その子は迷い猫ではありません!!ここ最近、なんだかやたらといいことが続いた。
おそ松兄さんに無理やり引きずられていった(友達の猫待ちで部屋で待機していたのに)競馬場では馬単で1500円分買った馬券が万馬券となり、羨ましいと泣き喚く兄にいくらか渡してちゃんと口止めもした。
十四松とチョロ松に誘われて出かけて行ったパチンコでは新台が大当たりして財布の厚みがいくらか増し帰り道でちょっといい居酒屋に立ち寄ってチョロ松と十四松を買収した。わりとちょろい兄弟たちのおかげで懐は暖かかった。もともと金遣いの荒い長兄やファッションに気を使う次兄と末弟、趣味に金を注ぎ込む三男とは違い無趣味で身だしなみにも無頓着な自分が出費するところといえば猫缶。猫に必要なグッズ。あとは十四松と出かけた時にコンビニで買い食いするくらいなもので、数週間経ってもそれほど目減りはしなかったのだ。
路地裏で新しく出会った黒猫とはあっという間に仲良くなれたし、生まれたばかりの子猫たちは母猫と共に元気にすくすくたくましく育っている。夕飯に売り出し中だからという理由で手羽先がよく出たり、おみくじと同じで白紙ばかりのくじ引きで十四松が喜びそうなハイボール缶24缶入りも当たった。持って帰るのが苦だったのでもちろんすぐさま十四松を呼んだ。
とにかく、ついていたのだ。
いいことがあると不安になるタチの自分だったが、こうも嬉しいことが続くと気が大きくなってくる。
……そう、大きくなってた。おれなんかにそんな価値もないのにいい気になっていた。
「一松?大丈夫か?」
覗き込んでくる顔は心配そうに眉を顰めている。
キョロとまわりを見渡すといつものちび太のおでん屋で。どうやらおれはグラスをしっかり握ったまましばらく寝ていたらしい。あくびをした途端ついていた肘がガクンとカウンターから落ちそうになって、ぼんやりする頭でヤベッと思った。下のアスファルトに叩きつけられるのを覚悟して身を縮めたが痛みも衝撃もなにもない。あれ??と思っていたら横っ腹に差し込まれた腕で元の姿勢まで引き起こされた。
「酔ってるなぁ、気をつけないとダメだぞ。マイリル」
ん??と疑問符を浮かべたままで顔を向けると至近距離で目があって、あまりに驚いたため持てる力全てを込めてその顔を押しやった。
「……やめろ!くっつくな、暑苦しい!!」
「痛い痛い!!めっちゃ痛い!!やめるんだ、いちまぁ〜つっ!!……うぅっ、せっかく助けてやったのに……」
猫爪を立てて力一杯押したため赤くなった顎を押さえて涙目でそいつは言う。いつもそうだ。おれが何をやろうと涙目で黙るか、黙って困惑の表情を浮かべるか。たまに理不尽の度を超えると言い返してくることはあるが、決してこちらを傷つけるほどの強さは含まれていない。とにかく優しさだけは兄弟随一に違いなかった。それがまた癪に触る。腹が立ってしょうがなかった。
まだくすんっと鼻を啜っているので、わざとらしくため息をついてそちらを見やった。
「……悪かったよ、ごめん。ありがと……」
小さくそう言えばあっという間にこいつは上機嫌に笑うんだ。
「……ああ!礼には及ばないぜブラザー!」
へっ、ブラザーね……。どうせおれは6人いるうちの一人でしかありませんよ。誰かの大事なただ一人なんて、たいそうなものにはなれないですよね。身の丈を知れとばかりに優しさの追撃は止まない。
「もう少しこっちに寄ったらどうだ?また落ちそうになると危ないからな。……というか、眠いなら帰るか?気分が悪い感じではなさそうだな……。とりあえず水飲むか?」
ひとしきりこちらの様子を窺ったあとは、言葉通り水を頼もうと店主の方を向いたので慌ててその裾を引っ張った。
「なんなんだよ、かまいすぎなんですけど……。いいからほっといて……」
カウンターに熱を持った頬をつけて顔を背けた。後頭部には兄と弟たちの楽しそうな会話が降り注ぎ、目を向ける先には真っ暗な夜の道路を街路灯が照らしている落ち着く景色が広がっていた。
こいつの優しさを分け与えてもらえるのは、おれが弟だから。おそ松兄さんにはもう少し手厳しい。チョロ松とは少し対等だ。十四松とは仲良くパチンコに行ったり飴を買い与えたりしてたし、トド松は元相棒で釣り堀に出かける時は大体一緒に行動している。遠慮もない。じゃあ、おれは?めんどくさい弟。これ一択だろう。もし弟じゃなければ、最初から関わりを持たないようにするだろうし、交流があったとしてもその場限りで次はない。それくらいの薄い繋がりしかないたくさんいる弟の中の一人。取るに足りないゴミ。そうでしかない。
頭の上でコトンッと硬い音が鳴った。ゆっくりそちらに目をやると、グラスに並々注がれた液体。
ん?日本酒?焼酎??
そう思ったのは一瞬だった。側頭部に軽く2回リズミカルな何かが当たった。耳を掠めた指先に、それが宥めるような掌だったと気づく。
「水、飲めたら飲んでおけよ」
結局頼んだのかよ、このおせっかい。言いたいが熱くなる顔を見られたくなくてさらに板に頰を押し付けた。
ほんとお前って。世話焼きで、カッコつけで、お節介で、イタくて、みんなと同じクズで。そのくせ一等優しくて、気が弱くて。なんかやっぱりお兄ちゃんぽいとこ無駄にあるよな。あるある。自分大好きで、発言がクソで、行動もクソだけど嫌いになれない。結局、結局はそうなんだよ。死にたくなるくらいお前のこと好きだよ。認めたくないけど。認めたら負けな気がするけど。言ったらどんな顔するかな?驚くかな?拒絶するかな。…いや、こいつはそんなことしないか。どっちかいうと謝りながらフってきそう。まるで自分が悪いみたいに。
板目の痕がつきそうな気配がして反対の頬をまた板につける。
目を向けた先には5人のおんなじ顔した全く違う個性を持つ兄弟がたいそう楽しげに盛り上がっていた。
すぐそこにある顔を目だけで見上げる。
おんなじ顔のはずなのに、こいつだけなんか系統が違うんだよな。眉は太めだし少し垂れ目だし。服の好みも一人だけ振り切れてるし。性格もおかしいよな、こいつ。あのトド松をもってしてサイコパスと言わしめたんだから相当だ。だからといって血が繋がってなかったとかいうのはなさそう。それはいくらなんでもない。だから、おれの抱えてるこの恋心は不毛なものでしかないんだよな。実の兄を好きになるなんて、本当にゴミにお似合いの思考回路だわ。一生叶うことなんてないのに。
不意にバチッと視線が合わさって、こちらの胸中を知られたわけでもないのに少しだけ焦った。
「歩けるか?」
「……え?」
聞かれたことがわからなくて頰をくっつけたまま首を傾げる。もちろん1ミリも頭は動かなかった。
「帰るぞ。立てるか?」
ゆっくりゆっくり体を起こしてカウンターに両手をついた。ふらついたところでおそ松兄さんから声がかかる。
「じゃ、ここの支払いはいちまっちゃんね」
「……なんで?」
「前、スッゲェ勝ってたじゃん!」
「…何週間前だと思ってんの?しかも、おそ松兄さんに半分近く渡したし…」
それにもかかわらずバラしやがった、あのクソ長男。恨みを込めて言うとチョロ松とトド松が長男を責め始めた。
「なんっで、そうやって人の儲けを自分のものにしようとしてんだよ。僕の時もそうだったよな」
「一松兄さんにもやってたの??僕の時もこのクソ長男駄々こねていくらか巻き上げてったんだけど!」
「いやぁ、だってさ〜。いちまっちゃん最近運良さそうだったし、他でも儲けてないかなぁなんて思っちゃうじゃん?!」
儲けてましたし、まだ残ってますけど無駄に使う気はないので遠慮してほしい。フラフラ左右に揺れながらそんなことを思う。
ほんとにここ最近ついてた。自分でも運がいいなと思ってた。人に言われるくらいなんだ。こんなことってなかなかないよね。もしかして一生分の運がいまに集まってるのかもしんないな。じゃあ、今のうちにやりたいことで運が必要なことやってしまう??宝くじでしょ、ナンバーズもいいね。あとはまた競馬行こうかな。パチンコ行って……。ある程度貯まったら、またみんなで連日飲みに出歩きたいな。思い浮かべて笑みが浮かぶ。
グラグラ揺れが大きくなってきたように感じたが、危機感は特になかった。そのまま体を揺らしていると、脇から腕を引っ張られそのまま流されるようにそちらに向かう。長椅子から外れた先にはいつものように心持ちしゃがんで背中を向けるカラ松の姿。当たり前のようにそこにおぶさって、次いで来るとわかっている浮遊感に備えた。浮き上がる感じが少し気持ち悪い。
「先行くからな」
ゆらゆら揺られながら背中を通しても聞こえてくる声がそういったのが聞こえた。まだ後ろからは揉める3人の話し声と場を和ませるようにちび太と会話する十四松の声が聞こえる。
……運が必要なやりたいことかぁ……。他になんかあったかな。
あったかい体温が伝わってくる。ふわふわする心地の中で一つだけ思いついた。
思いついた瞬間口を開いていた。
「……好きだよ」
聞こえないかもしれない。そう思うような小さな声だった。
「どうした、一松。何か言ったか?」
聞き返されてどうしようかと考える。それでも、アルコールが入った頭が正常に働くことはないと身をもって知っていたはずのおれはそれならもう一度言おうと思ってしまった。
「おれ、……カラ松のこと、好き……」
「……んん?そうか!……俺も好きだぞ、ブラザー?」
「ブラザーとしてじゃなくて、……」
沈黙が落ちた。足取りもゆっくりになったように感じた。
今更、頭の先から血液がざあっと下に落ちていくような感覚を覚えた。フるにしても自分が悪いみたいに謝ってきそうなんて勝手に思ってたけど、そんな保証はどこにもない。それでも酒のせいで霞む意識のせいで正常な判断はできそうもなかった。ただただ、こいつの言葉をこいつの背中におぶさったままで沈黙に耐えながら待つ。
「……そうか」
ようやく聞こえてきた声は困惑を含んでいたものの思っていたよりも普通で。いつも以上にこいつが何を考えているのかがわからなかった。
「……あのさ……」
「一松。すまないが俺はそれに応えることはできない。お前はいいやつだよ。……だから、なおのこと家族以外に目を向けた方がいい。お前のそれは多分家族愛を勘違いしただけのものだ。外に出た途端、消え去る類いのな。……じゃなければ、俺と全てが合わなさすぎて……、俺を嫌いになりそうだったから無理矢理好きだと思い込もうとしたんじゃないか?お前は優しいやつだからな。……きっと、それだけのことだよ」
とにかく何か言わなければと言いかけた言葉を遮るように、滔々と並べ立てられたセリフに、自分の気持ちを否定するようなそれに喉を縊られているような痛みが走った。
「……そっか。……そうかもね」
震えないように引き結んだ唇から絞り出した声は短いフレーズにもかかわらず少しだけ湿っていて、自分が泣きそうになっていることに気づく。
……お前、結構ひどいやつだよ。
こいつの背中では泣かない。それだけ心に決めて、家に着くまで寝たふりをした。
一晩中声を圧し殺して泣いて、翌朝。こんなおれだけど不思議と死のうとは思わなかった。
瞼は重いが、一人酔い潰れた翌日だったためか、泣くほど吐いたと思われたようで誰からも揶揄われることもなく朝食の席。居間の前まで降りたものの、やっぱりパスしようとして階段に引き返そうとしたとき間の悪いことに顔を見るのも気まずいカラ松と出くわしてしまった。向こうも気づいてびくりと肩を揺らしたため、いつものように視線を強くして睨みを効かせる。
「何見てんだよ、クソ松。そこどけ」
「あ、……ああ。……あの、一松…」
「あんだよ」
「その、……昨日……」
「なに、連れ帰ったことに対してお礼言えって??……ちっ、めんどくせぇなぁ。…どーもありがとーございましたー。これでいいだろ、呼び止めんなクソ松のくせに」
もう一つ舌打ちを落として戸惑った表情を浮かべるあいつに目を向けることなく二階に向かった。
襖を閉めて誰もいないことを確かめてから力尽きたように座り込んだ。
……き、…緊張したぁ〜……。何、これからまた毎日こんな気分味わうわけ?ドM的には正解なんだろうけど、ファッションドMには高度すぎてちっとも楽しめない。こんなんなら鞭で打たれた方がまだたえられそう……。
一晩泣いて出した答えは、忘れたふりをしよう。だった。記憶があるのを悟られたら、まずおれが無理。気まずすぎて死ねる。死ぬ気はなかったが、気が変わってしまいそうだ。それに、あいつをこれ以上困らせたくなかった。わりとまともな感覚を持っていると不本意ながら知ってしまったため、そんなあいつを追い詰めたら最悪家を出て行ってしまうかもしれない。そこはおれが出ていくよ、と思わなくもないがあいつはなんだかんだいって兄ぶりたいやつなのも知っている。弟にいらぬ苦労をかけるくらいなら躊躇わずに行動に移すだろう。それだけは避けたかった。
そんなこんなで自分で撒いたタネを自分でなんとかするしかなくなってしまった今日からの毎日。
耐えられるかな、そんな不安が頭を掠めたがやるしかないのだ。
あとは、あそこまできっぱり断られたんだから諦めなきゃいけないよな。最初からわかってはいたけど、絶対に叶うことはなさそうだ。
前髪を両手でくしゃくしゃに握りしめ、すでに折れそうな心に決意した。
_____________
まず、目標はバイトを探す。
目的は金じゃなくて、いや、金があるに越したことはないけど。働きに出ている間は家にいなくて良くなる。天気が雨だろうと猛暑だろうと路地裏と違ってバイトが入っている限りは家から出る名目ができる。
チョロ松みたいに家で就職情報誌を広げる度胸はなかった。絶対邪魔が入る上、揶揄われるに決まっている。お前には無理だよ、いちまっちゃ〜ん!そんな声がやる前から聞こえてくる。
なので、そんな小心者のおれは猫たちに囲まれながら情報誌を眺めていた。
出来るだけ人と関わらなくていい、それでもきつくなく、もし可能なら猫がいるところがいい。まあ、そんなところはないけど。猫カフェかぁ。やりがいはこれが一番ありそうだよな。ただ、接客がある。それが問題だ。
代わる代わる膝に乗ってくる猫の喉元を撫で、肩に擦り寄ってくる三毛猫の背中から尻尾を撫で上げ、そうこうしているうちにだいぶ日が高くなった。
「今日はあの黒猫いないの?」
せっかく仲良くなったのに、今日はまだ姿を見ていない。首輪がついていたから多分飼い猫だと思うけど、わからない。逃げ出して帰れなくなったり、引越しの時に置いていかれる猫もかなりいるのだ。悲しいことに。あの子はそうじゃなくて、今は家に帰っているのかもしれない。そう思うことが精神衛生上一番適切と思える考え方だった。
なぁ〜ん…
路地のさらに奥からハチワレの雄猫が一声鳴いて出てきた。たまにここで会える子で、嬉しくなって手を伸ばす。するりとかわされ、いつもはしないその態度に目を瞬いていると小走りでまた奥に向かって少し進んでいった。振り返って一鳴き。なんだかその様子に胸騒ぎがして情報誌をそこに置いたままハチワレ猫を追いかけた。おれが追ってくるのを確かめてまたスピードを上げる。少し止まって、後ろを振り向いて、また進む。時間にしてほんの数分だったんだろうけど、初めて入った路地の積み上げられた箱の後ろでハチワレ猫がまた鳴いた。
人間が入るには少しだけ狭いそこに、身を滑らせて入るとケッ…ケッ…と聞き覚えのある音が聞こえてきて、慌てた。猫が吐き戻す時に出す音に似ていて、焦って覗き込んだそこには先ほど思い描いていた黒猫が苦悶を浮かべて何度も口を大きく開け舌を突き出している。
こういう状態の時触られるのを嫌う子は多いがそんなこと言ってられなかった。パーカーを脱いで口を閉じ袋状にしたそれで黒猫を包む。近くの予約がなくても野良猫を見てくれる獣医を思い浮かべた。
急いで駆けつけたそこで下された診断は誤食とそれに付随する食中毒で即入院とのことだった。幸い出された見積もりも手持ちの金で足りそうだったため、治療含め数日間ここでお世話になることにした。
「そうそう、首輪に金具が残っていたからおそらくどこかで迷子札を落としたんだね。その場に落ちてはなかったかな?」
診察した獣医師がそう言うが連れてくるので手一杯で見ている余裕はなかった。
でも、自分の飼い猫がこんな状態の時に知らないままでいるのはどちらも気の毒だ。
「探してみます」
戻ろうとしてくしゃみが出る。笑った看護師さんから手渡されたパーカーは猫の唾液で汚れていたようで、シミになっていたがそれでも可能な限り拭き取られているようだった。少し湿っているそれを着ないよりはマシだと思い袖を通して外に出た。
戻る足で、先ほどの黒猫の苦しみようを思い浮かべる。すぐ良くなるだろうけど、もし見つかった迷子札に書かれた連絡先が繋がらなかったら。いらないと言われたら。関係ないと言われたら。考えれば考えるだけ悲しくなって、滲みそうになる涙を堪えるために唇を噛み締めた。
家族に切り捨てられるのは、考えるだけでも身が凍る。もしおれだったら、耐えられない。死んだ方がマシだ。
戻った先で、黒猫がうずくまっていた場所を中心に目を凝らして探し回る。
身を隠した時ではなくもがいた瞬間に外れた可能性を考えて少し範囲を広げようと立ち上がった。その動作でおれの影がなくなって陽が差し込んだ先で何かが光ったように感じ再び身をかがめる。薄くて丸い金属片が落ちていた。半分チリに埋まったそれを指先でつまみ上げる。2cmほどの円形の銀色のプレートに猫の姿が描かれていて、端っこに濃い黄色の石が埋め込まれていた。さっき光ったのはこれかな。裏返すとスマホと思われる電話番号と[NIYA]の文字が彫られている。
おそらくあの黒猫のものだ。他の子が落とした可能性もあったけど、ここで会う猫たちは首輪をつけている方が珍しかった。半分確信を持って、あの子のだといいなと思いながら動物病院に急いで戻る。
それを見た受付の看護師さんが電話をかけてくれたが、かかるものの誰も出ないとのこと。念のためメッセージを残しておこうということになって、病院の番号を告げるのを側で聞いていた。
「いま処置が終わって眠っているところだから会えるのは明日になるけど、うちの診療時間知ってたよね」
野良猫関係ですっかり顔見知りになっていた看護師さんが慰めるような笑顔を見せる。
「はい、また明日来ます」
明日こそ飼い主と連絡を取れるといいな。
「引き続き連絡は取るし、警察や保健所にも届けを出すから。順調に回復すれば明後日退院だけど、連絡取れなければしばらくここでも預かれるし、大丈夫だからね」
動物好きの猫好きで、卑屈なおれでも話があったその人が言うので少しだけ安心する。昔から地域に根ざした病院だったから、野良猫の保護にも手厚かった。でも、期間内に飼い主が現れなければ良くて保護シェルターや里親。暮らしていた地域から引き離してしまうことになる。だからと言っておれが飼えるわけでもないし、野良でいろなんて言えるわけがない。
「……それじゃ、あの子をお願いします」
「明日待ってるから」
頷いてそう返してくれた看護師さんに向かって頭を下げガラスの引き戸を開けた。
てくてく家に向かって歩いている途中、無性に悲しくなった。
帰る家があるはずなのに帰れないって、なんだよそれ……。家族なんだったら早く迎えに来い。一番苦しい時にそばにいてやれよ。一人になんかするなよな。
ズビッと鼻を啜った。あー…、かっこわり。往来で一人で泣きそうになってるなんて。
「一松?」
上の空のところで名前を呼ばれた気がしてなんとなく振り返った。振り返ってすぐさま後悔したけど。
「ど、どうしたんだ?!なんだ、その格好……。しかもなんで泣いてるんだ?!!何かあったのか??!」
言われて自分の格好を見下ろす。
猫が逃げないように袖と首周りは固く結んでいたのでシワシワになっていたし、中で吐き戻した猫の唾液と胃液が滲んであちこちにシミができていた。猫を押し込む時に埃っぽい路地にパーカーを置いてしばらく格闘したので全体的に土埃で汚れている。まあ、ありていに言えば喧嘩でズタボロに負けたあとのようだった。顔や手に傷がないことからそれを察してくれると思ったが、それほどこいつは察しが良くなかったようだ。
「誰にやられた?!」
「ちが……」
「今か?喧嘩したのか?」
「猫……」
「猫を助けようとしたのか?」
「そうだけどそうじゃないっていうか…」
「怪我はないみたいだな」
ようやくほっとしたように表情を緩めた。
「なにがあった?」
落ち着いた兄の声で聞かれてまた涙が込み上げてきた。お前はそういうやつだよ。いつでもこっちを気にかけて弟のために何かすることを至上の喜びとしてる。昨日あんなに無慈悲に人の気持ちを否定したくせに。今更優しくすんな。ほんとに兄弟としか思われていないことがいやでも伝わってきて辛くなる。
もう一度鼻を啜った。
「いつも会う黒猫が……」
さっきまで付き添っていた黒猫のことを一から説明した。あいつはただ黙って頷きながら静かに聞いてた。
「明日、もう一回様子を見に行って、あとは飼い主と連絡が取れるよう祈るだけ。おれにできるのはそこまで」
ほんと役立たずだよね。そう言って卑屈に笑うと、すぐさまずいっと伸びてきた手のひらに頭をかき混ぜられた。その雑な仕草を続ける手に抗議しようと両手を掲げる。動きを止めようと抑え込もうとした瞬間頭を解放された。
もとより手入れはされていないが、さらにぐちゃぐちゃになった髪を整えながら疑問を差し挟む。
「……なに……」
ごく至近距離でにっと笑われて息が詰まった。カッコつけようと思っていないときのこいつの顔は苦手だった。
「えらいな、一松。大丈夫だ、きっと見つかるさ。なんてったってお前が魅了されてたレディなんだろう?そんなキュートなガールが不幸になるはずないじゃないか。な?」
「……レディなのかガールなのか統一しろよ。キュートには違いないけどあいつオスだし」
「オウ!ミステイク!!」
大袈裟に頭を抱えたカラ松を見て自然と笑っていた。
「お前、ほんと馬鹿みたいだよな………。違った、馬鹿だったね…」
そのまま置いてさっさと歩き出し、後ろから聞こえる自己弁護と自己陶酔を聞かないふりで歩を速める。
なんかまた涙が出てきて、今度は誰にも聞こえないように小さく鼻を啜った。
次の日様子を見に行った黒猫はまだぐったりしていたものの、もう苦しそうな感じは微塵も残っておらず何はともあれほっとした。帰り際、受付にいた看護師さんから聞いた話ではまだあの番号とは電話が通じていないらしかった。
そのまま入院目安の2日が過ぎて、結局飼い主が見つからなかったその猫はこれから保護という形で1週間だけこの病院にいられるらしかった。おれは黒猫と面会したあとで治療費と入院費の5万円弱を支払い、1週間毎日会いにきていいか尋ねた。
「もちろん。あの子も安心するだろうし、……打診してる保護施設、少し遠いから会いに行くのも難しいかもしれないから。引き続き連絡は待ってみるけど、他の子の迷子札だったのかもしれないね」
言いにくそうにそう告げられて、予想していたこととはいえあの黒猫に会えるのはこの1週間が最後だと悟った。
「……また明日きます。よろしくお願いします」
手には路地裏にいる猫たち用の缶詰が入った袋を持っている。なんとなく沈んだ心を抱えたまま足を向けた先にはいつもの顔ぶれの猫たちが待っていた。今までだって、姿を消した子もいた。きっとどこかで元気でやってると思えたはずなのに、なんであの黒猫には思うことができないんだろうか。あの先生が見つけてくれた施設ならきっといいところのはずなのに。
家族と離れ離れになる辛さは容易に想像できるから。
実の兄に恋愛感情を抱いていると気づいた時、一番先に思い浮かんだのが家族の蔑んだような顔だった。この気持ちが本人どころか家族に知られたら、きっと自分は縋れる場所を全て失う。居場所がなくなる。もう2度とみんなに会えないかもしれない。そんな想像に責め苛まれて数ヶ月沈み込んだ。まわりからはとにかく心配されたが、理由を言えるはずもない。ただただ黙って自分の気持ちの落とし所をとにかく探った。諦められるならそれが一番よかった。
……と思い続けて早数年、てね。
思って自嘲の笑みを漏らす。手元が止まったためか猫が急かすように鳴いた。
「はいはい」
缶の中身を紙皿に開けていく。3皿用意して数匹ずつ固まって待っている猫たちの前に並べた。
おれが忘れたふりをした日。あの日以来、カラ松は至って普通だった。痛いセリフは吐くし、おそ松兄さんには相変わらずアバラ折れると笑われている。トド松にはウザがられてるし、用事は押し付けられてるし、屋根の上で自己愛をほざきながら歌ってる。ただ、少しだけおれにかまう回数が少なくなった気がした。元々そんなに多くなかったし、かまわれれば手が出ていたので当たり前と言えば当たり前なんだけど。そんなところにいらぬ距離を感じてしまう。
家にいるのが辛くないといえば嘘になる。でも誰かが、とりわけカラ松が自発的に離れていくのは嫌だった。みんながいればいい。そんな考えを抱いているおれは、あいつの言うとおり恋と家族愛を勘違いしているだけなのかもしれない。それでも、思う。
……よりによってなんであいつなんだよ。
あいつじゃなければ、冗談で済ませられたかもしれない。まかり間違って告白なんてしなかったかもしれない。それ以上に、恋愛感情だなんて誤作動を起さなかったかもしれない。
かもしれない、かもしれない。言っても仕方ないことばかりが浮かんでくる。
「……バイト、探さなきゃ……」
あの路地に置いてきた情報誌に思いを馳せた。
「こんにちはー…」
いつもの時刻に動物病院の扉を潜ると、すでに日常の一部となった看護師さんが顔を上げるなりパッと明るい笑顔を浮かべた。
「一松くん、見つかったよ!飼い主さん!!」
彼女から出てきた言葉に入り口の靴拭きマットにつまずきかけながらカウンターに走り寄った。
「え……、え??ほ、ほんとに?!」
確認するように問いかけると大きく頷く。
「今、あの子に会いに行ってるんだけど」
「ほんとの飼い主?」
「うん。チップは入ってなかったんだけどあの子のかかりつけの獣医師さんにも連絡とって、身体的特徴を聞いたけど確かみたい。事故で保護された子で、後ろ足にプレートが入ってるのよね。最初に撮った全身のレントゲンと照らし合わせたけど、間違い無いと思う」
迷子を引き渡す際もしっかり確認する方針のこの病院が言うなら確かなんだと思う。
ほっと息が漏れた。
「……よかった」
間に合ってよかった。
「飼い主さんも一松くんにぜひお礼をって言ってたから少し待っててもらえる?まだ向こうで手続きあると思うから、しばらくかかると思うけど」
「……お礼は……、いいです……」
見知らぬ人に感謝されるとか、ちょっと無理。そう思って両手を振りながら固辞した。
「でも、治療費も返したいって言ってたし、あの子にもお別れ言いたいでしょ??」
「言いたいけど……。いや、おれやっぱり帰ります……」
「あ、ちょっと一松くん!……先生!一松くん帰っちゃうって言ってますけど?!」
慌てて踵を返した背後で、お節介にも看護師さんが大声で医師を呼んでしまったのでさらに焦ってドアに手をかける。
「待って待って、こちら飼い主の二矢さん!あの子が猫ちゃんを保護してくれた一松くんです!」
奥の入院施設から顔を出した医師がおれを呼び止め、こちらと紹介した男の人を部屋から押し出して駆け寄ってきた。背後から両肩を抑えられ無理矢理向き合わされた相手は、見た目は派手な感じはしなかったがつけているアクセサリーがキラキラしていて落ち着かない。それでもあのクソよりかは全身乱反射していない分マシだった。
「あ、二矢です。この度は、うちの猫を助けてくださってありがとうございました」
深々と頭を下げられて、それをどうしていいか分からず見下ろした。
「……い、……え、っと。…全然、大丈夫です…から。……気にしないでください。……友達だったし……」
オタオタしたまま言葉を綴ると頭を上げた飼い主ににっこり微笑まれる。
「友達なんだ?」
聞かれて頷く。ほっとしたような表情に上目で窺っていたおれは顔を上げた。
「そっか。よかった、いい人に出会ってて」
「あの子は……、迷子?」
「うん。迷子。近所の工事の音で驚いて窓から飛び出してそれっきり。探してたんだけど、全く見つからなくて。この近辺も探したんだけどその時は全く目撃情報がなくてわからなかったなぁ……」
「…路地裏によくいたからかも。ハチワレの子と仲良くて、一緒に行動してたみたいだから……」
「路地裏?しかも友達作ってたの?!……じゃあ、帰る前にその子にも挨拶しないと」
真面目な顔でそういうので面白くなって笑ってしまった。
「ふひっ……、あんたも変な人だね。猫相手なのに挨拶なんて……」
二矢と名乗ったその男は目を瞠ってから一拍置いて破顔した。
「君には負けるよ。友達なんでしょ、リンと」
「リン?」
「助けてもらった子」
「……リンって言うんだ」
名前があって帰れる家があって、迎えにくてくれる家族がいる。それがなんだか嬉しかった。
一人ニヨニヨしているとこちらを見下ろす二矢と目があった。
「よかったらなんだけど、あの子のいた路地裏に連れて行ってくれないかな。ハチワレ猫ちゃんにも会ってみたいし」
目の前で手を合わせられて、キョドキョドと視線を彷徨わせる。それは、おれにこの人と二人であそこまでの道を歩けということですよね……。
たしかに、無害そうではある。攻撃的な服装でも、嫌味なまでのファッションセンスを感じるわけでもない。でも、整っている。全体的に小綺麗にまとめられていて、下手に主張するファッションリーダーよりタチが悪いかもしれない。
「もしかして、時間ない?」
そう聞かれて頷こうとしたところで、医師のカラカラとしたノリの軽い笑い声が響いた。
「大丈夫大丈夫。時間はあるよね、案内してあげなよ。頼んだよ、一松くん」
地域に根差すということは地域密着型。聞きたくなくても周りの情報が入ってくるということらしい。おれたちむつごが全員ニートであることはこの病院内では周知の事実だった。ただ、四男のおれが重度のドメスティックパリピだということはどうやら知らないらしい。全然大丈夫じゃねぇんだよなぁ……。と思いながらも、普段お世話になる確率の高いこの獣医師のご指名なので仕方ないかと腹を括った。
「……じゃあ、退院後に……」
「それなら一松くん、あと15分くらいで出れるよ〜」
退院後といいつつ今日はもしかしたら時間かかるかもしれないと思ったが、看護師さんからトドメを刺されて項垂れる。
「………じゃあ、そのあとで行きますか……」
「うん、お願いします。……一松くん?」
「うっ……、はい……」
獣医師看護師が一松一松連呼するので、早速名前バレしてしまってもういっそ埋まりたくなったが二矢の告げた言葉で少し気分が上がった。
「ハチワレちゃんにお土産、何がいいかな。何が好きかわかる?」
ハチワレ猫の好きなメーカーの猫缶を告げると「じゃあ、行きに買っていっていいかな?」聞かれて好感度が爆上がりした。
_____________
「あー…、こんなところにいたんだ。一松くんはよく来るの?」
案内した路地裏で所狭しと積んである箱や室外機のせいで狭くなった通路を進む。後ろをおそるおそるついてくる二矢はおれと違って汚れても構わない服ではないので、少し気にかかった。
「うん。よくくるけど、……服汚れるかも……」
「大丈夫大丈夫。オレそういうの気にしないから」
高そうな服を着ているわりに本当に気にするそぶりも見せず、時々障害物に服を擦り付けながら追いかけてきている。程なくして見えてきた猫の溜まり場では件のハチワレ猫もぽかぽかあったかいひだまりの中へそ天で寝転がっていた。
「……リンもここら辺で?」
聞かれてギクリと身が強張った。聞きたいものなのだろうか、それともおれに気を遣って話題として振っただけなのだろうか。しばし迷った。
「……あの子は、もうちょっと、奥に行ったとこにいて……。それをハチワレが案内して教えてくれた……、んです」
結局答えて、返事を待っているとひだまりに進み出た二矢がハチワレ猫の鼻先に指を出した。くるんと腹をしまったハチワレがその指の匂いを嗅ぐのを黙って見ていた。
「…ありがとな」
スリッと指先に頬を擦り付けた猫にお礼として持ってきた猫缶を差し出したのを見たが、缶と違って蓋を剥がせばすぐあげられるものだったのでそのまま眺めることにする。なんか、邪魔しちゃいけない気がした。黒猫もキャリーケースに入ってすぐそばでその光景を見ていた。メッシュ越しに鼻チューをハチワレと交わし機嫌良く鳴いている声が聞こえる。
猫缶の匂いに寄ってきた他の猫たちにもいくつか与え、二矢がこちらを向いた。
「一松くん以外もここにきてる人いるみたいだね」
意外な言葉に首を傾げる。
「なんで?」
「いや、そこに就職情報誌が置き去りになってるから」
指さされた先で見覚えのある雑誌が鎮座していた。雨ざらしになっていたためすっかりひしゃげている。
「……それ、おれの………」
顔から発火しそうだったが、耐えに耐えてそれだけ絞り出した。
「え…、あ。そっか。……仕事探してるの?」
「仕事っていうか………」
家から出る用事が欲しいなんて言っても理解してもらえるのだろうか。
「ごめん、無神経なこと聞いた?」
「……じゃ、なくて。……ちょっと家に居づらいことがあって……。それなら外に出れる仕事探そうかな、って思っただけだから……。なんかこっちこそごめん」
「…………居づらいことか。……あのさ。一松くんはこの近辺に住んでるの?」
「うん??…そうだけど」
「じゃあさ、うち来る?」
「……え???」
にっこり笑って、足元にはすでに懐いた猫たちがすり寄っていて。今日知り合ったばっかりの、おれより上級の猫使いかもしれない男がうちに来るかという。ん???待て待て、理解が追いつかないんだけど?
「……え??おれ、今日知り合ったばっかなんだけど……」
「そうだね」
「で、うちに来るかって……。……おかしくない??」
普通怖いだろ。得体の知れない人間を家に招き入れるって。……まあ、おれたちがいえたことじゃないけど。でも、普通はもう少し……。
「だって、一松くんいい人でしょ」
「いやいやいや……。そんなのわかんないって……。めっちゃ悪い人かもしんないじゃん!」
邪気のない表情でそう断言されて渾身の力で両手を振った。
「飲み物食べ物不自由はさせないよ。昼寝もオッケー。オレ在宅ワークだからいつ来てくれてもいいし。まあ、ちょっと出張が入る時もあるけど大体家にいるから。来る時だけ連絡くれれば出入り自由だし」
「何……、その好条件……」
「他にも希望があれば……」
「リンと遊びた……。いや!そういうことじゃなくて……。なんでそんなことまでしようとしてくれるの??」
そう尋ねると、気まずそうに頭を掻いて一つ頷いた。
「リンを助けてくれたこと。ネームプレートを探してくれたこと。リンが不安にならないように毎日お見舞いに来てくれたって聞いたし、こちらからのお礼も固辞しようとしたしね。感謝してもしきれないんですけど」
「いや……。おれがしたくてしただけだし……。治療費も、まあ……。出どころはいわば泡銭だし……」
長男にでも見つかればあっという間に消えてしまう程度のものでしかない。それで大好きな猫を助けることができたなら、それはそれで本望だった。
「連絡取れなかったのは、オレの落ち度だったんだ。遠方の出張先にスマホ忘れて、宅配便で送ってもらう間どこにも連絡取れなくて。それがなければもっと早くリンを迎えに来れたんだけど。だから、その間ついててもらえたこと本当に感謝してる」
また深々と頭を下げられて、その足元に集まる猫の数に思わず吹き出す。
「ひひっ、……だいぶ手懐けたね。あんたも悪い人じゃなさそう……」
「猫好きには悪い人はいないって?それこそめっちゃ悪い人かもしれないよ?」
にっこり笑顔でそう言われ、首を傾げた。悪い人には見えないんだよね、困ったことに。
「とりあえず、時間があったら今から来てみる??」
キャリーバッグを持った手とは反対の手を差し出されて、それを取らないまでも少し迷って頷いた。
「……じゃあ、とりあえず。時間はあるし」
「ここからだと徒歩20分くらいかな。タクシーでいい?リンもいるし」
そう言って向かった先は郊外の一軒家だった。平家だが奥にもう一棟離れのような建物が見える。
「一軒家?」
「借家だけどね。入って入って」
猫注意のステッカーの貼られた引き戸を開けて入った玄関はどこかうちのそれと似通っていてホワッと一気に和んでしまった。
「なんか、……二矢…さんのイメージからマンションとか想像してた…」
ククッと喉の奥で笑った二矢がキャリーバッグを廊下に置いてこちらを向いた。
「どんなイメージだったの?ここは家賃が安かったし、裏に作業スペースがわりの離れがあったのが気に入って借りたんだけど。案外住み心地いいよ」
「……わかる。うちもこんな感じだから。……っていうか、作業スペース??って、なにしてんの?」
中でくつろぎ始めたリンが気の抜けた鳴き声を発したのを覗き込んで、入り口のファスナーを開けながら応えてくれた答えは意外に思えるものだった。
「オレ、彫金師なんだよね。一松くんの見つけてくれたネームプレート。あれオレが作ったんだ」
「ちょうきんしってなに……」
聞いたことあるような気がするけどよくわからなくて聞くと、二矢が3つほど瞬いて笑顔を浮かべる。
「オレの場合は鏨を使ってプラチナとシルバーのアクセサリーを作ってる。金属の彫物師みたいな?リンのネームプレート見たでしょ?人間用のああいうのを作ってるんだよ。よかったらあとで見せてあげるね」
まずはお茶お茶そう言って襖を引く二矢のあとをリンがついていってしまったため、玄関に一人残されてしまった。しばらくすると部屋の奥から名前を呼ばれたので戸惑いながら開きっぱなしの襖を通って和室に足を踏み入れる。うちと違って椅子席でリビングテーブルにカップとお菓子がのせられていた。
結局お昼もご馳走になり、猫談義に一花咲かせているうちに夕方を告げる聞き慣れたチャイムがかすかに耳に届いた。リンはおれと二矢の膝の上を行ったり来たりしたり、テーブルに乗ってお菓子の包み紙を落とそうとしたりすっかり元気に動き回っている。それを確認して腰を上げた。
「そろそろ帰る。遅くなると夕飯全部食べられちゃうから」
「あ、じゃあタクシー呼ぶ」
「いい、そこまでは大丈夫……。歩いて帰れる距離だから。じゃあ、またきてもいい、んだよね……?」
確認すると笑顔で頷かれたので、ほっとした。
「居づらくなったらいつでも電話して」
「……うん、じゃあ。お邪魔しました」
玄関まで見送られて帰路を辿る。ギリギリ知ってる場所だったので、家までの距離の目算も付いていた。歩き始めて10分くらいしてから電話番号を聞いてくるのを忘れたことに思い至った。あ、これもう来れないパターンだ。そう思いながらも、どうしようもなくなったらピンポンを押してわけを話そうという考えとやっぱバイトを探そうという思いを抱きながら少しだけ速さが落ちた歩をすすめていた。ちょっとだけ残念。そんな感じだった。話すと猫のことばっかりで面白いし、悪い人じゃなかったから。
足を引きずるように歩いていると後ろから自転車の音が聞こえたため心持ち端っこによる。やり過ごそうとしたその音がタイヤ一個分先で止まった。
「……電話番号教えるの忘れた。ごめん!」
「…いや、おれも聞き忘れてたし……。いいけど。…追いかけてきたの?わざわざ??」
自転車に跨ったまま片手を謝罪の形に掲げた二矢がスマホを取り出す。
「一松くんの電話番号は?」
「おれ……、スマホ持ってない」
「あ?!そうなの??……どうしよう、書くの持ってきてない。一松くん、紙とペンって持ってる?」
己のポケットというポケットに手を突っ込みながら二矢に聞かれたがあいにく持ってはいない。首を振ると何かを見つけた彼がそれをポケットから取り出した。
「……それ、リンの迷子札?」
「そう。ポケットに入れたままだった。これ、渡しておく。番号書いてあるから、ここに電話して。必ず出るから。家電だよね?」
「そう、家電。え、でもいいの??迷子札でしょ??いざっていう時いるんじゃ…」
「予備あるから。一個くらい大丈夫」
手のひらに小さな丸を人差し指で押し付けられて、そのまま無くしては大変だと握り込んだ。
「……うん、じゃあ。電話する……」
「うん。ところで、歩いて帰れる距離って言ってたけどあとどれくらい?」
まだ半分も来ていなかったので残りはそうだなぁ…。
「あと……20分くらい??」
言うと少しだけ二矢の目が見開かれた。
「よかったら、乗る?」
荷台を叩いて尋ねられ咄嗟に首を振る。どこ青春友情物語だ。友達(?)ともしたことはないことに大きな拒否反応を示すと、
「自転車だと三倍くらい早く着けるよ」
そう言ってもう一度急かすように荷台をたたかれたのでおずおずとその申し出を受け入れ、荷台を跨ぐ。座り心地は当然悪かった。
「しっかり掴まっててよ」
立ち漕ぎで進むどこにしっかり掴まればいいのかわからず荷台の前方を力一杯握りしめてとにかく振り落とされないように必死になる。すぎる景色を楽しむとかそういう情緒は全くなかった。学生時代によく見た光景だったが、みんなこんなにハードなことを笑いながらこなしていたのか……。学生怖い……。それでもほんとに半分以下の時間で家の前までついた。中からは居間から漏れる光がかすかに窺えて、忙しなく動く影に夕飯が近いことを知る。
「あの、……ありがと。」
自転車から降りながらお礼を告げると、ふっと笑んだ二矢が言った。
「こちらこそ。リンのことほんとにありがとう。そうだ、家電の番号聞いてもいい?」
「あ、うん。別にいいけど」
番号をスマホに打ち込み、「じゃあ、またね」それだけ言って手を振って走り去った背中につられて小さく手を振った。時間潰しができるところを探していたけど、マジで半日時間が潰せた。屋根あり空調ありしかも猫と遊び放題。願ったり叶ったりの場所ができたことが申し訳ないながらも嬉しかった。
「…い、一松??」
二矢の走り去った方をなんとなく眺めたままでいたら、戸惑ったような声が背後からかけられ振り返る。顔を顰めた。
「またお前かよ……」
この間といい、今日といい。なんでそこらを歩いているのか。理不尽と自分でも分かっていたが少しの間の悪さを感じ苛立つ。無視して家に入ろうと戸に手をかけたら、相変わらず当惑を感じさせるような声音で尋ねられた。
「今のは、友達か??」
まさに、「おまえに???」とでもいいたそうな口調に思わず睨みつけた顔は声と同じで戸惑いを含んでいた。それは兄弟としてどうなんだ、と思ったが、それだけおれに人間の友達ができるのは珍しいことなのかもしれない。トド松とおそ松に見つかった場合はとことん揶揄われるだろう。トド松の腹を抱えて笑い倒した「闇ゼロ松」という言葉が聞こえてきそうだった。それを考えればクソ松でまだよかったのか……。
「…てか、お前の場合そこはフレンドか?じゃねぇの?」
それなら遠慮なく殴り飛ばせたのに、気が削がれてしまった。
いうとハッとしたように額に手を当ててポーズを取って、
「フッ、俺としたことが……。そうだな、あれは一松フレンドというわけか!」
人に指摘されたそのままのことを言い直した。なので遠慮なく蹴りを入れる。
「な、…なんでぇえ?!」
「いや、イラッとした……」
思わず出た足を戻して地につけると、さほどこたえた様子もなくパタパタ服の埃を払って立ち上がったカラ松が懲りもせずもう一度言った。
「で、あれは友達なのか??」
「なんでそんな食い下がるんだよ……。あー…、あれだよ。あの、保護した猫の飼い主。お礼にって家に呼ばれて、送ってもらっただけ」
「電話番号教えてただろ」
「こわっ。地獄耳かよ……。教えたけど、なに。なんかまずい?」
なんで質問責めになっているのか分からず、ややうんざりして返すとすぐさま首が振られた。
「いや。わるくない、けど……」
「けど、なに」
止まってしまった言葉の先を促すともう一度首が振られる。
「よかったな、一松。友達できて」
「だから、友達っていうか……。ちっ、もうそれでいいよ……」
笑顔で断言されて舌打ちが出た。どれだけ友達に飢えた人間だと思われているのか。
玄関戸を開けると夕飯の匂いが一気に押し寄せていた。ワイワイ騒がしい兄弟の声と何か揉めてるのかたまに荒い口調が聞こえてくる。
「あ、一松。どこ行ってたの?…ん?カラ松と一緒だった??珍しい組み合わせだね」
「そこで会っただけ。誰がこんなのと好き好んで歩くんだよ…」
「まあ……。イタイイタイ言いながら出かけるのはトド松が多いかな」
「おそ松兄さんとかね」
「フッ、歩くだけで人を傷つけてしまう……俺」
「はいはい、ギルティギルティ。まあいいから手洗ってきなよ、2人とも。ご飯だよ」
慣れたもので軽くいなして居間に引っ込んでしまったチョロ松に言われた通りに手を洗って食卓についた。
柴漬けをポリポリ齧りながらふいに思い出す。
あいつに好きだって言った時、外に出れば消える想いだとそう言ってた。さっき、あんなにしつこく確認したのはもう二度とおれのとち狂った告白を聞きたくなかったからかもしれない。外に友達ができれば、消え去ると本気で思っているんだろうな。そんな簡単だったら、おれだって苦労してないけど。まだ燻り続けるこれを持て余しながら、もう二度と口にはしないから安心しなよ。不毛な思いを断ち切るように手羽先の関節をねじり折った。
______________
二矢の電話番号を受け取ってから2日経つ。今日はあいにくの天気で本降りではないがポツポツ細かい雨が路面を濡らしていた。
ぼーっとしながら、2階で猫を待っていたが雨天ではやはり待ち猫が来る気配はない。どうしようかな、と猫じゃらしを持つ手を無意味に動かしていたら襖が開けられた。ソファに寝転がったまま顔も上げずに目だけそちらに向けると特に今は見たくなかった顔が、同じように気まずげな表情を浮かべる。
「あ…、一松だけか?」
「……見りゃわかんだろ」
そのままゴロンと寝返りソファの背に顔を寄せた。
なんで今くるかな。トド松は友達(多分女友達)と新しくできたカフェ巡り、十四松はこの雨の中素振りに行った。チョロ松は安定のラノベを買いに本屋へ出かけたし、おそ松兄さんはおそらく競馬かパチンコだ。いつもならカラ松ガールなるものを待ちに公園へ行くこいつも雨には勝てなかったらしい。つまり、家に2人だけ。それを知ってか知らずか2階に上がってくるってなに考えてんだこいつ……。
気配が襖を開けたところで止まっているため、出ていこうにも邪魔だった。大方あいつのことだから、いま下に引き返すとあからさますぎておれを傷つけるんじゃないかとか余計なことを考えてるんだろうな。余計なお世話なんだけど。
こんなことならさっさと出かければよかった。パーカーのポケットに入れている金属プレートを握りしめた。
「こんな雨の日はお前のキティも来れないようだな」
背中にかけられた言葉を丸っと無視していると近くに腰を下ろしたような畳の擦れる音が聞こえる。
「…は?何座ってんの?」
「え…、だめか?」
「いや、こんなスペースあるのになんで近くに座るわけ」
「ちょっと聞きたいことがあって」
そう言ったままおれの寝転ぶソファの足元に寄りかかって居座った。しょうがないのでもぞもぞ体勢を変え起き上がって反対の端に寄る。なんか知らないが恨みがましい目で見てきたので睨み返した。
「…なに、聞きたいことって…」
「あー…、その、な。…その…。あのキティの飼い主、なんだが……。友達、なんだよな??」
「あ??……あー。友達、っていうか……。………なんで」
なにぶん聞きにくそうに尋ねてくるもので、何について話したいんだか全くわからなかった。というか、友達と言っていいのか?んー、猫友ではあるのか??
「なんで、って……。んん??なんでだろうな???」
ふと我に返った。そんな表情で顎に手を当てたそいつの頭を一蹴りしてソファから降りる。
「何考えてんだか知らないけど、余計なお世話だよ。クソ松が」
舌打ち一つと睨みを効かせて階段に向かった。
まだ2日しかたっていないが、電話をかけてお邪魔させてもらおう。思ってポケットの中の金属プレートを探る。
……ない?!
反対からも手を入れるが自分の両手の指先が虚しく触れ合うだけで肝心の固い金属の感触がなかった。
さっきまでいじってたはずなのに。じゃあ、さっき起き上がった時か。またあいつと顔を合わせるのが面倒だったが、家主に電話をかけてからと言われていたため従わざるを得ない。
引き返して襖を開けると、あいつがソファに座っておれが探していたものをマジマジと眺めているところだった。
「……なあ、一松。これって……」
「勝手に触んな!」
指先につままれていたものを手荒くもぎ取る。
驚いたように瞠目していたが、一つ瞬きをすると普通の顔に戻った。
「それ、前に言ってたキティのものか?」
「……そうだよ」
「なんで一松が持ってるんだ?」
「なんでもいいだろ」
なんとも説明することができず吐き捨てるように言って背を向けると、笑ったような気配がした。
「キレイだな」
その一言を聞くが早いかさっさと襖を閉めて電話をかけるために階下に降りる。プレートの番号をなぞってかけた先で、ほんの数コールしかしていないのに二矢の声がおれの名前を呼んだ。
「……これから行ってもいいかな」
「居づらくなった?いいよ、おいで。玄関開いてるから勝手に入ってきて」
「…うん、わかった」
通話を終えたおれは傘をさして外に出た。
まだしとしと降り続ける雨の下歩くスピードはそれほど速くない。出ようと思えば雨天でも外に出られる。ただ、目的がない分長く留まるのは無理だった。それを思うと行きに30分帰りに同じだけの時間。目的があって歩けるのは悪くない。猫を探してこれくらいの距離を歩くこともあった。
行程を4分の3ほど進んだところで足元がすっかり濡れてしまったことに気づく。雨の日のサンダル履きはこれが厄介だ。足をぷらぷらさせて先端から雫を振り落とした。雨は止みそうもない。一つ息を吐いて再び目的地に足を向けた。
ビニール傘の透けた視界に紺色の傘が近づいてくるのが見える。人通りがない道だったが、久し振りにすれ違う人のため今まで歩いていた左端から右端に移動した。時計もスマホも持っていないので今どれくらい時間が経ったかわからない。二矢は待っているかな。そんなふうに考えていると、目の前に迫った紺色の傘が持ち上げられてその人物がこちらを向いた。
「一松くん?…遅いから迎えきた」
「…え?二矢、さん?」
迎えきたって……。過保護だな、おい。どっかの誰かを思い出すんですけど。
「歩いてきたんだ、雨降ってるのに」
「…いや、ニートですから」
タクシーとかは無理だし、バスの路線は少し外れる。
二矢が全身をジロジロ見てから言った。
「冷えてない?」
「過保護か」
「だって、風邪ひかれたらやでしょ。まあ、いこうか」
先に立って歩き出した二矢のあとを追う。
「…なんか、二矢…さん。うちのバカみたい……」
「うちのバカって?」
「二番目の兄」
「へえ、どんなとこが?」
雨は降り続いていたけど会話の邪魔にならない程度の雨音で、二矢のどこかおかしそうな楽しげな声色がはっきり伝わってきた。
「…お節介で、世話焼きで、心配性で、過保護で……」
で、底抜けに優しいとこ。
言いかけてやめた。あいつは優しい自分が好きなだけだ。そんなの優しさじゃない。
「……あと、そのおっとりした喋り方、三番目の兄に似てる。キレると早口で巻き舌になるけど」
二矢が笑い声を上げた。
「一松君は何人兄弟??」
「6人。しかもむつご」
「むつご?!……多いねぇ」
「二矢、さんは?」
「姉が1人いる」
「あ、いいな」
「いいかなぁ……。そんないいもんじゃないと思うけど」
おれの上げた少し羨む声に苦笑した気配がした。
「男兄弟だから、純粋に憧れるかな…」
「性別違うと結構夢壊されるよ」
「……AVとかで夢見てる派の側からするとそれでも羨ましいかも」
言ってから後悔した。まだ2回しか会ってない人に対してAVって……。思って後悔に身を縮めていたら前方でたまらず噴き出す音が聞こえた。
「AV!そっか、そういうのもあったね。あー…、姉ちゃんいるとそういう類には手を出さないかも。生々しすぎて無理になる。まあ、実際姉妹がいたとして現実で恋愛感情を抱くことってなさそうだよね」
二矢の一言に足が止まった。震えそうになる手を傘の柄を強く握ることでなんとか保つ。
ここはそうだよね、って言って一緒に笑うところだろ。無言になるな、おれ。変に思われてしまう。そう思うのに涙が滲んで唇が震え声が出せなかった。こんなところでこんな大きな否定が来るとは思いもしない。不意打ちも合わさって受けたショックが計り知れなかった。
「……一松くん?」
あとをついていくでも返事を返すでもないおれに不思議そうな表情を浮かべて二矢が振り返る。見られてはダメだ。必死の思いで顔を隠した。
「……泣いてる?なんかまずいこと言ったかな」
気遣わしげな二矢の声が近づいてくる。
泣いている理由を聞かれでもしたら詰む。
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続けようとしてほぼ1年経ったため、供養