一発逆転ジャックポット(ブラオス)「ええと、普段の時給は16ドルです。でも今日はホールなので、もう少し高いとは思うのですが」
大真面目に答えたオスカーの言葉に、男は珍しいマゼンダ色の瞳を大きく見開いた。その後ろからは馬鹿笑いと称して良い声量の笑い声。最近入ったという怠惰なディーラーの声を聞きながら、オスカーは困惑に眉を下げた。
時は遡ること数時間前。いつも通りオスカーは己が勤めているカジノに出勤していた。オスカーが今身を置いているカジノは繁華街の路地を入ったところにある、まあ言ってしまえば「あまりよろしくない」類の店で、ブラックとグレーの間をギリギリ綱渡りしているような店だった。
カジノとしても違法性が高く、バックにヤバい組織が絡んでいると黒い噂があるとかなんとか。それだけ知っていても、身寄りもないストリートチルドレン出身の青年を雇ってくれる貴重な店であるだけに文句は言えず、今日も彼はお仕着せのガードマンの制服に腕を通して配備位置に着こうと従業員通路を歩いていた。
「クソッ、あいつトビやがった!」
苛立たしそうな声に足を止めれば、そこにはフロアを仕切るマネージャーがいて、次いでガツンと派手な音が響く。
そっと角から顔を覗かせれば、どうやらバイトにサボりが出たらしい。劣悪な状況に逃げ出すバイトは数知れず、今日もまた一人行方知れずが出たことは簡単に察せられた。
荒れた様子のマネージャーを前に、報告に来た男はすっかり竦み上がり、落ち着かなさそうに目を泳がせている。その間もマネージャーはぶつぶつと愚痴と文句を繰り返しており、これはしばらくここで事態が収まるのを待つしかないかとため息をついた。
どうやらフロアは連日のバイトの抜けですっかりてんてこまい。今日も人員ギリギリで、もうグラスを下げるだけでもいいから、手伝える奴を連れてこいと怒鳴り散らす声が廊下に響いていた。
そろそろ持ち場へ行かないと、と思いつつオスカーはヒートアップしていく怒声を聞く。オスカーの思惑とは真逆に、不毛な文句は止まず、謝罪を繰り返す男の弱りきった声と怒鳴り声は何層にも重なっていく。
まだ治らないだろうか、と焦れたオスカーは再びひょこりと角から覗き込む。するとちょうど頭を下げていたらしい男とバチリと視線が合ってしまった。
そして、相手はカッと目を見開くと、オスカーを指差して大声を上げた。
「あ、あいつ! あいつはどうですっ?」
「は? ん、おお! ちょうど良いのがいたな」
突然のことに驚く間もなく振り向いたマネージャーと男が近づいてくる。咄嗟に後退りするものの、それほど距離があったわけでもない場所では大した抵抗になどなりはしない。
そして、オスカーの目の前に二人が並んだ時、全ては決まってしまった。
「おい、お前、今日はフロアに出ろ」
「は?」
なんの話かと問う前に、さっきまで顔面蒼白で謝罪を繰り返していた男に連れられ、あれよあれよという間に気づけばオスカーはフロアに立っていた。
それも、イースターが近いからか、何の冗談かと思うようなパステルカラーのスーツにウサギの耳が着いたハットを付けた姿で。
「今日はその格好でグラスの上げ下げでもしとけ。時給だけは弾んでやるからよ」
突然の展開に目を白黒させるオスカーにマネージャーは非常に簡潔に仕事を言い渡し、ああ忙しいなどと口にしながら消えてしまった。
そうして、開店までの僅かな時間に己のやるべきことを叩き込まれ、給仕の真似事に従事しているという訳である。
普段は威嚇の銃をチラつかせて巡回をしているところを、今は銀のトレイにドリンクを乗せフロアを動きつつ、空いたグラスがあれば受け取りカウンターへ持っていく。慣れない接客の仕事に困惑しながらも「そこのウサギさん」と呼ばれれば、すかさずそちらへ足を向けひたすらフロアを歩き回る。
叩き込まれたわずかな知識と、周囲で同じように給仕をしているフロア担当の仕草を真似してなんとかこなしながら、普段外で眼光鋭く佇んでいる警備の仕事はオスカーの性に合っていたのだとつくづく思い知らされた。
「おおい、オスカー」
「え、あっはい!」
突然呼ばれた名に振り返ると、そこにはニヤついた顔のディーラーがいた。キースというその男は半月ほど前に店に入った男で、腕はそれなりなのだがとにかくサボりがちだとマネージャーに愚痴られているような相手だった。
そして、なぜかオスカーは彼に気に入られているらしく、顔を合わせる度になんだかんだと話しかけられていた。
「お前、何その格好。うさぎちゃんに転職したの?」
「え、いや、人手が足りないので急遽代理で……」
近くにいくと、堪えきれないように吹き出したキースは上から下までオスカーを眺めてそう言った。明らかに揶揄いまじりのそれに居心地悪そうに肩を竦めて経緯を話せば、相手はへえ、と呟き近くに置いていたグラスを揺らした。
「そりゃまあ大変ね。お前、こういうの苦手そうなのに」
「ええ、まあ。あ、何かお持ちしますか?」
空のグラスに気づいて尋ねれば、相手はピクリと眉を上げて、口元に先程とは異なる色合いの笑みを乗せた。
「意外と気が利くじゃねえか。んじゃ、ジンジャーエール。辛口、氷少なめな」
「はい」
感心したような声に照れ臭くなりつつ、グラスを受け取ったところで、ふとキースの深い緑の瞳が物言いたげな色を浮かべていることに気づく。はて、と瞬くと、そんなオスカーを一瞥した相手はそっと体を傾けると囁くような低音で話しかけてきた。
「なに。そんなに人手ヤバいの?」
「フロアのことはよくわかりませんが、よく人が入れ替わっている気はします」
「……ふうん。部署が違うお前でもそう思うんなら、相当なんだろうな」
顰めた会話に同じように小声で答えると、キースは「俺も次の職場を探さないとかねえ」とどこか諦めを滲ませつつ呟いた。それにどう返せばいいのかわからず、そして身寄りのない自分には次の職場などあるのだろうかと密かに顔を曇らせた。
「あーっと、まあ、そんときゃ一緒に逃げようぜ。お前の腕っ節と人柄なら、何とかなると思うからよ」
気づいたキースは元気付けるようにそう言ったが、やはりなんと言えばいいのかわからず曖昧に笑うと、今はただ目の前のことをこなそうと注文の品を取りに行く。
そうして戻ってきた時、キースの台には一人の客が座っていた。
遠目に見てもこの店には些か釣り合わないほど身綺麗な姿。体にフィットし、美しい線を描くスーツの背中は近づきがたい雰囲気を感じたものの、手にしたトレイの上のグラスが否が応でもオスカーに仕事を知らせてきた。おまけにこちらに気づいたキースの瞳が待ってましたと喜びの色を浮かべるものだから、もう後戻りはできないと覚悟を決めて足を踏み出す。
邪魔をしないよう、最低限の仕草でグラスを置くと、ちょうど顔を上げた客と視線が合った。
その瞬間、オスカーは世の中にはこれほど美しい人間がいるのかと愕然とした気持ちに襲われた。透き通るような白い肌に、品の良い顔立ち。緩く分けた前髪によって露わになった額は陶器のなめらかさで、何よりオスカーの目を釘付けにしたのは凛とした意思を感じるレッドスピネルの瞳だった。
ガードマンとして外に立っていると、様々な人間を目にする機会があった。ショー担当のダンサーたち、好事家の愛人、何やら訳のありそうな輩まで、実にバラエティに富んでおり、中には目を見張るような容姿の者も多くいた。しかし彼らの美しさとこの人間の美しさは外見こそ似通ってはいても、その身の内から沸き立つような気高く清廉な意思によって一線を画していた。それこそ、眩しすぎる太陽を直視して目が眩んだように、オスカーはその瞬間身動きができなくなってしまうほどには。
混じり合った視線は逸らすことすらできず、二人は束の間見つめ合う。その一瞬の空白は時間にすれば一秒もないというのに、オスカーには永遠のように長い時間を感じさせた。
「君は……?」
美しいその人はまさかの声まで心地よく、思わずオスカーはもっと聞きたいと耳を澄ませてしまう。答えるはずの言葉は咄嗟に出て来ず、何かを言わなければと困惑しながらはくりと空気を食んだところで、隣から助け舟が出された。
「あー、前に言いましたよね? ガードマンによく話している奴がいるって」
「ああ、彼のことか」
オスカーの代わりに答えたキースの声に、客の視線はそちらへ向く。視線が逸らされたことでようやくまともに息が出来るようになりホッと息をつきつつ、しかし同時に湧き上がるのは勿体ないと惜しむ気持ち。それをうまく消化できず、妙に真顔になったオスカーを脇目に、二人の会話は進んでいく。
「しかし、それならなぜここに?」
「今日は代打でフロアやってんですよ。でも意外と様になっているでしょ?」
「確かに。良いウェイターぶりだ」
「え、ええと……」
突然男たちの視線が向けられ、思わずたじろくとキースは面白そうに、そして男は興味深そうに目を細めた。世間話に巻き込まれ、元々口下手なオスカーには荷が重く、故にどうにかこの場から離れる方法がないかと視線を巡らせる。
その時ふと二人の手元には何もないことに気づいた。もしかして自分がいるせいで始められないのでは? と閃いたオスカーは、意を決して口を開く。
「あの、俺のことは気にせず、どうぞゲームをお楽しみください……」
慣れない言葉に舌がもつれそうになりつつ、なんとか言い終えて踵を返そうとした時だ。不意に男の手が伸びたかと思うと、パシリとオスカーの手首を掴んだ。
咄嗟のことに体を強張らせると、相手は瞳をすがめて笑みを浮かべた。その蠱惑的な表情に息を呑んだ瞬間、あの耳心地の良い声が人より感度の良いオスカーの鼓膜を震わせた。
「今夜、君の時間をもらいたい」
「えっ」
重なった声に隣を見れば、なぜかキースまでもがポカンとした顔をしていた。それはまさに驚愕という言葉そのもので、ポーカーフェイスが売りのディーラーとは思えぬものだった。
そしてそれは今度は助け舟を期待できないことを示しており、オスカーは自分の言葉でこの美しく品の良い男に答えざるを得ないことを教えていた。
油の差されていない機械のように、ギシギシと強ばった動きで顔を戻す。相変わらずそこには艶やかな笑みを浮かべた美形が待ち受けており、怯んで腰が引けてしまう。だが繋がれた手は解かれる様子がなく、なんとか答えを返さなければとオスカーは普段知的労働などしない頭を必死で動かして言葉を探した。
そして、紡ぎ出されたのが冒頭の言葉である。
男は今夜の時間をもらいたいと言った。それはつまり時間単位でのやり取り、つまり時給の話かと思ったのだが。
何とか捻り出した返答の結果、辺りはキースの笑い声で満たされ、不自然に固まった男の瞳にオスカーは己の答えが誤りであったことを悟った。
「あ、あの、すみません、何かおかしかったでしょうか?」
「いや、最高! オスカー、お前冗談言えたんだな!」
キースはそう言うと、オスカーの肩をバシバシと叩きながら上機嫌に肩を震わせた。冗談のつもりはなかったのだが、と困惑しつつ視線を戻せば、固まっていた男はふう、と息を吐いて顔を俯かせた。
「いや、不躾に済まなかったな」
「あ、いえ、とんでもないです!」
相手の謝罪に驚いて頭を振れば、制するように手のひらが翳される。いつ間に解かれたのかと頭に過った疑問は、すらりとした造形にさらわれ、この男は細部まで完璧なのかと密かに度肝を抜かれた。
男はスーツの隠しに手を入れると万年筆を取り出し、次いで名刺を持ち出すとサラサラと文字を綴る。
几帳面な性格の垣間見える流麗な筆記体で綴られたのはこの近くにあるバーの名前で、怪訝に思い眉を寄せると、男は再び落ち着いた表情に戻り、微笑みながら囁いた。
「よければ、仕事終わりにこの店に寄ってくれ。一杯奢ろう」
「え、え?」
戸惑いを露わに男と名刺とを繰り返し見ていると、ようやく笑いの治ったらしいキースが「もらっとけって」と援護をしてくる。そこまでされてしまえばもうオスカーには選択肢などなく、戸惑いつつ受け取ると制服のポケットにカードを忍ばせる。
「では、楽しみにしている」
「良かったな、オスカー。まあ折角だし、美味い酒でも奢ってもらえー」
話は以上と言わんばかりにひらひらと振ったキースの手は、次になめらかな動きでカードを操り出す。男の方も真っ直ぐにテーブルに向かっており、ゲームが始まるのだとわかる空気に、オスカーは退散を余儀なくされた。
そそくさと場を去り、そうして何が起こったのか、これから何が起こるのか、何もかもが曖昧なほど意識はぼんやりとしており、キャパシティオーバーした頭はまともに思考を働かせることすら困難にした。それでも生来の真面目さでなんとか仕事だけはこなしつつ、オスカーはこの後に待つことを思い叫び出したいような焦燥に駆られるのだった。
その後、誘われたバーに顔を出せば、彼を待っていたのはあの美しい男……ブラッドだけでなく、なぜかキースも同席しており、彼らが実はとある組織の潜入捜査員だと知らされた。そして情報提供をするよう取引を持ちかけられ、明日の飯を憂うオスカーには謝礼金とともにその組織とやらにスカウトすることが提示された。
ブラッドいわく、組織は出自は問わず、実力と適性さえあれば良いとのことで、もし適性がなくとも自身の家で奉公人として雇うというのである。
あまりにも自分に都合が良すぎる話に目を白黒させていると、それまで黙って二人のやり取りを眺めていたキースが呆れたように告げた。
「まあ、疑うのもわかるけどよ。どうやらブラッドはお前のことを相当気に入っちまったみたいでな。それにほら、一緒に逃げようって言ったろ」
「そう言うことだ。悪い条件ではないと思うが」
怒涛の展開に呆然とするオスカーに、ブラッドは悪戯っぽく笑うと「キースから話を聞いた時から考えていた」と相変わらずの良い声で囁かれた。その声はまるで魔性で、気づけばオスカーは首を縦に振っていた。
そうしてオスカーの協力を得てからわずか数週間後、店は摘発され、関係者はまとめて逮捕。今となってはカジノがあったことなど嘘のように、その場所には更地が広がっていた。
通り掛かりに見た懐かしいその場所に佇むオスカーの隣には、ブラッドが並び面白そうにあの日と同じマゼンダの瞳を向けて微笑んだ。
「どうした、古巣が恋しいか?」
「いえ、今でも不思議で……」
なぜあの日自分に声を掛けたのかと問うオスカーに、今や上司で仕えるべき生涯の主人となった相手は唇を釣り上げた。
「お前には、こちらの方が合っていると思ったからだ」
まあ、あの姿も悪くはなかったがな、と付け足したブラッドは、トン、と軽く腰を叩く。そこはあの日名刺を納めたポケットのあった場所で、湧き上がる羞恥に思わず「ブラッドさま!」と名を呼べば、珍しく声を上げて笑った主はそのまま颯爽と歩き出す。
慌ててオスカーがその背を追い、そうして二人は騒がしくも愛おしい街へと消えていった。