Sauvage こ こここ こここここ
ここ
こ。
リズミカルな足音が途絶えた。
舞踏会場から抜け出た先に、延々と続く薄暗い階段。
その先には、豪奢な大理石の玄関。
もう夜も更けたが、饗宴は明け方まで続くだろう。
逃げ道はすぐそこだ。
「まったく、大した肝っ玉だあの女王は。よりによって俺たちを、外交の場で飾り物にするとは。わが国には大魔王を倒した勇者の仲間が控えている、女王の命令に馳せ参じるのだと示したかったのだろう。都合よく使ってくれる……ええい、この刺繍の凝った襟、きつくてかなわん。とにかくやることはやった、報酬は期待できる。この忌々しい正装も、館から出るまでの辛抱だ。そうだろう、ヒュンケル――」
しばし虚空に話しかけていたことに気づく。
振り仰げば、ヒュンケルは輝くサテンの靴をぽいぽいと脱ぎ捨てているところだった。
上等な靴下まで引っぺがして、悠々と降りてくる。
「ヒュンケル、お前な」
いくらなんでも。世界会議の現場で、女王の来賓が衣装を脱ぐか。
いつもくしゃくしゃなヒュンケルの銀髪は湖面のように撫でつけられ、金細工の櫛と最高級のビーズで彩られて。
青白い肌は透けるような薄絹に覆われ、磨かれた爪は淡いバラ色に染められ。
妖精王のごとく飾り立ててもらっておいて。
さすがにどうなのか。
半分魔族であるラーハルトの比較的まともな社会通念が、一応人間であるはずのこの男には通用しない。
「靴擦れがひどいんだ」
ひらひらと両手を振りながら、裸足で追い抜いていく。
「待たんか、ヒュンケル。靴!」
厳然と叱ると、相棒はしぶしぶ戻って、礼装用のハイヒールを拾った。
が。しみじみ見つめるなり、左の靴だけ上段へ投げ上げた。
「な……何をしているんだお前は、また」
バックルを彩るガラス玉がキラキラ光って、階段の縁に引っかかっている。
「ひとつ置いていこう」
と、ヒュンケルは腕を組む。
「なぜ」
「舞踏会の帰り道。十二時までに靴を片方遺して去れば、王子様が探しに来てくれるんだ。昨日、絵本で読んだ」
大真面目なセリフに、ラーハルトは脱力する。
魔物に育てられた青年のアンバランスな知識を、笑っていいのか、心配した方がいいのか。
「知らないのか、ラーハルト。王子様は、この靴にぴったりな足を持つ美女を我が妃に、と、国中に指名手配するんだ――指名手配? 匿名手配? ――片方だけ靴が脱げたまま追っ手を振り切った美女、なかなかの実力者だな――それに――くそ、痛い――拷問のようなガラスの靴を二度と見ないで済む、とほっとしたところに――痛い――王子が片方持って現れるんだぞ――即座に王子の横っ面を張り倒したくなるだろうに――ぐっと堪えたのだろう、なんとも優しい、素晴らしい女性だ――まさに聖母――ああ、もう無理だ、話していても紛らわせない。足が痛い。屋敷を出て海まで走ろうラーハルト、浜辺の夜露で冷やしたい」
「おい、待てったら……」
ラーハルトは口の中で呟いて、あきらめた。
こうなったら何を言っても無駄だ。
裸足で駆けるヒュンケルを追おうとして、立ち止まる。
踵を返すと数段戻り、捨て置かれた白い靴を蹴り上げた。
宙に浮いたヒールをぱしん、と回収して、手の中で遊ばせる。
「万が一、ということもあるからな」
呟いてみたものの、我ながら可笑しい。
――あんな奴の面倒を見られる王子様など、この世にいる訳がなかろうが。
俺もたいがい、大馬鹿者だ。
奇妙な笑いに肩を震わせながら、ゆっくりと階段を下る。
女神が彫られた正門をくぐって、勤勉な守衛を片手で労って。
潮風混じりの夜霧に、相棒の影を探した。