夜明けのスキャット/モクチェズ ちぇーずれい、と節をつけるように名前を呼ばれた。こんな気が抜けた声で己を呼ぶのはこの相棒ぐらいのものである。
僅かに目線を上げると、前を歩いていたモクマがこちらを振り向いて手招きをしているところだった。
何か興味深いものでも見つけたのだろうか。――こんな寂れた、夜明け前の廃線跡で?
疑問に思いながらも、チェズレイは相棒のもとへと歩を進める。
二人が歩いているのはもう使われなくなって久しい古びたレールの上だ。廃駅の地下をアジトとしていたマフィアをひとつ潰した帰り道だった。車を手配しても良かったのだが、廃駅から伸びた線路を眺めながら「少し散歩して帰ろうよ」とモクマが言い出したのだ。夜明け前の涼やかな風が心地よく、相棒の珍しい我が儘に付き合うのも悪くないかと思えた。海中の坑道を走るトロッコを思い出して懐かしくなったというのもある。おそらくモクマも同じことを思い出したのだろう。
二人が征く道の遙か先は宵闇に飲まれて見えはしない。もしかしたらどこかでポイントを切り替え損ねてしまう日が来るのかもしれなかった。その時は共に地獄行きだ。
「――何かありました?」
横に並んで、相棒を見下ろす。口元を覆い隠していたマフラーを緩めながらモクマは上目遣いにチェズレイを見た。
「ん-、ちょいと耳貸してくれる?」
「どうして?」
「いいから」
内緒話をしようにも、廃線跡には自分たちの他に誰もいない。だから耳打ちをする必要もないはずなのだが、有無を言わさぬ口調でモクマが促す。その意図は不明瞭なものの、これといって拒否する理由もなかった。チェズレイは促されるまま身を屈めて、頬に落ちる前髪を耳にかけた。
さて、どんな秘めごとを明かしてくれるのやら。
そう待ち構えていると、ちゅ、と軽やかなリップ音が響いた。同時に頬にふにっと柔らかいものが押し当てられらる感覚――頬にキスをされたのだ、と気づいた時には柔らかな感触は離れていた。
「…………は?」
いったい何のつもりなのだろうか。
咎めるつもりで視線を横に流した時点で、相手の思惑に乗ってしまったようなものだ。それに気付かない程度にはチェズレイも動揺していた。
振り向いたチェズレイの顎を太い指が擽るように撫でたかと思うと、今度は唇を奪われた。掠めるように触れた唇は、やはりすぐに離れていってしまう。
「…………」
惚けたように瞬きを繰り返してから、チェズレイは屈めていた身を起こした。背筋を伸ばしてしまえば、見下ろした先にはいつもどおりの灰がかった髪が見える。こちらを見上げたモクマはエヘヘと締まりのない笑顔を浮かべていた。
枕を共にし、情を交わす相手だ。つまりは唇で触れられることにいまさら嫌悪はないのだが、不意打ちには驚いてしまう。何よりも舌も入れない口付けがこんなにも恥ずかしいものだとは思ってもみなかった。捕食じみた、官能に火をつけるためのキスならば慣れているのに。性的な意味合いを持たない触れ合いは、チェズレイに戸惑いと羞恥をもたらした。
「……モクマさん」
「お、怒った……?」
「いえ。……むしろあなたこそ、何か怒っていらっしゃる?」
「へっ?」
半ば本気で尋ねると、モクマはぽかんとした顔をした。
「このように辱められるほど、あなたを怒らせた記憶はないのですが」
ああ、だか、うん、だか煮え切らない声を上げて、モクマは決まり悪そうに頭をかいた。
「すまんね、お前さんがそんなに照れるとは思わなくって」
「…………照れているわけではありませんが」
憮然として反論したものの、軽く笑いながら流されてしまう。モクマはチェズレイの左手を握ると再び歩き出した。仕方なく、チェズレイも隣を並んで歩く。
「ごめんごめん、チェズレイがあんまり可愛いもんだから、つい」
「……この私にそんな事を仰るの、あなたくらいのものですよ」
「そいつは好都合だ。お前の照れた顔なんて、俺以外知らなくていいよ」
チェズレイはわざとらしくため息を吐いた。それが羞恥を誤魔化すためであることは、きっとモクマにはバレているだろうが。
「ともかく、不意打ちはやめてください。心臓に悪いので」
横目でチェズレイを見上げながら、モクマは少し呆れたような顔をした。
「こういうのって予告された方が恥ずかしいと思うけども」
「そうは言っても、心構えができたほうがいいでしょう」
「お前さんがそう言うなら、俺は構わんけどね」
子供のように手を繋いで、朝焼けの中を並んで歩く。世界征服を目指す二人が、何とも長閑な事だった。
不意打ちではなく予告するように、という自分の言葉を後日まんまと後悔することになるのだが、それはまた別の話だ。