【ヴェラン】瞳に広がる蒼色は君の色 夏の蒼い空が好きだ。
どの季節よりも高く見え、それでいて上空まで吸い込まれ、手を伸ばせば簡単に届いてしまう――そんな錯覚を抱かせてくれる。
幼い頃、何度も蒼い空を見上げた。橙色に染まってくると家に帰らなければならない。夏の間は蒼い空の時間が長く、ランスロットと遊べる時間が長かったから、夏の蒼い空が好きなのかもしれない。
ヴェインはそんなことを考えながら、木々の合間から見える蒼色を眺めていた。
子供の頃に見た蒼色と変わらない色だ。
ランスロットは隣に住んでいたふたつ年上の幼馴染み。毎日ヴェインを迎えに来てくれて、日が暮れるまで一緒に外で遊んでいた。
クローバー探しも、虫取りも、雪遊びも、近くの廃村へ肝試しに行くのだって、ランスロットと一緒なら楽しかった。
今日みたいな蒼空が広がる時季は、川や湖で思いっきり泳いだものだ。
(日焼けして『痛い』って泣いてから、ランちゃんは、出かける前に必ず日焼け止めを塗ってくれるようになったんだよな〜)
今でこそ、ランスロットの背中へ日焼け止めを塗るのは自分の役目になっているけれど。
(自分のことには無頓着だからな、ランスロットってば)
子供の頃は、ヴェインの肌へ日焼け止めを塗って、麦わら帽子を被せて、準備万端にしてから微笑んでいた。ふたつ年下の幼馴染みの面倒をよく見てくれたと思う。
「準備出来たか? じゃあ行こう!」
自分も麦わら帽子を被ると、ランスロットはヴェインに手を伸ばし、しっかり繋いで駆け出した。その瞬間は、いつもヴェインの心を高鳴らせ、ランスロットと一緒に、何処までも走っていけるのじゃないかと期待で胸がいっぱいになった。
その予感はヴェインを裏切らず、今も隣にはランスロットがいる。
大人になって、手を繋ぐことはないけれど、それでも彼の隣を走って行きたい。
(まあ、今は歩いてるんだけどな!)
本日休暇のふたりは、体力づくりも兼ねて近くの山へトレッキングに来ている。木々の合間を縫うような細い道を登り続けていた。既に三時間ほど歩き、軽く汗をかいている。
騎士団で行う山岳演習に比べて遥かに楽なのは、ついヴェインが寄り道をする所為かもしれない。
「おー! 見て見てランちゃん! 見たことないキノコ!」
「おお……、食えるかな?」
「いやいや、毒を持ってそうだぜ。マイコニドに似てるし……」
「ジークフリートさんなら、詳しいんだけどな」
ウサギの親子を発見し、ふたりで繁みから覗き込んだり、綺麗な花の群生地を発見し、暫く見惚れていたり……、「お前と一緒だと、トレッキングじゃなく、ハイキングになるな」とランスロットは笑っていた。
それは仕方がないと思う。ランスロットとこうして二人きりで出掛けるのが久し振りで、心が浮き立ち、全てのものがキラキラと眩しく見えるのだ。一々足を止め、ランスロットと共有したくなる。
ヴェインはもう一度、空を見上げた。先程より雲が広がっているが、隙間からは蒼色が見える。
葉の緑と雲の白、空の蒼いグラデーション。
(単純にランちゃんの瞳の色みたいで好きなのかも)
長年蒼色が好きだった理由に思い当たり、なんだか恥ずかしくなってしまう。自分の好きなものの根底に、全てランスロットがいるのではないか。
視線を左隣へ向ければ、ランスロットも同じように空を見上げていた。
蒼い色に蒼い空を映し、何を考えているのだろうか。
その時、ふたりの間を冷たい一陣の風が吹き抜けた。ランスロットの黒髪が乱れ、彼が細い指で髪を押さえつけながら、ヴェインを振り返る。
「これは、来るぞ」
「……! この少し先に避難小屋があるぜ!」
「走れ!」
ランスロットの騎士団長然とした号令に、地面を蹴る。緩やかな上り坂を駆け上がりながら、空へ視線を向けると、もうそこに蒼色はなく、厚い雲に覆われていた。遠くで雷鳴が響き始め、地面を蹴る足に力が入る。
山に入った時は雨の兆候など微塵もなかったのに、これだから山は恐ろしい。雷が到達する前に、避難小屋へ到着していたい。
「ランちゃん、俺たち山に嫌われてるのかも?」
脳裏には山で嵐に遭い、遭難した数日間が蘇っていた。その前にも山岳演習で嵐に遭っている。
「それを言うなら、『雨に好かれてる』って考えよう!」
「わはは! 前向き過ぎ!」
「ふふっ、ほら、雨が俺たちの元に向かってくるぞ!」
ランスロットが言い終えた時、ヴェインの腕にポツリと雫がひと粒落ちてきた。と、ザーと激しい音と共に全身が一瞬でびしょ濡れになる。
「やべー! 前が見えねえ!」
「これは、好かれ過ぎてるな!」
雨音にランスロットの声がかき消され、目の中に雨粒が入り、開けているのも難しくなる。右腕で目を庇ってみるものの、あまり意味はなかった。
足元を川のように茶色い水が流れていく。横風が強いけれど、濡れて肌に密着した服が靡くこともない。強い風にランスロットが飛ばされるのではないかと心配になる。大量の雨と飛沫、立ち込める靄の中、目を凝らすと、こちらを見つめて、手を伸ばしている姿が見えた。
「ランちゃん!」
すぐに手を取り、再び走り出す。
足の速いランスロットが、グイグイとヴェインの手を引いた。
子供の頃、何度も手を引いてくれたランスロット。あの頃、自分の手は二回りは小さくて、追いついたのはいつだっただろう。
今は、自分の手の方が大きく、ランスロットの腕が華奢に見えてくる。
(ランちゃん……!)
子供の頃、何かあると『大丈夫だ』と手を引いて、ヴェインを守ってくれていた。
それは今も変わらない。自分より大きくなった手を引いて、自分たちを守る為に走っている。
(ランちゃんを守りたくてデカくなったのになあ……)
遠くで聞こえていた雷鳴が近づいてきて、空に稲光が走るのを目の端で捉えた。
ランスロットが振り返り、何かを言っていたがもう聞き取れない。
「ランちゃん、あと少し!」
「えー?」
事前に調べた避難小屋はあと五十メートル程だろう。泥濘、滑る道に足を取られながら、お互いを支え合って走った。
ランスロットは、ヴェインと手を繋がない方が早く走れる。身軽で、俊敏で、村でも誰より早く走れたランスロットだ。
落雷の危険を避ける為にも、ランスロットには先に避難小屋へ行って欲しかったけれど、そう頼んでも、決してヴェインを置いてはいかないだろう。
ヴェインだって、山で遭難した時、足を怪我したランスロットを置いて下山する選択肢はなかった。
いつだって、どんな時にも隣にいたい。
それは、自分がランスロットを好きだからだ。
誰よりも。
自分よりも大切な人。
どんなことからも守りたい人だ。
斜線を描く雨の先に赤い色が見えた。
「ランちゃん、あそこ!」
「え? 聞こえないんだって……」
ヴェインにもランスロットの言葉は、自然の脅威にかき消され届いていなかったけれど、予想はついた。
雷鳴が轟く。ランスロットがヴェインの手を強く引き、自分の前へ押し出した。
「先に行け」と言うのか。たった数秒の差だろうに、一秒でも早くヴェインを安全な小屋へ避難させようとしている。
どうしたって好きにならずにいられない。
目の前の扉を開き、引き寄せたランスロットを抱え、同時に小屋へ転がり込んだ。割れるような雷鳴が轟き、小屋が揺れる。雷が、落ちた。
「――か、間一髪か?」
耳が痛くなる落雷の反響が収まると、呆然としたような声音でランスロットが呟いた。
床に転がったヴェインの腕の中で、ランスロットは開いたままの扉を見つめていたが、我に返ると、飛び起きようとする。
その腰をしっかり掴んで、ヴェインはランスロットの身体を抱きしめた。
「ヴェ、イン……?」
「はー……、ふたりとも、無事でよかったあ……」
もし、小屋に転がり込むのが一瞬でも遅かったら?
どちらかに落雷する可能性だってあった。ヴェインを先に小屋へ避難させようとしたランスロットの方が可能性は高かった。
近くに落ちた雷は、地面を通って人にだって伝わる。もしも、一歩遅くて、ランスロットの身体を電流が貫いていたらと考えれば、身体の震えが止まらない。
「も……、ランちゃんの馬鹿……」
「いや、すまん……。こればかりは、身体が勝手に動くんだよ……」
ヴェインの震えに気付いたランスロットが、大人しく、抱きしめられるままになった。
濡れた衣を通して、ランスロットの体温が伝わってくる。確かな鼓動も伝わって、大きく安堵の息を吐き出した。
外は再び雷鳴が轟き、激しく降り続ける雨が屋根を叩く。扉が風に煽られて、バンッと大きな音を立てて閉まった。
避難小屋にはふたりだけだ。
腕の中のランスロットを感じながら、「俺、ランちゃんを失うのは、いやだからな……」と囁けば、「うん……」と小さな声が返ってきた。
炎の中で、ヴェインを失いたくないと叫んだことのあるランスロットには、ヴェインの気持ちがよく分かるのだろう。
「いつだって、一緒だからな」
「ああ、ずっと一緒だ」
「絶対だぞ」
「ああ、絶対だ」
「絶対の、絶対だからな!」
ランスロットは、ヴェインの子供のような言葉へ律儀に返事をしながら、腕の中で肩を揺らしている。
「……ふふっ、」
「……なに」
視線を下げると、ランスロットが蒼い瞳を煌めかせ、微笑んでいた。上目遣いでヴェインを見つめ、目を細める。
晴れわたった空の蒼。
子供の頃からずっと好きな色が、ヴェインを見つめている。
ヴェインの心臓がドクンと跳ね上がると、ランスロットはますます笑みを深めた。
速くなった鼓動が伝わってしまったのかもしれない。
「何でもないよ」
「何でもなくない~!」
何でもないと言いつつも、ヴェインの瞳から視線を逸らさずに見つめてくる。
(そんな優しい、愛しいものを見るような眼差しを向けないでくれよー!)
「目は口ほどに」と言うけれど、ランスロットの瞳は何を伝えようとしているのか。どんどん速くなる鼓動を治めたいけれど、雷雨同様、激しさを増すばかりだった。
ランスロットは微笑んだまま、ヴェインの鼓動の上へ手のひらを乗せる。
まるで伝わる鼓動が自分の所為だと分かっている顔をして。
「ランちゃん……」
「……子供の頃と変わらないなと、思っただけだよ」
恐らく幼い頃に「ぜったいだよ!」とランスロットへ約束をねだったことがあるのだろう。
けれど、この鼓動の速さは子供の頃とは違うものだ。
ランスロットの傍にいて、心臓のリズムが狂うようになったのは、いつだったか。ヴェインは覚えていなかった。
(気付いたら、好きだった)
この先、何度もリズムを狂わせられる。今日の嵐に負けないくらい激しく脈打つ日も、小春日和のように穏やかな日もあるだろう。
(心臓、わしづかみにされてるみたい)
それもいい。
ヴェインを見つめるランスロットの髪から、雫が流れ落ち、全身ずぶ濡れなのを思い出した。
「……はっ、鞄にタオル入ってる! 拭かねえと風邪引く!」
ランスロットを抱えたまま、腹筋で起き上がると、自分からも雫が滴り落ち、床を濡らす面積が広がった。小屋の床を濡らすのは申し訳ないと思いながら、避難小屋へ飛び込んだ時に投げ出された鞄を手元へ引き寄せる。まずはタオルを取り出し、ランスロットに手渡した。
頭へタオルを被り、軽く拭いたランスロットは、シャツのボタンを外しながら、「暖炉に火を入れるか?」と言う。避難小屋には、暖炉もある。
全てボタンを外し終えたランスロットが、するりとシャツを脱ぎ捨てるのが目に入り、ヴェインは慌てた。
(そりゃ、ずぶ濡れの服を着てても身体が冷えるだけだからなー)
夏でも山では、濡れた全身が冷えるのは早い。
低体温になる前に、身体を温めるのは当然だと分かっていても目の毒だ。
「お、おう! 一応、火打ち、持って来てるぜ!」
視線を彷徨わせた後、ランスロットに背を向けるしかなかった。誤魔化すように鞄の奥底まで手を入れると、背中に軽い衝撃があった。
肩を濡らす黒髪と、背中には熱が伝わってくる。腰にそっと腕を回された。
(背中の熱、ランちゃんの――)
シャツを脱いだランスロットに抱きつかれていると気付いた瞬間、心臓が飛び跳ねる。心臓だけではなく、全身が跳ねたかもしれない。
笑っている気配が伝わり、ランスロットの手のひらが心臓の上にあてられた。「分かってるぞ」と言われた気分だ。
触れた手のひらは、先程より少し体温が下がっている。
「ランちゃん、冷たくなって……」
思わずランスロットの手を掴む。早く温めなければと思った。
「お前はあったかいな……」
「いっ、今、暖炉に……っ」
「火を入れるのか?」
「えっ?」
肩に額を押し付けられた。
少しの間がある。小さな声がヴェインの耳へ届いた。
「……それとも、俺と温め合うか?」
恥ずかし気に囁かれた言葉が雷雨の音にかき消されることはなく、窓の外はいつの間にか雨が上がり、晴れあがっていた。
蒼色が視界いっぱいに広がった。