晴れ渡る秋の空は、どこまでも気持ちよく澄み渡り心までもを軽やかにする。走り抜ける道は程よく空いており、不規則な勤務形態ゆえの平日休みに感謝を捧げた。
「オスカー、寒くはないか?」
「いいえ、むしろ風が心地よいくらいです」
隣から掛けられた声に視線を向ければ、ブラッドの端正な横顔が目に入った。オスカーの敬愛する主人であり、上司自らの運転するオープンカーは海沿いの道をすべるように走り抜ける。趣味がドライブだけあり、非の打ちどころのない運転技術は心地よく、オスカーはサングラス越しに表情を緩めた。
秋晴れのとある日、オスカーはブラッドに誘われ郊外へのドライブに同道していた。それというのも、現在彼が取り組んでいる課題である「毎日エリオスチャンネルへ投稿すること」が煮詰まっていたからだった。
初日にウィルからヒントを得て、思わず誰かに話したくなったこと、つまり幸せだと感じた瞬間を投稿したところ、ブラッドの映り込み効果で思わぬ反響を得てしまった。以来、他の者を巻き込まないよう注意深く、そしてブラッドのチェックに合格するよう投稿に努めた。
しかし元々慣れないことに加えて、気負ったせいで早くもネタ切れとなり、思わず頭を抱えていたところで、ブラッドから気分転換のドライブに誘われた。曰く、場所を変えるだけでも発見が多く、ネタ探しには困らないだろうと。
「それに俺がいればすぐにチェックできる。至極効率的だな」
そう言って笑うブラッドの顔は楽しそうで、最初こそ恐れ多いと断ろうとしていたオスカーだったが、普段から多忙を極める主人の息抜きになるのならばと頷いたのだった。
そうして、ブラッドの愛車で向かったのは郊外の湖畔地域。ちょうど紅葉が始まったことに加え、ドライブコースの名所ということで休憩がてら寄れるカフェやレストランも多い。道中、見どころや観光情報などを解説するブラッドは始終リラックスした様子で、オスカーは主の心地よい声を聞きながらこれから訪れる先に思いを馳せた。
ニューミリオンは大都市だけあり、日夜目まぐるしい速度で変化していく。そんな中変わることなくあり続ける雄大な自然というものには敬意に似た憧れがあり、実のところこの日を待ち遠しく思っていたのだ。
スマホで観光情報を調べると、真っ先に目に入って来たのは美しい風景の写真たち。豊かな自然を堪能するアクティビティも様々にあるようで、特に辺り一面を鮮やかに染める木々の写真は強く心に焼き付いた。
さすがに楽しみで眠れないということはなかったが、その好奇心ゆえに敬愛する主の話を聞くのもつい熱が入るというもの。
身を乗り出さんばかりに熱心に耳を傾けるオスカーに気づいたブラッドは、慣れた様子でハンドルを操りつつ「どこかで降りて、散策してもいいかもしれないな」と微笑んだ。それにまた嬉しそうに表情を明るくする様に、ブラッドは四つ年下の青年の素直さを見てますます笑みを深めるのだった。
そうして大した渋滞に引っかかることもなく、昼前には目的地に到着した。混み合う前にと入った評判のレストランは、思った通りランチにはまだ早い時間のためすんなりと席に通してもらうことができ、長時間のドライブに凝り固まった体を解しながらメニューを覗き込む。
「ここは牧場直営のレストランだから、チーズ料理がおすすめらしい。あとはハンバーガーも食べ応えがあって人気だそうだ」
「そうなのですか? チーズバーガーなら両方楽しめるでしょうか」
早速下調べした情報を話すブラッドに青い瞳が真剣にメニューを見ながら思案し始める。ストイックな青年のことだ、恐らくカロリーや脂質を吟味し、明日のトレーニング量を計算しているのだろうことは容易に察することができた。ブラッドもまた似たことを考えつつ、しかしせっかく遠出したのだからと普段より栄養過多なメニューに挑むことを決める。
「俺はローストチキンのサラダとマカロニチーズにしようか」
「はい、ではオーダーいたしますね」
オスカーが視線を向ければ、やって来た店員は愛想よく注文を取っていく。ついでにSNSに載せるために写真を撮っても良いかと確認すれば、ぜひと笑顔で許可をもらえた。
次第に混み始めた店内を見渡し、やはり早めに入店をしておいて良かったと二人で微笑み合う。しばらく取り留めない会話をしていたが、窓際の席からは既に紅葉した山の端が見えており、ちらちらとそちらを見ているオスカーに気づいてブラッドは声を掛けた。
「気になるなら見て来て構わない。料理が来るまでもうしばらく掛かりそうだしな」
「え、しかし……」
突然の提案にうろたえたようだったが、結局は好奇心が勝ったらしく「それでは……」とそそくさと外へ出て行った。外を見ていると周囲より頭一つ半は飛び出た長身がうろうろとレストランの前を行き来していた。やがて丁度良いスポットを見つけたのだろう、立ち止まって山の方角を見ていた彼は周囲の人々がスマホを翳す姿に気づいて慌てて自分のものを取り出している。
スマホを翳して確認し、首を傾げてもう一度。撮り慣れていないことがまるわかりのその所作についつい口元が緩んでしまう。
しかしやはり彼の周りはそこだけぽっかりと空間ができてしまっている。元々その恵まれた体格で威圧感を与えてしまうことはしょうがないにしても、もう少し雰囲気で気安さのようなものが出せれば良いのだが……とブラッドは思案を巡らせた。
知らぬ間に『エリオス一の強面』などという評価を得てしまった元使用人だが、その実、心優しく、案外と面倒見の良い面があることを知るのはごく少数の人間に収まっている。それをもったいないと思いつた、もちろんヒーローとして恐れられることは悪いことだけではないこともわかっていた。
最近までエリアランキングが最下位だったサウスの治安において、オスカーの存在は有益な牽制材料となっていたことだろう。
だが、ランクが上がり治安も大分回復してきた今、次のステップに進まなければならない。それこそどのエリアに配属されても――たとえ、ノースへ異動しても対応できるようにしなければ、オスカーが必要以上に苦労することは目に見えている。
そのために課したことによって、少しずつではあるが市民から親しんでもらえていると思いたい。何より、オスカーという人物を正確に知ってもらいたいと思うのは、拾ってきた責任感か、それとも別の感情ゆえか。
考え事に耽っていると、不意に振り向いたオスカーが気恥ずかしそうに肩を竦める。軽く手を挙げて反応しつつ、そろそろ戻ってこいと腕時計を示せば、相手は頷き素直に入り口へと向かった。
やがて戻って来たオスカーは良い写真が撮れたことを嬉しそうに報告し、それに耳を傾けているうちに料理も届いた。話を一旦切り上げ食事を摂ろうとする相手に「料理は撮らなくていいのか?」とからかえば、慌ててカメラを向ける姿に堪えきれず笑うをもらす。
どうにもこの元使用人の所作は、時々笑いのツボに入ってしまうことを自覚しながらも、無事撮影を終えた相手とともに和やかな食事の時間を過ごした。
ボリュームも味も大満足の食事を終え、再び車を走らせると次第に周囲の色が変わっていく。
木々は標高が上がるほどに鮮やかさを増していき、それは長く続いた坂の頂上、見晴らし台となっている山腹の広場で一気に視界を染め上げた。
湖畔を埋め尽くす赤や黄にオレンジ。そこに針葉樹の黒いほどの緑がアクセントとなり、それによって織りなされる様は緻密なモザイクタイルを思わせた。
眼下一面に広がるその美しい景色に、オスカーのみならずブラッドまでもが息を飲んだ。
「素晴らしい景色ですね、ブラッドさま!」
圧倒的な自然の美を前に、オスカーは風除けのサングラスを外しはしゃいだ声を上げる。風に靡く白い髪が鮮やかな世界とのコントラストを生み出し、ブラッドに笑い掛ける満面の笑みを彩っていた。
「ああ、そうだな。だが危ないから、大人しく座っていろ」
「あ、そ、そうですね!」
興奮のあまりシートから浮いていた腰を落ち着ける彼の頬は赤く染まり、ブラッドはあまりの微笑ましさに勝手に緩む口を押さえた。その仕草にますます肩を縮こまらせるオスカーだったが、ポンポンと柔らかな手つきで背に触れられたことで目尻を緩めた。
「俺もこれほどとは思っていなかったから驚いた。まだ最盛期まで日があるというのに、すでに見応えがあるな」
「そうですね。本当に美しいです」
そんな会話をしつつ駐車場に車を停めると、早速ビューポイントとなっている展望台へ足を向ける。同じ目的の人々が集まるそこは多少の混雑は見受けられるものの、立ち止まっても迷惑にならない程度の疎らさがありがたい。
観光地ならではの賑やかな空気も、どこか自然に解けてのんびりとした雰囲気になっており、おかげで二人はゆったりと眺められるスポットで足を止めることができた。
「すごいです、ここから見るとまた一段と……」
「ああ。これだけ美しいと、言葉も出てこないな」
柵に手を掛け、開けた景色に感嘆の声を上げたオスカーの隣に立ちブラッドはそう相槌を打つ。するときょとんと瞬く瞳が向けられ、怪訝に思って隣を見ると、そこにはひどく間の抜けた顔をした相手がいた。
「どうした?」
「あ、いえ……ブラッドさまでも、そんなことがあるのかと驚いてしまって」
「うん?」
どういう意味かと探るように見つめれば、相手は言葉を選ぶように辿々しく続ける。
「その、ブラッドさまはいつも本を読んでいらっしゃいますし、頭の回転も驚くほど速いです。知識もたくさんあって、発言一つとっても大変感心することも多く……」
「オスカー、話がずれているぞ」
滔々と続く賛辞に、申し訳ないがこのままでは埒があかないと声を掛けるとしまったと言うように顔を歪めた。口下手な青年をあまり刺激したくないと思いつつ、しかし先程の発言の意図は知りたかった。
故に恐縮し小さくなる肩を見やると、ブラッドは柵に手を置いて覗き込むようにして相手に微笑み掛けた。
「まったく……お前は見ていて飽きないな。ほら、何が言いたかったのかもう一度話してくれ」
なるべく手短にな、と揶揄うように口の端に乗せた笑みにオスカーの顔が変わる。安堵したように眉根を緩ませた相手は、はい、と頷くと、一度呼吸をして目の前の景色に視線を向けた。
「ブラッドさまでも、言葉にできないなんてことがあるのかと。俺はこの通り、言葉にすることが苦手ですが、あなたがそんな風に言うことがとても衝撃的だったんです」
「お前は……俺を詩人かなにかと思っているのか? たとえ期待されても、大したことは言えないぞ」
「はは、そうでしたか」
呆れと慈しみを半分ずつ混ぜたような苦笑を見せるブラッドに、オスカーは笑って相槌を打ちもう一度景色へと目を向けた。
ブラッドから言葉を奪った自然はやはり美しいと言う表現以外を見つけるに難しく、澄み渡る空との対比に思わず目を細めて見いる。山々の稜線の合間から覗く湖にはボートが浮かび、楽しそうに漕ぐ親子が見えた。微笑ましい光景を眺め、ふとそこから少し離れた場所で木に止まっている大型の鳥に気づく。猛禽類のような形のそれは見たことのないものだった。
「ブラッドさま、あの鳥は何という種類でしょうか」
「どれだ?」
「あちらの小屋の近くです」
褐色の指が示す先を追って、彼の示すことを察した瞬間ブラッドは諦めた。何しろ、そこに広がるのは一面の紅葉。オスカーの言う小屋などというものは見当たらず、そしてこの元使用人は異様なまでに目がいいことを思い出したのだ。
「オスカー、すまないがそれは教えてやれない。俺には小屋すら見えないんだが」
「え? あの緑の屋根なんですが……」
補足を加えてくるオスカーには悪いが、普段から就業中はコンタクトレンズを、部屋では眼鏡を掛けているブラッドでは視力差がありすぎた。そもそも、機器での計測が不可能な視力を持つ人間などそういては困るのだが。
不思議そうな顔をしていた相手は、やがて「そうですか」と呟き再び前を向く。その横顔は変わりないものだったが、その視線を追うように前を向いた時、ふとブラッドの胸に過ったのはかすかな寂しさだった。
オスカーの視力の良さには度々驚かされて来たが、彼の見ている景色と己の見ている景色の違いを、ひどく感じ取ってしまった。
ブラッドには示された先はただただ色彩の集まりとしか思えなかったが、隣の彼には小屋とそこに止まる鳥が見えていた。同じ場所にいながら、これほど見えるものに差があることが、オスカーの見えている世界が、自分には理解できないことが寂しいと言う感情を湧き起こす。
ちょうど吹き抜けた秋風の冷たさに、思わず肩を竦める。寒がりの相手では尚更だろうとそちらを向けば、そこには予想外にも微笑んだ顔があった。
「ああ、これは草木と枯葉の香りでしょうか。ふふ、ここは秋の香りに満ちていますね」
「あ、ああ。そうだな」
ブラッドが驚いていると、不意にそう呟きオスカーは笑みを向けた。咄嗟に頷きつつも、内心は詩的なその発言に舌を巻く。
なんだ、俺よりずっと詩人ではないか。
そうからかう言葉はついぞ言葉にすることなく、思い出して写真を撮る相手を前に消えていく。
そうして呆然としていると、響くシャッター音に気づいたのだろう。近くで眺めていた夫婦が「よければお二人を撮りしましょうか」と声を掛けてきた。
「え、いや、ええと」
突然のことに戸惑うオスカーの青い瞳がブラッドに向けられる。そこには明確に「どうしましょう」と声なき問い掛けが浮かんでいた。
その戸惑いようを訝しむも、そう言えば、彼は道を聞かれたことすらないとウィルが言っていたことを思い出す。
そうすれば明晰な頭脳が返答を導き出すのはあっという間のこと。これも交流だと頷いてみせた。
「そうだな。折角だし、頼もうか」
「はい! あの、お願いしてもいいですか?」
「もちろんですよ。ええと、ここを押せばいいのかな?」
尋ねる男性にスマホを渡しつつ、辿々しいやり取りをするオスカーは、その大柄な体躯とのギャップでどこか微笑ましさを感じてしまう。思わず緩みそうになる頬に力を込めて堪えていると、隣から上品な笑い声が聞こえてきた。
そちらへ視線を向けると、男性の妻らしき女性が穏やかな笑みを浮かべていた。
「あら、ごめんなさいね。貴方のお友達、こういうの慣れてないのかしら。なんだかとても可愛らしくて」
「ええ、俺もそう思いますよ」
穏やかな眼差しはただ暖かく、母のそれを思い出してブラッドが笑えば相手もまた同じ温度を返してくれる。
ようやく説明が終わったのか、戻ってきたオスカーを見て女性は入れ替わるように男性の方へ近づいた。
「お待たせしました」
「いいや、それほど待っていないさ」
短くやり取りを交わすと、二人並んで視線を男性の方へ向ける。撮りますよ、と声を掛ける男性の隣りで微笑む女性が、「笑顔でね」と言うように頬を指先で押し上げる。
その姿に思わず二人の顔も笑顔になり、続いて響くシャッター音。
「はい、確認してください」
差し出されたスマホを覗き込むと、雄大な自然と二人の姿がうまく画面に収まっている。少しだけ斜めになっているのはご愛嬌。いつになく自然な笑みで映るその画像に、オスカーは驚いたように男性を見た。
「あなたはカメラマンをされていたのですか?」
「まさか。もしうまく笑えていたのなら、彼女のおかげですよ」
「いつも家族写真を撮る時、子どもたちを笑顔にするのは私の役目でしたから」
そう言って笑い掛ける男性と、茶目っ気たっぷりに答える女性は、良い家庭を築いて来たのだと思わせる親密さがあった。
これから近くの牧場へ向かうのだと言う夫婦とはそこで別れ、しばらく周囲を歩いて景色を堪能する。オスカーは先程の撮影で刺激されたのか、熱心に写真を撮っておりブラッドも景色を楽しみながらゆったりと後ろを着いていく。時折ヒーローだと気づいた者から、主にブラッドが声を掛けられるので対応しつつ、ついでに自分たちの写真も撮ってもらった。
そうして小一時間ほど時間を過ごし再び車に戻る。ここから先は車で湖畔をぐるりと巡る予定だ。
「思った以上に楽しめたな」
「はい。良い写真も撮ってもらえました」
ニコニコと端末を見つめるオスカーは実に楽しそうで、予定外の交流ができたことに内心ブラッドも満足だった。観光地という解放された場所と、いつもの制服姿でないことが幸いしてかオスカーも交流ができていたようだ。
安全運転で出発した車内で、ドライブの共に買ったホットドリンクを啜る。アップルサイダーが名物だと聞き選んだが、爽やかな甘味と温もりは今の気分にピタリと合っていた。
「甘いけれど、優しい味で美味しいです」
「俺も気に入った。ディノが作るものより爽やかな後味なのは、リンゴの種類が違うのかもしれないな」
「ああ、確かに。そろそろディノさんが作り出す頃ですね」
味につられて思い出した同期の話をすれば、さすがメンティーだけあり振舞ってもらっていたらしい。懐かしそうに目を細める姿は、今はサングラスに阻まれ見ることはできないがブラッドの脳内では簡単に描くことができた。
湖に向かう下り道は木漏れ日が降り注ぎ、オープンカーゆえに時折舞い込む落ち葉がシートを彩る。これは帰ってから掃除だな、と思いつつもどこか楽しんでいる自分を意識してブラッドの口元は緩んだ。
そんなことを考えている主の隣で、オスカーは穏やかに微笑む主の姿に見惚れていた。
元よりブラッド・ビームスという人物は眉目秀麗なヒーローとして有名ではあったが、普段の彼は宝石のように美しくありつつもどこか硬く冷たい印象があった。それが今はうっすらと浮かべた笑みと穏やかな雰囲気によって、ひどく柔らかな、こう言ってはおかしいが人間らしく見えた。
その瞬間に目を奪われたオスカーが次に思ったのは、今この瞬間こそカメラに収めたいという想い。夢現のように無意識のうちに動いた手は、今日一日ですっかり慣れた動作を行っていた。
カシャ、と風切り音に響くシャッター音。不意打ちのそれにブラッドは驚きながらも、何とか視線を前方から逸らさず「オスカー?」と名を呼ぶ。途端にハッとしたように体を跳ねさせた相手は困惑したようにスマホを握りしめた。
「す、すみません! 声も掛けず、こんな盗撮のような真似を……っ」
すっかり狼狽した様子に、ブラッドも困惑していたはずだというのに不思議と落ち着いていく。あわあわと擬音が聞こえてきそうな反応を怪訝に思い、丁度信号待ちで停まったことをこれ幸いと隣を見れば真っ赤に染まった顔が見えた。
「おい、どうした」
「あ、あの、その、これは……」
戸惑いのために握りしめたスマホからギシギシと嫌な音が聞こえてくる。さすがに破壊させるわけにはいかないと、手を重ねると大仰に跳ねた手からぽろりとスマホが落下した。
「危ない……っ、と、これは?」
ひっくり返ったそれを受け止めたブラッド手のひらの中、天を向く画面に映し出されていたのは運転する己の横顔。思わず相手を見れば、先程より赤く、それこそ紅葉より余程鮮やかに染まったオスカーがいた。
「あ、ぶ、ブラッドさまが、あまりにもお美しくて……ずっと眺めていたいと、つい、出来心で……」
「オスカー」
紅潮し、震える声は羞恥を露わにしていた。それは隠し撮りという行為へのやましさだけではないことは確かで、予期せぬ展開に目を見開く。落ちる沈黙は気まずさよりも、どこか甘酸っぱさを孕んだ浮き立つもので、互いに言葉をなくして見つめ合う。
時が止まったかのような空白の時間、それを破ったのは耳をつんざくクラクションの音だった。
「し、信号が変わりましたね!」
わざとらしいほどの大声で告げるオスカーに、応えるように車を発進させる。気づけば長い信号待ちの列は動き出し、前の車と随分距離が空いてしまっていた。咄嗟のことに動き出した車はいささか乱暴で、ブラッドには珍しい、がくりと重力を伴うそれに思わず舌打ちが出てしまう。
そうして残りの道のりは若干の沈黙と、何とか間を繋ごうと空回るオスカーの会話が続いた。
景色は相変わらず素晴らしいものであったが、どこか浮ついた空気をまとったまま気づけば車は復路を辿る道へ差し掛かる。その頃には気分も持ち直してはいたが、行きとは異なる空気は自然と二人の会話を減らしていた。
既にブラッドからは写真を撮ったことは気にしていないこと、また写真を見て名残惜しそうにするオスカーの様子から、気恥ずかしくはあるものの無理に消さなくてもいいということは伝えてある。
なぜ自分の写真など、といささか疑問は残るものの、見るからにしょんぼりとしたオスカーを見るとつい許してしまう。
つくづく自分は彼に甘い。そんな風に皮肉ってみるものの、ブラッドは己がこの甘さを楽しんでいる自覚があるため、きっと直すこともないだろうと緩やかにハンドルを切る。
それに、そろそろ隣で話題が尽きたらしいオスカーに手を差し伸べる頃合いだ。まだどこかぎくしゃくしている彼に向けて、なるべく刺激しないよう名前を呼ぶ。
「オスカー」
「はっ、ひゃいっ!」
突然の呼び掛けに驚いたのだろう。素っ頓狂な返事はそのまま相手の心情を表し、またあわあわとする忙しない姿を横目に、風に負けないようハッキリとした発音で告げる。
「左側を見ていろ。そろそろ見えるはずだ」
「左? 何の話で……」
不思議そうに尋ねる声はそこで止んだ。
山を走る道が一旦途切れたかと思うと、目の前に広がるのは広大な海岸線。白い波飛沫が立つ海原はグラデーションが掛かり、山の紅葉と空の青とのコントラストが際立っていた。
「海、海ですねっ」
きれいです、と嬉しそうな声を上げるその顔に、ブラッドは満足そうに笑った。
サプライズはあまり得意ではないが、素直な反応をするオスカーのことだ、きっと良い反応をしてくれるだろうと織り込んだルートは期待以上の働きを齎してくれた。
「ニューミリオンも海に囲まれていますが、こちらの海はまた少し違いますね」
「ああ、色のグラデーションがよりハッキリしているな。ここは車の乗り入れもできるから行ってみるか」
「はい!」
会話の糸口を得たこともあり、嬉しそうな返事をする相手に答えて左折のランプを灯す。同じ目的の車もちらほらと見え、その流れに沿っていけば難なく車は砂浜へとタイヤを下ろす。
前の車の轍を辿るように走らせながら浴びる潮風は心地よく、間近に見える海と砂浜を走るという開放感に二人の気持ちも昂った。特に秋の日差しにきらめく波飛沫を見るオスカーは、いつの間にかサングラスを外して夢中になって海原を眺めており、その海に負けない鮮やかな瞳にブラッドもまた心地よくドライブを続ける。
「知っているか、砂浜を車で走れる場所というのは世界で3箇所しかないそうだ」
「そうなのですか?」
目を丸くしながらこちらを見た相手に頷き、ブラッドもそっとサングラスを上げて海を見た。
「ここと、ニュージーランド、そして日本だ」
「日本なんですか! ふふ、ブラッドさまのお好きなものは日本に行けば大抵揃ってしまいますね」
「そうかもしれないな」
ニコニコと返すオスカーの顔からは緊張は消え、その変化を受け止めたブラッドもまた柔らかな雰囲気で相槌を打つ。
走る車は二人に穏やかな時間を取り戻させ、再開した会話は潮風に流されていく。細かな砂を防ぐため、再び着けたサングラスで瞳は見えなくなったもののもう二人は互いを見ずとも会話を続けることができた。
「ここは夕日の時刻に来るのが最も人気と聞く。ここから海に沈む夕陽は美しいだろうな」
「そうですね、俺も見てみたいです」
そうはにかむようにしたオスカーの返事に込められた控えめな期待。それは期待というより願いのような儚さがあったが、ブラッドは正確にそれを読み取っていた。
そして、彼の思う『もし』の未来を確約するためそっと唇を開く。
「そうだな、また気晴らしに来よう。その時も付き合ってくれるか?」
「……はいっ!」
ブラッドからの投げかけに、嬉しそうに、眩しそうに瞳を細めて頷くオスカー。サングラスに阻まれたその瞳が、きらきらと光っているように思えるのは、ブラッドの都合の良い思い込みでないことをその声が証明してくれる。
やがて砂浜の端に辿り着き、一般道へ合流する頃には同じく帰路に着く車が増えていた。まだ渋滞を懸念するほどではないが、急いだ方が良いだろう。そう思ってアクセルを踏もうとしたところで、あっ! と助手席からした声に思わずペダルから足を離す。
何事かと思わず視線を向けた相手に、オスカーは再びその身を小さくしながら恥ずかしそうにもそもそと言葉を口にした。
「驚かせて申し訳ありません。その、海の写真を撮り忘れてしまいました」
そう告げてブラッドの方を見るオスカーの様子はまるで犬のようだった。余程海岸線ドライブが楽しかったのだろう、しょんぼりと下がる耳が容易に浮かぶ様につい吹き出してしまう。
「ふっ、なんだそんなことか」
「はい、本当に面目なく」
重なる謝罪にそうではないと首を振り、ナビを確かめレーンを変える。
「安心しろ、まだ海を撮るチャンスはあるぞ」
そう言って曲がると、再度海岸線に向けて車を走らせる。まだそれほど離れていないことが幸いし、ここからならと思いついた場所を目指した。
何のことかわからないオスカーを置いて、流線型のオープンカーはやがてエンジンを止めた。そこは海に向かって迫り出した簡易広場で、疎らに停まった車の先には青い海原が見えた。
「ほら、ここなら撮れるだろう」
「ブラッドさま、ありがとうございます!」
目を瞬かせるオスカーに、早く行ってこい、と送り出す声は柔らかく、どこか誇らしげな顔はまるでこの事態を想定していたかのようだ。そんなブラッドの気遣いに感動し、感極まって出したオスカーの声に満足した相手は頷いて気持ちを受け止める。
足早にウッドデッキを模した広場へ向かう背中は同性でも惚れ惚れするほど逞しいというのに、今はただ無邪気な気配をまとっていた。カップルが多いことに気後れしつつも、任務を遂げんとそそくさと端に立つと構えたスマホで撮影する。レストランの時より、随分手慣れた様子を眺めながららふとブラッドも己のスマホを取り出した。
真剣な顔で海を見つめる横顔をしばし眺め、立ち上げたカメラアプリ。そっとスピーカーを手のひらで覆うとシャッターを切る。カシャリとくぐもった音は潮騒と距離でブラッドにしか聞こえない。
画面に閉じ込めたオスカーの横顔を見つめ、ふ、と笑みを刻んだ口元を知るのは吹き抜ける潮風だけだった。
その夜オスカーがエリチャンに投稿したのは、たくさんの画像と自然の雄大さに圧倒されたという感想。
『オフを利用して、少し遠出をしてきました。自然豊かなこの場所は、すべてが美しく、おかげでたくさんの驚きと感動を知ることができました』
相変わらずメッセージは硬いが、その分写真は彼が感じたことを伝えてくれる。
色づく山々。降り注ぐ木漏れ日。大きな手のひらに乗せた葉。そして鮮やかな空と海。何ということはない観光地の景色といえばそうだが、オスカー・ベイルというヒーローが見た世界の鮮やかさが伝わってくる、どこか温かさを感じる写真であった。
ブラッドから太鼓判を押された内容だけあり、市民たちからも好評を得た。中には『俺も行ったことがあります。本当に素敵な場所ですよね』とレスポンスまでもらい、オスカーはそのメッセージを喜び、ブラッドに報告すると大切そうに眺めた。
「嬉しいですね、こうして俺の何気ない言葉でも見ていてくれる市民がいるのですから」
「そうだな。俺たちは彼らを守ることが仕事だ。これからも、市民との触れ合いを大切にしろ」
「イエッサー!」
最後にそうまとめたブラッドに、オスカーは笑顔で答える。その顔は以前よりも自信が見え、心なしか柔らかな印象すら受ける。
やはり気分転換に連れ出して良かったと、本日の成果に満足しながらブラッドは今はキッチンに立つ相手を見遣った。
もうすぐメンティーたちがお腹を空かせて帰ってくる。今日の土産でもあるソーセージやチーズを使ったディナーを用意するオスカーを眺めていると、不意に思い出すのは最初の頃の投稿騒ぎ。
あの時はディナーのカトラリーに映り込んだブラッドの姿が発見されたことで、二人が一緒にいることが判明した。別に隠していたわけではないが、まさかあんな小さな画像から特定しようとする者がいるとは思っておらず驚いたものだ。そして、その時のコメント欄にあった言葉が不意に脳裏をよぎった。
「匂わせか」
ふむ、と顎に手を当て考える横顔。そこにかつての大人を出し抜くやんちゃ小僧の面影がよぎったかと思えば、スマホの画面をなぞる優美な指先は流れるように文章を綴っていく。
『久しぶりに趣味のドライブへ行ってきた。このシーズンは天気に恵まれ、つい遠くへ行きたくなる』
そして一枚の画像を選ぶと、添付して投稿ボタンをタップする。それは愛車から景色を映したもので、車体の深い紫に反射する日差しが美しいカーブを縁取り、オープンカーゆえの開けた視界は洒落た雰囲気を演出している。
フロントガラスに挟まった一枚の葉は赤く染まり、海との対比で良く映えるそれに人々は彼はカメラワークまで完璧だと絶賛した。
その後、この写真はどこで撮られたものかを調べる者が現れ、特に隠す気もないその景色によってあっという間に場所が判明する。それと並行して、ぼかした背景の中、やたらと飛び出た人影があることも。
『ねえ、もしかしてこれ、オスカー・ベイルじゃない?』
そんな答えに人々が行き着くまで、そう時間は掛からなかった。投稿から数時間、解答が出たところでブラッドは密かに唇を吊り上げたのだった。
ちなみに、この事態に気づいた彼の同期であるキース・マックスは、ブラッドの意図も“きっちり”理解した上で「アイツ、ジョークのセンスねぇよ」とこぼしていたという。