込んでいたんだ」
「マフア酒?」
ラーマは本好きでそれこそ世界中の文献を集める程だったが、マフア酒というのは初耳だった。
ビームは遠くに自生している木を指差す。
「あれがマフアの木だ。花は酒になり種子は貴重な油として使う。綺麗に洗って、ああやって花を潰して、乾燥させたり新鮮なまま蒸留酒にするんだ」
女達は石の祭壇の上で歌い踊りながら花を踏み潰している。
マッリが籠いっぱいの摘みたての新たなマフアの花を祭壇の上に撒いている。牧歌的でもあり神聖な儀式のようにも見えた。
「成程。それがマフア酒か」
「祭事の時や儀礼の時にしか飲めねぇ特別な酒だけどな。葡萄のような味がして甘くて美味いぞ。今年のマフア酒が出来たら、兄貴にも飲ませてやる」
目を細めるビームにラーマは嬉しさで頬を緩ませた。
「それは約束のつもりか?ビーマ」
「ああ!母なる大地女神に誓ってやる!必ず兄貴にマフア酒を馳走すると!」
このひとときの平和もビームが羊飼いとしてこの地を守ってきたからだという事をラーマは知っている。英国による支配の脅威は完全に去った訳ではない。分かっている、彼はいつしか革命戦士として立ち上がざるを得なくなるだろう。
気高きゴーントの虎として。
解放戦争が始まれば今以上に逢瀬が難しくなるだろう。
それなのにビームはいとも簡単に誓いを立てたのだ。
この国は愛よりも誓いの方がずっと重い。
だが、ビームなら。きっとそれを守ってくれる。
「それは楽しみだな。さぁ、私も手伝おう」
ラーマは靴も靴下も脱いでズボンの裾を膝まで上げる。
綺麗な水で足を洗い、女達に混じってマフアの花を潰す。
ビームもまた嬉しそうにその中に混じった。
「そういやマフア酒にはこんな逸話があるんだ。マフア酒は悪い事をした人間を獣に変えちまう力があるって。まぁ俺は獣に姿を変えられた仲間を見た事ねぇけど」
「それは大変だ。なら私が飲んだら馬に変身してしまうだろうな」
肩を竦めるラーマにビームは目をぱちくりと瞬かせる。
「兄貴(アンナ)が?まさか!」
冗談めかして笑うビームにラーマは不意に俯いた。
「君と同じように私は昇進の為沢山の同胞を白人に差し出してきたんだぞ」
警察官時代の話をビームにするのは未だに躊躇いがある。
今更彼に懺悔した所で自分のしてしまった行いが許される訳ないというのに。
「兄貴が馬になったとしてもきっと気高くて美しい馬だろうな。けど、兄貴は馬になんかならねぇよ」
ビームは籠にマフアの花を集めて笑顔でラーマに見せる。
ラーマの表情から陰りが消えた。
ビームの言葉は同情や憐憫からではなく本心からなのだろう。
「ビーム、」
「兄貴の本に書いてあったけど、遠い東方の地では酒を盃に注いで兄弟分の契りを交わすそうだ。俺達もやってみてぇ」
ビームはマッリに籠を渡す。別の女達が蜂蜜の入った壺に花を沢山詰め込んでいた。あれがいつかは蒸留酒になるのだろう。
「ふふ、最初から自分も飲む口実を作る気だったな?」
「ははっ!兄貴にはお見通しか!」
笑い合って、麝香の香りに包まれながら花を踏む。
今年のマフア酒は、きっと特別なものになる。