【ヴェラン】噂の悪魔 ヴェインが騎士団長執務室の前に行くと、ちょうど中から扉が開かれて、ひとりの団員が部屋を後にするところだった。
「うおっと、あぶねー。ゴメンな〜……って、大丈夫か?」
危うくぶつかるところだったので、身体を仰け反らせたが、団員はヴェインの声が聞こえていないようだった。
ふらつく足取りで、視線を彷徨わせながら去っていく。
「やられた……、……あく……がいる……」
「へ?」
「噂は……、本当だったんだ……」
まだ若い団員の小さな声がかろうじて耳に届いた。
(今、悪魔って言ったか? 悪魔? またなんかヤバイのがフェードラッヘに現れたのか?)
ヴェインの脳裏を掠めたのは、以前とある村にアンデッドが現れた出来事だ。それはかつての騎士団長、ジークフリートを陥れる罠だったけれど、報告に来た村人が今の団員のように怯えきっていた。
(だったら、今すぐ『悪魔』を退治しに行かねえと!)
「ランちゃん!」
ノックも忘れ、ヴェインは騎士団長室の扉を勢いよく開く。派手な音が響き、現騎士団長のランスロットが目を丸くして、ヴェインを真っ直ぐに見つめていた。
「ヴェイン、どうしたんだ?」
「どうしたって、何かあったんだろ」
「なにか……って?」
大きく開いていた瞳が、柔らかく細められる。
ヴェインを落ち着かせようとする時に見せる、年上の仕草だ。
ランスロットはふたつ年上の幼馴染みで、昔から少し落ち着きのないヴェインを平常に戻す術を心得ている。
優しい眼差しに見つめられると、スッと力が抜け、昂ぶった心がいつの間にか落ち着きを取り戻していくのだ。
(ホント、俺の全部を受け入れるような目をするから、いつも安心して、冷静になれるんだよなー)
「いや、今出ていったやつが『悪魔』とか『噂は本当』とか、不穏なことを言ってたから、なんかあったのかって」
執務机に近づくと、腰を掛けたままのランスロットが首を傾げた。
「なんだ、それ。そんな話はしてなかったぞ」
言いながら、手にした紙の束をペラペラと指先で捲ってみせる。団員が持ってきた報告書か、計画書か。その内容について話していたのだろう。
「『悪魔』の話、してなかった? ひと言も?」
「ああ」
冷静になった頭で考えれば、もし悪魔が現れていたら、あの団員は果敢に立ち向かっていると判断できる。彼は白竜騎士団の立派な団員だ。
では呟いていた『悪魔』という言葉は何だったのだろう。
「今の、コニーだろ? 最近、第一班の副班長を任せられるくらい、実力が付いてきた……」
ヴェインは第三班の班長だから、あまり関わることのない団員だ。けれど、彼の活躍は耳に入っている。
「うん、副班長に任命されてから、責任感が強く芽生えたのか、頑張ってるよ」
「うんうん、だよなー! さっすがランちゃん! 最近会議続きだけど、団員のことはしっかり把握してるー!」
「当然だろ……と言いたいところだけど、いつも報告を上げてくれるお前のお陰だよ」
「俺は班長が上げてくる報告書をまとめてるだけだぜ!」
ランスロットは、騎士団長と執政官を兼任し、毎日忙しく過ごしている。騎士団へ顔を出せないことも多いのだが、いつの間にか団員たちの家族構成まで把握しているのだから、ヴェインは驚くばかりだ。
(ランちゃんは、すげえよな)
昔から、いつの間にか分厚い本を丸暗記してヴェインを驚かせた。そのたびに尊敬し、憧れて、ランスロットの隣りに並んで彼を支えたいという想いが強くなっていった。
「ふふっ、お前はいつも謙遜が過ぎるよな。ヴェインが副団長で、どれだけ俺が助かってると思ってるんだ?」
不意にのぞき込んでくる碧い瞳が、光の加減で宝石のように強く煌めいた。腰掛けたままのランスロットがのぞき込むと、上目遣いで見つめられている気分になる。
(うう……、眩しい)
年上のランスロットが上目遣いで自分を見つめてくる――普段、あまりないシチュエーションに、ヴェインの心臓がきゅうっと締め付けられた気がした。
(目がいつもより大きく見えて、可愛いっていうか……! いやいや、ランちゃんはいつもカッコイイから!)
思わず胸元を右手で掴み、乱れる心音を宥める。
「……俺っ、コニーが気になるから、ちょっと様子を見てくるな!」
「え? おい、ヴェイン?」
逃げるように――いや、確実に逃げているのだろう。
(ランちゃんから?)
正確には、ランスロットに抱いている想いから逃げている。
そう自覚しながら、「なにかあったら共有してくれよ!」と言うランスロットの声を背に受け、執務室を飛び出した。
コニーの言葉が気になるというのも本当だ。
『悪魔がいる』
そう聞き取れた。
すれ違いざまの小さな声だったので、聞き間違いかもしれない。
『噂は本当だった』
噂とは何だろう。
(噂なんて、大抵はいいことひとつもないだろー)
どんな噂なのか。『悪魔』に関する噂らしいので、出処と、どんな悪魔なのかを確かめたい。
ヴェインは執務室を飛び出した勢いのまま、練兵場へ足を向けた。
白竜騎士団の団員たちは、遠征がなければ大抵練兵場にいる。城の裏手にある練兵場へ近づくにつれ、団員たちの鍛練に励む声が大きくなった。
ランスロットという武勇で全空に名を馳せている騎士団長を身近で見ていれば、毎日の鍛練にも気合いが入るだろう。
「あー! ヴェイン副団長ー!」
練兵場へ足を踏み入れた途端、まだ身体が出来ていない少年の声が空に響きわたった。視線を向けると、金髪の少年がブンブン音がしそうなくらい、勢い良く両腕を振り回していた。
ヴェインが担当する三班の騎士見習いたちだ。
隣りに並ぶ黒髪の少年がペコリと頭を下げ、金髪の少年の脇を突いた。
「落ち着けって、アーサー!」
「えー! だって今日はヴェイン副団長の指導は休みって聞いてたから〜! モルドレッドだって、ヴェイン副団長と手合わせしたいくせにー」
「そりゃ、みんなそうだろ」
子供たちが揃って首を縦に振っている。懐いてくれている騎士見習いたちが可愛くて仕方がないけれど、今のヴェインには使命があった。
「おー! わりい、今日はケイに見てもらってくれよ!」
少年たちに近づいて、彼らの頭を撫でる。
「なんだあ……、やっぱり今日はヴェイン副団長はお休みなんですね」
分かりやすく肩を落とすアーサーの頭を掴んでグリグリこねくり回すと、彼は悲鳴をあげた後、楽しげに笑った。
「お前たち、俺の指導を望んでくれるのはメチャクチャ嬉しいけど、俺以外の指導もたくさん受けるといいぞ〜! 全部自身の力になるからな!」
「はい!」
ヴェインもたくさんの指導を受けて、今がある。
「ところで、コニーは来なかったか?」
ふらつく足取りで執務室を出ていったが、その足で練兵場へ来ているはずだ。
「ああ、コニー先輩なら来ましたよ。同期の方たちと森の方へ行きましたけど」
モルドレッドが森へ視線を向け、ヴェインも鬱蒼とした木々を見る。
(森か。まさか悪魔退治に向かった?)
広い練兵場の外れには、森への入り口がある。そこから森の奥へ向かったのだろうか。
(悪魔どころか魔物も出るぜ?)
「ありがとな! じゃあしっかり鍛練に励むんだぞ〜!」
「はい!」
教え子たちの元気な声を後に森へ向かって走った。
もしも城から目と鼻の先にある森に『悪魔』が出るのだとしたら、一大事だ。どんな悪魔なのか全く不明だが、彼らだけで対処できるのか――。ヴェインは速度を上げ、木々の影で暗く見える森へ入っていく。
(ん〜? でもこんな城の近くに『悪魔』が出るなら、俺の耳にも噂が届いてるよな)
それどころか、噂では済んでいないはずだ。
(コニーの言う『悪魔』って何なんだ?)
そう考え、足が止まると、人目を忍ぶ小さな声が聞こえてきた。どうやら太い木の陰で話し込んでいる。
ヴェインは気配と足音を消し、静かにそちらへ向かう。
「俺は……、もうダメかもしれない……」
コニーの声だ。他に同期の団員がふたりいるらしい。
「お前もついに犠牲になってしまったか……」
(ダメって何? 犠牲って 悪魔にやられたのか)
「コニー、しっかりしろって!」
「だって、もう駄目なんだよ、胸が苦しくて……」
喉が潰れたような苦しげな声が聞こえ、ヴェインは堪らず木の陰から飛び出した。
「コニー! 大丈夫か すぐ医務室へ行くぞっ!」
「もう俺の頭の中は、ランスロット団長の微笑みでいっぱいなんだよ……!」
同時に叫んだふたりの声が混ざり合い、木々の合間に木霊した。
「――へ?」
「うわっ ヴェイン副団長」
(ランちゃんがなんだって)
思ってもいなかった言葉が聞こえ、思考も動きも固まっているヴェインの周りで、三人の団員が慌てふためいている。
「どうして副団長がここに」
「今の聞いていましたか」
「その! 我々はけして鍛練をサボっているわけではなく!」
(いや、それは今どうでもいいし)
それよりも今、コニーは聞き捨てならないことを言っていた。
(ハッキリ言ったよな)
『ランスロット団長の微笑みでいっぱいなんだよ』
『胸が苦しくて……』
そう言っていた。
(俺にも覚えがある……!)
先程も胸がきゅうっと締めつけられ、苦しかった。
ランスロットの微笑みならば、いつだって頭に浮かべられる。
子供の頃からずっと、ランスロットの笑顔が見たくて努力をし、彼の笑顔を励みに生きてきた。
「コニー……、お前……」
「す、すみません……! 私は……!」
「呑気に恋愛話をしてる場合じゃねえだろー! 『悪魔』はどうしたんだ」
ヴェインが叫ぶと、三人は目を瞬き、お互い顔を見合わせてから、ヴェインへ視線を向けるのだった。
森を後にし、当初の予定通り再び騎士団長の執務室へ向かう。
予定を変更した為、ランスロットには外せない用事が出来てしまったかもしれない。
(ランちゃんとのお茶の時間……)
『ふたりで騎士団の情報を共有しよう』と始まった大切な時間だった。
(もしランちゃんに用事が出来てても、俺のせいだけど)
ランスロットは毎日時間を取ってくれているというのに。執務室を飛び出したのは自分なのだから。
諦め半分で執務室の扉をノックすると、中から「ヴェインか。入ってくれ!」と返事があった。
どうやらお茶の時間が取れるようだ。自然に口角が上がる。
「ランちゃん、よく俺だって分かったな?」
ノックの後、名乗る前に返事があったのを不思議に思いながら、入室した。
「ふふっ、ヴェインのノックの音を聞き分けられるんだよ」
「そうなの」
「……なんてな。今、窓からお前が歩いている姿が見えたから、そろそろだと思ったんだ」
「そっかあ……」
ランスロットは先程とは違い、机に向かっていなかった。ヴェインの姿が見えたので、お茶の準備をしてくれていたらしい。戸棚からお茶請けを取り出している。
「今日は俺が準備するから、お前は座っていていいぞ〜」
取り出した箱を開け、中の菓子を選んでいる。どこかの貴族からいただいた菓子の詰め合わせは、何種類もの焼き菓子が入っていて、迷うらしい。いくつかの菓子を選び籠へ移すと、お茶と一緒に運んできてくれる。
ヴェインはランスロットの動きをぼんやり見つめていた。
(綺麗な動き……)
騎士としてキビキビした動きが身についているランスロットだが、お茶は丁寧に淹れようと思うのか、ゆっくりと動く指先が綺麗だった。
(ランちゃん、指先のカタチも綺麗だから……)
それにお菓子選びを迷っている指先は、どこか可愛らしく映った。
ソファーへ座るのも忘れ、立ったままランスロットを見つめていたヴェインは、「それで、コニーの様子はどうだったんだ?」という言葉で我に返った。
「うえ」
「うえ じゃなくて。『悪魔』とか呟いてたんだろ? 結局なんのことだったんだ?」
「いやあ……、それはなんか、勘違いだったみたいで……うん」
しどろもどろになりながら、なんとかそれだけを告げる。
(だって言えるわけない! 『悪魔』って噂されてたのがランちゃんだったなんて!)
――曰く、ランスロットの傍にいると、彼の魅力に逆らえなくなる。魅了されてしまう。まるで悪魔に唆されているように。
だから、日々、自身を強く保ち、鍛練に臨んでいるのだと彼らは言った。それでも逆らえず、ランスロットに恋をしてしまうのだとも。
『失恋するって分かってるのに、どうしても恋をしてしまうんです! 微笑みを向けられたら、もう気持ちに逆らえない!』
『その内に皆、悪魔の微笑みって噂をし始めて』
(それを言うなら、天使の微笑みじゃねえ)
コニーは執務室にて、ふたりきりの状態で微笑みを向けられ、恋に堕ちてしまったらしい。
『もう何も手につかない!』
そう叫んだコニーはその場で頭を抱えていた。
『そっかあ? 俺はランちゃんの笑顔がブーストになるけどなあ』と応えると、『ランスロット団長の笑顔に免疫のある人は、どうぞあっちへ行って下さい』と追い返されてしまった。
頑張り続け、実力を発揮し始めていたところだったのに、頭からランスロットの笑顔が離れず、何も手につかなくなると嘆いていた彼ら。
(『失恋するって分かってるのに』かあ……)
確かに失恋はすると思う。だからといって、想いを止められるわけでもない。
(悪魔だなんて思わないけど、とうしたってランちゃんに恋をしちゃう気持ちはわかるぜ〜!)
ランスロットほど魅力に溢れた男を、他に知らない。
「どうした、ヴェイン? 具合が悪いのか?」
口を噤み、考えに耽っていたヴェインは、ランスロットが近づいている気配に気付かなかった。
気付いた時には、ランスロットの美しい顔が目の前にあった。
碧い瞳が碧だと分からないくらい近づいて、吐息が唇を掠めた。
(ひえ……っ)
息を飲んだヴェインの額に、ひんやりとしたものが触れ、それがランスロットの額だと気付くのに、果てしない時間を要した。
一瞬が一生ほどに長く感じるくらい、ヴェインの意識は飛んでいたのかもしれない。
「ラン、ちゃ……」
冷たいと思っていた額に熱が灯る。触れているから、体温が上がるのだと思えば、ヴェインの顔からは火が出そうなくらい熱くなっていく。
きっともう顔中が真っ赤だ。
「んー……、熱はないか」
「ちょ……っ、ランちゃん!」
「ん?」
涙目になりながら、ランスロットに声を掛けると、彼はクスリと笑って額を離した。
「真っ赤だな?」
ヴェインの動揺に気付かないなんて、そんな鈍感さを持ち合わせていないランスロットの声には、少しのイタズラ心が滲んでいる。
「そりゃ、びっくりするだろ……!」
急に好きな人の顔が目の前に現れたら。
(唇に吐息が触れたら……!)
驚かない人がいるだろうか。
「キスでもされると思ったか?」
「ち、違……っ、なんでそんなこと言うんだよー」
碧い瞳を細めてヴェインをのぞき込む年上の幼馴染み。
ヴェインを落ち着かせる仕草だろうか。
それとも。
全然、落ち着けない。
(俺の全部を受け入れるような瞳だから……全部を……)
受け入れてもらえるのだろうか。
いつもヴェインを全て受け入れてくれたランスロットは、この恋心だって。
「なんでだろうな?」
また微笑んで、綺麗な人差し指で額を軽く押してくる。そのまま人差し指がヴェインの唇へ触れた。
「」
「ナイショだよ」
「何が」
ヴェインの質問に答えることなく、何事もなかったようにソファーへ腰掛け、お菓子に手を伸ばしたランスロット。
菓子が運ばれる口元をヴェインは呆然と眺めていた。
(なに? なに? 今、何があった?)
「ほら、ヴェイン。お茶が冷めるぞ?」
「う、うん」
ランスロットの向かいに腰掛けたけれど、動悸が治まらない。顔も熱いままだった。
自分の頬に両手で触れると、やはり熱い。そのまま頭を抱え込んだ。
(期待していいってことかー?)
「おい、ヴェイン。本当に熱があるのか?」
心配が滲んだ声がして、今度は手のひらが額に触れる。また顔が近づいてくるのを、慌てて遮った。
「ストップ! ストーップ! 熱はありません! カラダ、元気ッ!」
ランスロットに何度も触れられると、期待してあらぬところまで元気になりそうだ。咄嗟に膝を閉じたヴェインを見て、ランスロットが微笑んだ。
「元気なら、よかったよ」
(――これ! 悪魔じゃなくて、小悪魔ってやつだろー!)
イタズラ好きな、とびきり可愛い小悪魔だ。
イタズラは自分だけにして欲しい――そんなふうに思って碧い瞳を見つめると、今度は破顔して、声を出して笑うのだった。