嵐に踊る 嵐が来る。嵐が来る。
朝から畑の保護に駆け回り、まだ太陽の照りつけている昼には雨戸を用意し本丸中の窓を外側から塞いだ。夕方には早い夕餉を済ませ、風の強まる中を槍と薙刀を中心に回廊と縁側に用意した雨戸を立てた。
短刀たちは停電に備えて灯りを各自の部屋と動線へ配置し、厨当番は夕餉の片付けを終え炊き出しの最中だ。山盛りになるだろう握り飯は、何の不具合もなく朝を迎えたならそのまま朝餉となるはずだ。
「大事になっちまったなあ」
太刀以上の大きさの刀種にはそれぞれ短刀が侍るという話だったが近くの部屋には三条の今剣がいるからと断り、まだばたばたと忙しい中一足先に風呂を済ませた鶴丸はやれやれと胡座を掻いた。空調は利いているため雨戸を閉め切った部屋でも暑いということはないが、停電となれば酷い熱帯夜となるだろう。部屋の障子は開け放しているが、いつもなら庭を望める回廊は今は愛想のない木の板で覆われている。
それでも俺の部屋は角部屋だからまだましか、風が通る、と考えながら手拭いでわしわしと髪を拭い、鶴丸は片手を伸ばして呼び寄せていた恋刀の髪を軽く梳いた。湿ってはいるが、大方乾いてはいるようだ。とはいえ手入れをしたというよりは、夏の空気に任せて放っておいた結果のようでもある。
「乾かせと言ったろ」
「なに、寒い季節でもないのだ。問題はなかろう」
「髪が傷むぜ、と言いたいところだが、きみの髪は手入れしなくても傷みが少ないんだよな」
加州やら乱やら篭手切やらに文句を言われるぞ、と溜息を吐く鶴丸に、三日月はふふ、と穏やかに笑う。
「あれらに見付かれば色々と世話を焼かれるからなあ」
「きみは世話し甲斐があるからな。篭手切と言や、江の者たちはまだ畑なのか?」
「おれは先に戻れと返されたが、もう少し念を入れてから戻るということだった。何、桑名江がいるからな。危ない空模様になる前には帰って来るだろう」
「畑のこととなれば一番無理をしそうなものなのにな」
「桑名は自然神に近いところがあるからな。あまり、そういうものに逆らいはしないさ。ヒトの手に許される分だけ、準備はするようだが……」
ふ、と言葉を切った三日月が、なにか耳を澄ませるように軽く小首を傾げた。ついと横目に流された視線のほうで、氷が届いたぞ、と大包平の大声が聞こえる。よし、と鶴丸は手拭いを首に掛けたまま立ち上がった。
「取ってくる。他になにかいるかい? 酒でも呑むか」
「はは、では麦茶を頼む」
「了解」
鶴丸よりも酒は強いはずだが、それでも控えるつもりらしい三日月に軽く片手を振り、鶴丸は内番服の襟を軽く緩めて風を送り、たすきを懐から取り出し手早く掛けた。途中、洗濯場の籠にぽいと濡れた手拭いを放って玄関へと回る。
「ほいほい、手伝うぜ」
「こちらは手は足りている。自分たちの分を持っていけ。そこの盥を使え」
人間であれば到底持ち上がりそうのない氷塊をごろりとひとつ示した大包平に解ったと頷き、鶴丸は詰んであった盥を一つ取ってそれを入れた。持ち上げると、ひやりと冷気が顔を撫でていく。
「へえ、涼しいもんだな」
「停電にならなかったときには残った氷はかき氷にすると、短刀たちが言っていたからな。汚すなよ」
「ま、こんだけでかけりゃ朝までには溶けないか。停電となればちと心許ないが……」
「広間に一番大きな氷柱を置く。暑さに耐えられなくなったらそちらに来い」
解った、と頷き黙々と氷を切り出していた大倶利伽羅の背を頑張れよと一つ叩いて、鶴丸は迷惑そうな視線を飄々と流して厨へと向かう。
「おお、こりゃすごいな」
声を掛けると、何がどう気が昂ぶったものか数振りで歌いながら握り飯を次々とこしらえていた刀たちの陣頭指揮をしていた燭台切が、手を拭いながら振り向いた。
「鶴さん。あ、お酒でも取りに来たの? 今夜は三日月さんといるんだよね」
「いや、呑まないそうだ。備えるつもりなんだろ。代わりに麦茶をな」
「そっか。ま、何もないに越したことはないけど、江の子たちや祢々切丸さんや琉球の子たちがみんなざわついてるもんね」
「あいつらはなあ、ちっと俺たちとは趣が違うしな。神刀ともちょいとずれる。主はぴんときてないようだが」
はい、と冷たい麦茶が詰められているらしいポットを渡され、片手に盥を持ち替えて鶴丸はそれをもう片手に提げた。
「大荷物だね。手伝おうか?」
「いや、大丈夫だ。きみはこちらの仕事があるだろう。急げよ、もう随分風も強いぞ」
「はは、ご飯は炊けてるし、あとは握るだけだからね。雨が来てからでも平気だよ。それでもまあ、さっさと済ませるに越したことはないけど」
握り終わったら厨と広間に置くから食べたくなったら取りに来て、と言った燭台切に解ったと頷き、鶴丸は今度は玄関を回らず内廊下から太刀部屋のある棟を目指した。太刀の棟の中でも、鶴丸の部屋は一番遠い。ほとんど離れと変わらない距離だ。
本丸内は騒がしかった。明るい騒がしさだ。高揚していると言ってもいい。厨の者たちの歌も、鶴丸には曲名は解らないが高揚した明るい歌だった。
まるでいくさの前だ。
ふいを打たれ攻め込まれる戦ではない。充分に準備をし、今か今かと敵の到着を待っていた戦だ。嵐の音に高揚の声などかき消されてしまう、防備を固めた城で伏して待つもののふたちだ。
回廊へと出ると、がたがたと時折雨戸が強く鳴る。ばたばたと板を打つのは、雨粒だろうか。いよいよ降り始めたらしい。
おっといかんな、と足を早めたところで、ばつん、と灯りが落ちた。一瞬完全に視界が閉ざされ、鶴丸は足を止める。
「おーい、すまんが誰か灯りを頼む!」
予め決められていた通り声を上げると、本丸のあちらこちらで同様の声が響いた。同時にぱたぱたと掛けてくる野兎のような小さな足音が聞こえる。
「鶴丸さん! 大丈夫ですか?」
「ああ、何ともない。案内を頼むぜ」
「はい!」
灯りを手に駆け寄って来た秋田藤四郎は鶴丸の足下を照らして先導しながら、回廊のあちらこちらに置いてあった常夜灯を点けた。鶴丸の部屋はもっとも端だ。回廊のこちら側は、太刀部屋の端まで灯りが灯ることになる。
「停電はもっと夜遅くなって、台風が酷くなってからかなって話してたんですけど、江の方たちの言う通りになりましたね」
「そうだな。まさか降り始めと同時とは思わなかった。これは本当に出陣の準備をしておいたほうがいいな」
「僕らも準備はしておきますね。連隊戦で鍛えましたから、交代もばっちりです!」
「はは、きみらじゃ風に飛ばされちまいそうだからな。できるだけ俺たちでなんとかしたいものだが」
言いながら見えてきた部屋に、鶴丸は秋田へとひとつ頷く。
「ありがとうな。もういいぜ」
「今剣くんが近くにいますから、何かあったら頼ってくださいね」
「ああ、そうさせてもらうぜ。きみらは本当に頼りになるな」
「鶴丸さんこそ、頼りにしてます!」
頼りない灯りのもとでもきらめくような笑顔を見せて、秋田はぱたぱたと来た道を戻って行った。それを見送り、鶴丸は三日月が灯りを灯したらしい己の部屋へと向かう。
「ん、着替えたのか」
「ああ、あとは手伝ってくれ。どれだけの嵐であろうとも、戦装束のほうが戦いやすい」
「きみの装束は普段でもまるで戦いやすそうではないがなあ」
言いながらよいせ、と盥を置き麦茶を文机へと置いて、鶴丸は袴までは付けていた三日月の装束を衣桁から外した。鶴丸の部屋で共に待機すると決め、朝のうちに運び込んでおいたものだ。
手慣れた装束を着けてやる間にも、風と雨の音は酷くなっていく。まるでこのまま収まることはないのではないかと思うような音だ。
「装具は自分でやれるか?」
「ああ。お前も早く着替えろ」
「俺はこのままでもいいんだが」
「そういうわけにはいくまい。敬意を払わねばならん」
ふうん、と唇を曲げて笑い、ぽいぽいと内番服を脱ぎ散らかしながら鶴丸は続けた。
「きみ、なにが来るのか大体解ってるって様子だな」
「ここまで近くなればな。祢々切丸や……そうだな、大倶利伽羅たちも解っているのではないか。だが、江の者たちの嗅覚には驚いたぞ。あれらが騒ぎ出したときには、おれはなにも感じていなかったからなあ」
それぞれ独自の嗅覚で嗅ぎつけたらしい彼らに心底感服したという口調で、三日月は胴当てを付けながら笑う。
「江はやはり、少々変わっているな」
「なにせ江とおばけは見たことがない、なんていうからな。見たことのない、けれどどこかにはあるはずの刀に人々がどのように想いを寄せたのか、俺には計り知れんところではあるが……」
てきぱきと己の装束をつけ終え、鶴丸は乱箱に残っていた三日月の髪飾りを手に取った。篭手を嵌め、こちらに視線を向けた彼の薄明かりの元でも鋭く光る打ち除けに目を細め、髪飾りを斜めに掛ける。
「うん、よし。きみは美しいな」
「うん? そうか。お前の着付けが上手かったかな」
「そりゃきみを飾るんだ、いつでも細心の注意を払っちゃいるが、今日ばかりは手を抜いたほうがよかったかもしれないな。連れて行かれないでくれよ」
はっはっは、と三日月は朗らかに笑った。すう、と現われた本体が、まるで柄に掛けているかのように構えていた手の元へ、静かに下がる。
「以前にも言わなかったか? 神は生きとし生けるものを愛でるものだ。この大地にあるものならば連れ去ることもするだろうが、おれたちは刀だ。ヒトのための宝だ。ヒトが神に捧げたのでなくば、そうそうまなざしが向くことはないさ」
「きみの美しさはそこに収まらないだろうって話もしたよな。用心するに越したことはない」
ごろごろと雷が鳴っている。鶴丸はばさりと羽織を纏い、こちらは刀掛けに置いていた本体を取った。
途端、轟音を立てて稲妻が落ち、隙間なく立てたはずの雨戸の継ぎ目から一瞬白い光が覗いた。顔を見合わせ、鶴丸は恋刀と笑う。
「お出ましになったようだぜ」
「来ないかとも思ったがなあ。しかし、遡行軍の気配まで連れてくるとは……いや、遡行軍があれに何かしたかな。さてはて、あれは天の稲妻、地の血潮だ。罰当たりなことをする」
「そこで止まるなら歴史を変えようなんて思いはしないさ」
言い合いながら用意していた履き物を履き、足早に幾つもの灯りの灯る回廊を巡り申し合わせていた通り天守へと向かう道すがら、続々と太刀や大太刀、薙刀といった室内戦には不向きな者たちが合流した。皆戦装束だ。先程まで鋸で氷を切っていた大包平も、軍服のようなその装束に身を包んでいる。足下は土足だが、回廊も天守も板間だ。後ほど掃除をすればいいだろう。
「大包平。鶯丸は留守番か」
「手が足りねば来ると言っていたが、この大包平がいれば問題はないからな。あいつには城の守りをしてもらう」
「そうか。それも大切だな」
うん、と頷いた三日月が普段滅多には使わない天守への急な階段を上り、先んじて到達していた薙刀たちが雨戸に手を掛けているそこへと先頭を切って駈けた。
「開けろ!」
雨風にも負けない岩融のよく響く声に、がらりと開いた雨戸の外、暴風に踊りのたうつその巨体の金の眼が刀たちをひたと見詰める。
低い欄干を蹴った三日月が稲妻に白刃を光らせ宙に躍り出たのに続き、鶴丸は嵐に乗ってやってきた金の眼の龍へと向かって跳んだ。
「あの龍が俺たちを総崩れにするか、そうではなくとも暴れさせて手こずっている間に混乱に乗じて遡行経路を固定し乗り込んでくるつもりだったんだろうが」
「勘の鋭い者たちが揃っていたからなあ。ふむ、こうしてみれば、主の刀帳にある全ての刀を集めたがる癖も悪くはないのかもしれんな」
ばりえーしょん、というやつだ、と少し辿々しく言って、三日月は風呂上がりの濡れ髪から水滴を滴らせた。やれやれと溜息を吐き、鶴丸は肩に掛かった手拭いを取りわしわしとその艶のある夜のような色をした髪を拭う。
「龍神を捕まえて意のままに操ろうなんて、遡行軍にもなかなかに力の強い霊媒がいるようだな」
「まるで操れてはいなかったがな。苦しんでいた……というほどでもないようだったが、喩えるなら魚の小骨が喉にでも引っかかったような不快感はあったのだろうな」
「その程度であんなに暴れられちゃあ参るんだが……上手いこと本丸から引き離せてよかったぜ。ま、裏の庭は滅茶苦茶になっちまったが」
「あんなものに乗り込んでこられた割には被害は少なかったのではないかな。歌仙は嘆くだろうがなあ」
「落ち着いたら庭師を呼ぶよう、主には進言しておくさ」
さて、と大方湿り気を拭い終え、鶴丸は逸速く雨戸を外してもらった回廊からの風を受けながら三日月の前へと胡座を掻いた。その手を取る。湿布を貼られ、晒しを巻かれた手首が倍に腫れ上がっている。
「尾に打たれていたものな。そりゃあ折れるか」
「他に大した傷はないからな。この程度で済んで幸運ではあったな」
手入れ部屋が渋滞しているため後回しでいい、先に風呂へ入りたいと呑気な我が儘を言う体で他の者を先に手入れさせた三日月に、鶴丸はまた溜息を吐く。言ってどうにかなる相手でもなく、命に関わる傷でもない。薬研と主が大忙しで手入れを進めているから、今夜中には直してもらうことはできるだろう。
だがそれとこれとは別だ、と薄く眉根を寄せ、鶴丸は手首を動かさないよう己の顔を伏せ、まるで平伏するようにしてその晒しの上へと唇を付けた。つんと薬のにおいがする。
「鶴丸?」
「たとえきみであっても戦場での傷にどうこう思うことは、そうないんだがな」
「いくさではあっただろう?」
「ちょっと違うな。きみ、あれを極力傷付けないよう気を遣っていただろう。そうでなければ尾っぽの先なんか、斬り飛ばしてたんじゃないか?」
「さて、斬り飛ばせるものかどうか」
「とぼけるなよ。龍はどれだけ切り刻もうとそうそう死にはしないものだ、手加減すればこちらが折れかねないと祢々切丸には言われていただろう。全力で追い返すと、事前に決めてもいたよな? 何故手心を加えた?」
ううん、と眉を下げて曖昧に笑い、暫し黙っていた三日月は、誤魔化されてくれないと知ったかふ、と苦笑のように息を吐いた。
「いや……なに、あやつの眼がな」
「眼?」
「白いたてがみに、金の眼をしていただろう。……まあ、それでな。お前のようだと思った」
「金眼の刀は他にもいるだろ」
「そうだな。伊達の者たちもお前を含めみな金の眼をしているし、龍とはそういうものなのかもしれん」
鶴丸は薄く目を細める。
「独眼竜のことを言ってるんだろうが、俺はあまり自分が龍に纏わる気はしないぜ」
「うん、そうだろうな。伊達に長くいたと言うわりに、お前にはやはり特定の家やヒトの気配は感じない。だがそれでも、なんだか鶴丸のようだと思ったら……」
ふふ、と三日月は思わず、と言ったようにまろく笑った。さらりと髪を崩して首を傾げ、鶴丸を見詰める眸がうっとりと優しい。
「お前がはしゃいでいるようで、なんだか可愛く思えてなあ」
「可愛い、って、あの龍がか」
「龍が、ではあるが、お前が、とも言えるな。嵐の中で群がるおれたちを愉しげに蹴散らしているのかと思うと、こちらだけが命を懸けて戦っているのも無粋なようでな」
「そんなことで折れられても困るんだが……」
「愉しげに、と言っただろう。あの巨体にあの力だからな。うっかり折られることはあったかもしれんが、あれとておれたちを破壊するつもりはなかったはずだぞ。遡行軍……歴史修正主義者かもしれんが、奴らに向かわされ流されてきたとはいえ、おれたちちいさき刀の神を見て、少し遊んでやろうとそう思ったのではないかな」
暫しじっと三日月を見詰め、微笑んだまますまなかった、と謝罪した彼に、鶴丸は胸の底から息を吐く。
「別に謝ることじゃない。……が、きみが他のモノに俺を重ねて愛でるなんてことは、あんまり面白くはないな」
「おや、妬いたか?」
「ああ、そうだ」
ぱちり、と瞬き目を丸くした三日月に憮然として見せて、鶴丸は結局くつりと喉を鳴らし笑った。
「冗談だ。いや、ちっとばかり面白くないのは本当だが、きみが俺を思って傷付けないよう手控えたのではなく、俺が愉しげにしていることを思ってそうしたというなら、それは悪くはない。無用な傷を負われるのは困ったものだが」
「心配を掛けて悪かった」
「もうしない、とは言わないんだな?」
困ったように言い淀む三日月に冗談だ、とまた笑い、鶴丸はさらさらと夜風に揺れている髪を撫でた。つと顔を寄せ、鼻先を擦り寄せる。
「本当、きみには退屈しないぜ」
「ん、そうか? ならばよかった」
「無茶も許容する、って話じゃないからな」
「それは解っている。すまん、お前のようだとつい愉しくなってしまった」
「きみが俺を思い出して愉しくなってくれたんなら、ま、今回はそれで手打ちだな」
詫びに口付けしてくれ、と己の笑んだ唇をとんとんと人差し指でつつくと、密度の濃い重い睫毛をぱさりと揺らし、三日月はあいわかった、と破顔した。
唇が触れるだけの可愛らしい口付けを享受しながら、鶴丸は随分と溶けてしまった盥の氷をちらと横目に見た。
氷は熱に当てられたかのように、がらん、と音を立てて溶けて転がった。