僕は、必死に走った。
走って、走って、走って、
何かに躓いて、呆気なく地面に倒れる。
振り向いたら、見下ろしている…目だけがギラギラと光った怪物。
いやだ…来ないで!!
そう叫んだつもりが、声が出なかった。
怪物の手が、僕に伸ばされる。
そして…
「!!!!!」
ハッと息を吸い込んで、急激に現実に引き戻される。
目の前には、あの目がギラついた怪物も、むせ返るほどの甘い匂いも、全てが最初から何も無かったかのようだ。
それが、今まで何度も見ている夢だと知らせてくれる。
「……はぁ」
起き上がる気力も出ず、溜め息だけ吐いて目を片手で覆う。寝て起きたばかりだと言うのに、身体の疲れも取れておらず余計に疲れた気がする。寝汗も酷くかいてしまった。
スマホを手繰り寄せて時間を見れば、いつもの起床時間よりも一時間程早かった。
「………シャワーでも、浴びるか」
そう、声に出さないといつまでもベッドから起きられそうに無かった。
この世界には、男性、女性を区別する第一性の他に、α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)という第二性が存在する。
βは所謂、普通の人間だ。
αは、上位種だとも言われ、頭脳面や運動神経等、優秀な人間が多いとされる。
一番厄介なのは、Ωだ。Ωは第一性が男性であろうとも、妊娠することが出来る特殊な身体を持っている。それだけに留まらず、ヒートと呼ばれる発情期が存在するのだ。この発情期間中のΩに近寄ろうものならば、番っていないαは本能的に抗えない誘惑を受けることになる。
こういった特性から、昔は社会的地位が低かったのも、仕方がないことだと言える。今の時代はヒートをコントロール出来る抑制剤の開発が進んだことや、世間が人種差別的なことに厳しくなって、差別を無くそうとする働きによってそれほど生きづらくはなくなったんだろう、とは感じている。
まぁ僕は当事者ではないし、ぼんやりとしか分からないけれど。
…あぁ、番というのはね、動物的な婚姻関係のようなものだよ。αとΩだけが結ぶことができる身体的な繋がり。性行為中にαがΩの項に噛み付き、それがトリガーになって、その後αの唾液、又は体液がΩの身体に入る事で、Ωの身体が遺伝子レベルで書き換えられ、お互いのフェロモンにしか反応しない繋がりが出来る。
お互いにとって、恋人や夫婦でいるよりも特別になれる、番の繋がり。昔はそれを題材にしたショーを沢山観たりして、憧れさえ抱いていたけれど…今は。
「どうでもいいかな」
そう1人呟いて、寝汗でベタついた身体を清めるために浴室に向かう足取りは重かった。
___
僕の毎日は灰色だ。
それは、周りだけでなく僕も含めて、色がない。
単純につまらない人生だと思っているから、そう見えるんだろう。
昔はもっと楽しかった気がする。
いや、今もショーの事を考えれば、楽しいんだ。でも、楽しいのに、どこか苦しい。苦しいからと止めてしまうと、もっと苦しい。
結局はまたショーの事を考える、そのループの中で僕は…いつか、苦しくて、苦しくて、溺れて死んでしまうのではないか、なんて現実的では無い事を考えながら、
今日も1人でショーの事を考えてもがいている。
『神代類ーー!!どこにいるんだーー!!!』
屋上でドローン達のメンテナンスがてら試運転をしていると、不意にドローンに搭載したカメラ映像が流れているタブレットから、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。
僕を探している…?誰だろう。
不審に思いながらも、タブレットを手に取る。ドローンを操作して、僕を呼んでいた人物にピントを合わせてズームする。さらさらと手触りが良さそうな金髪にピンクのグラデーションがかかった髪を靡かせながら、校舎内を必死に走り回って僕の名前を連呼している。
彼については、噂程度だけれど知っている。隣のクラスの…確か、天馬くん。僕が転入して間もない頃から、聞こえてくる大声で目立っていたからだ。しかし、彼に探される身に覚えがない。それはそうだ。僕はついこの間この学校に転入してきたばかりで、知り合いなど寧々と瑞希の他に居ないのだから。
走り回る彼にドローンの自動追尾機能をONにして、タブレットをフェンスに立て掛けた。さて、この声をBGMに作業でもしようか。
しかし、手は作業する為にドライバーを握り締めているけれど、集中出来なくて直ぐに放り投げてしまった。
またタブレットを手に取る。彼は購買や玄関など手当り次第に走り回っているようだ。時折、すれ違う生徒に聞いているようだけれど、誰も僕の行先など知らないだろうね。
「…さて、彼は無事にここまで辿り着けるのでしょうか?」
抑揚を付けて、口上のようにそう言ってみる。思いの外、楽しみにしているみたいだ。
僕以外に誰もいない屋上にガチャ、と扉を開く音が響く。
やっと彼が、辿り着いたようだ。
「やあ!やっと来たんだね天馬くん。待っていたよ。僕に用があるんだろう?」
「何?オレが探してたことを、なんで知ってるんだ」
そう言って歩み寄ってくる。2歩ほど空けた距離に立ち止まった彼は、首を傾げている。
「君をずっと見ていたからさ」
そう言った直後、彼はビクッと大きく身体を跳ねさせた。おや、どうかしたのかな?と思う間もなく、彼はしゃがみこんでしまう。
同じようにしゃがみこんで天馬くんの顔を覗き込むと、顔を真っ赤にして荒い息を吐いていた。身体をガタガタと震わせて自分を抱き締めていて、漂ってくる匂いも甘い。
これは…間違いなく、ヒートだ。
「抑制剤は」
咄嗟に脱いで放ってあったブレザーを掴んで、彼に被せる。覗いた頭が、緩く左右に振られるのを見て、どうしようか思案する。
保健室まで行けば、何とかなるかもしれない。
「天馬くん、保健室行こう。立てるかい?」
「む、むりだ…っ腰が…ぬけて」
そう言いながら、ぺたんと脚を地面につけて座り込んでしまった。うーん…本当に無理そうだね。
「仕方ない…緊急時だから、ちょっと我慢してね」
そう声をかけて、横抱きにすると持ち上げた。良かった、持ち上がらない程重くなくて。
彼を見下ろすと、とろんとした瞳と目が合う。今の自分の置かれた状況に、理解が追い付いていないようだ。
ヒートを起こせばこんな状態で、よく今まで普通に過ごせてきたな…それとも、狙ってやっているのか。
__君も、低俗なΩなのか。
ハッとして頭を振って今浮かんだ思考を振り払う。分かっているよ、Ωはそういう奴らばかりではないと。良いΩだっている、寧ろ悪意を持って接してくるΩの方が、稀なんだって…頭では分かっている。でも、身体が、脳が、精神的に刻まれた傷が、無意識に拒絶するようになってしまった。
大丈夫だ、僕は彼のことを何も知らない。決めつけるのは、よくない。
彼を抱え直して、階段を駆け下りる。
制服越しでも、彼の身体が熱いのが伝わってくる。これ程の高熱に冒されているのはきっと、ヒートだからと言っても辛いだろう。僕の制服を頭から被せているから顔は見えないけれど、僕のカーディガンを握りしめた手はぶるぶると震えていた。
確か、職員室の隣の隣の部屋が保健室だった気がする…。
頭の中で校舎の平面図を描いて、道のりを辿っていけば、記憶の通り保健室に辿り着いた。
お行儀が悪くて申し訳ないけれど、足で保健室の扉を開けて中に入る。扉から正面に見えるデスクの前に腰掛けた養護教諭が、椅子を回転させて此方を見るなり目を丸くしている。
「失礼します。彼を、お願いします」
「!!ありがとう、連れてきてくれたのね」
「ええ…目の前で倒れてしまって」
それだけ告げれば、理解してくれたようで空いたベッドに誘導される。そこは保健室の中で奥まった所にあり、他のベッドはカーテンで仕切られただけだけれど、そのベッドだけは上まで壁がある造りをしていた。恐らく、ヒートになってしまったΩ専用のシェルターみたいなものだろう、扉まで付いている。
ベッドに彼をゆっくりと下ろす。カーディガンを握り締めていた手が開かなくて、外すのに少し苦戦した。頭を少し持ち上げて、彼に被せた僕のブレザーを抜き取る。彼の顔は相変わらず真っ赤で、吐く息も荒く、額にかいた汗で前髪が束になって張り付いていた。それを軽く梳いて横に流してやると、眉間に寄っていたシワが少しだけ、緩められた気がした。
「じゃあ、閉めるよ」
そういう養護教諭に促されて、狭い個室を出る。しっかりと鍵で施錠までされた部屋からは、彼の気配どころか、匂いも漏れてはこなかった。
僕は特に体調の異変などは無かったけれど、ヒートのΩに当てられていないか念の為に、と体温計を渡されて熱を測った。
「頭がいたい、とか、火照ってる、とかはない?大丈夫?」
「大丈夫です」
体温計がピピ、と電子音を鳴らして、取り出す。36.3℃と表記された体温計を養護教諭に渡して、席を立った。僕の平熱は35.8℃位だけれど、まだ誤差の範囲だろう。
「もう行くの?」
「ええ、帰ります」
「天馬くんとはお友達?」
「いえ、さっき初めて会ったばかりで…」
「そっか…じゃあ、彼の鞄、どうしようかな」
養護教諭はそう言うと、考え込む素振りをする。
ああ…彼がいるから、ここを離れることが出来ないのかな。まあ、僕は屋上にドローン達を置いて来てしまったし、取りに戻る道すがら、鞄を回収して届ける位はしようか。天馬くんは、確か隣のA組だったはずだ。
「忘れ物を取りに戻るので、ついでに持って来ますよ」
ガシャン、と金属同士がぶつかり合う音がガレージ内に響く。床の上に、トートバッグに詰めたドローン達をそっと置いて、硬いソファーに座る。腰を落ち着けた事で、余計に疲れを実感した。
……今日は、いつもより疲れたな。
間違いなく天馬くんとのごたごたがあったからだろう。
彼、Ωだったのか。少し、意外だったな。というのも、変人はαに多い傾向があるから。
ふと、トートバッグの上に置いてあるブレザーが目に入る。何となくそれを手に取って、広げた。見た目には何も変わらない、僕のブレザーだけれど。
(いい匂いがする…)
顔を埋めたくなる甘い匂いがして、誰もいないのをいい事に欲望のまま顔を埋めた。すう、と息を吸い込むと、頭に被せていたからだろう、彼のフェロモンの匂いがする。
僕が今まで出会ったヒート中のΩは…どれも熟れすぎた果実のような、下手したら半分腐っているような不快な甘い臭いだったのだけれど、彼は違う。柑橘系のフレグランスのような、何処までも爽やかで執拗くない、清潔な香りがする。それでいて…お日様のような、暖かくて、落ち着く…いつまでも嗅いでいたい匂い。
すぅう、と肺いっぱいに吸い込んで、やはり、直感は確信に変わるまま、口から零れ落ちる。
「…天馬くんが、僕の運命なんだね」
彼が屋上で、2歩ほど空けた距離に立ち止まった時、ふわりと香る優しい匂いに身体が強ばった。それは、僕の匂いを感じた天馬くんも同じだろう。
正直彼に会うまでは運命の番なんて、物語の中だけのファンタジーだと思っていた。物語をよりドラマチックに飾り付けるための、スパイス、設定…言わば演出だと。
今まで見てきたドラマや映画の中で描かれた運命の番たちは、揃って「会った瞬間に本能的にわかる」
と言っていた。これが、そうなのか。やっと言っている事の意味が分かった。これは…そうだね、理屈など抜きにしても納得せざるを得ない感覚だ。
そして更に知識としてあった『Ωは運命の番のαに出会うと、本能的に逃がさないようヒートを起こしやすい』ということと、彼のあのタイミングで突然のヒートから、ほぼ間違いなく運命の番であると確信するに至った訳だけれど。
でも…僕は
βなのに。