12/22夜のモクチェズらくがき文「チェーズレイさーん」
ノックを二回。節をつけて歌うように名前を呼んだ。そのまま返事を待つことしばし。
ややあってから「どうぞ」とくぐもった声が返った。
「そんじゃ遠慮なく」
ドアを開けて部屋の中に入ると、部屋の主である相棒はジャケットを脱いでベッドに転がっていた。部屋着に着替えもせずだらしなく伏せるなど、『仮面の詐欺師』らしくもない。
やはり酔い潰れていたかと苦笑しながら、ピッチャーとグラスを載せたトレイをナイトテーブルに置いた。そのままベッドの端に腰掛けて、持ってきたグラスにピッチャーの水を注ぐ。そしてそれを、緩慢な動作で身を起こしたチェズレイの前に差し出した。
「ほい、お届け物だよ。とりあえずそれ飲んで」
「……ありがとうございます」
チェズレイは受け取った水をゆっくりと飲んだ。空になったグラスをモクマへと返し、眉を顰めて深いため息を吐く。
「もちっと飲んどいたら?」
「いえ、結構です。……無様な姿をお見せしまして」
その声が心底不本意そうだったので、モクマは声を上げて笑った。そんなの今更だし、お互い様だ。
「笑い声が頭に響くのですが」
「すまんすまん。っと、ナデシコちゃんから伝言預かっとるんだった。『飲ませすぎたのならすまなかったな』だとさ」
「似ていませんねェ」
過激な警視総監殿の真似をしてみると、チェズレイはわざとらしく呆れた顔をした。冗談を返す程度には元気なようで何よりだ。
「もちろん無理に飲まされたりなどしていませんが、彼女のペースにつられてしまったようでして……」
「はは、ナデシコちゃん酒豪だからねえ」
この一年半でモクマとの晩酌に慣れたチェズレイは、無意識のうちに相手のペースに合わせてしまったのかもしれない。しかし今回はその相手が悪かった。オンザロックを水代わりに飲む人間のペースに合わせては潰れるのも当然である。ナデシコ曰く『表面上は普段通り』だった相棒は、酔いを悟られないようどうにか平静を装って部屋に引き上げてきたのだろう。
「でも、お前さんがついつられちまうくらい楽しい酒だったってことだろ? そいつは何よりだよ」
「それは否定しませんが。どちらかと言えば、あなたには今まで随分と手加減をされていたものだと思い知らされましたね」
「手加減?」
瞠目するモクマに、チェズレイはこめかみを押さえながら軽く頷いてみせる。
「下戸が己のペースにつられて潰れないよう加減して飲んでいたのでしょう。あなたにとっては、いつも飲み足りなかったのでは?」
なるほど、そう来るか。
モクマは苦笑混じりに相棒を見上げた。
確かに顔色はいつもと変わらず、『普段通り』に見えるのかもしれない。けれどモクマを見つめる瞳は潤んで夜露に濡れた花のようだ。酒精に溶かされた声は甘く、子どもじみた拗ねた物言いすら睦言めいている。
チェズレイが外の店で滅多に酒を口にしないのは、酔った姿を他人に見せたくないからだ。しかしモクマの前では酔って無防備な姿を見せることも厭わなかった。無様だと自嘲しながらも『丸裸』の自分を晒してくれる。
自分だけが彼の弱さに触れることを許されている。それを思い知らされては、どうしたって心は踊るものだ。
「そいつは手加減とは言わんよ。俺が好きで合わせとるんだもの」
「…………」
モクマにとって酒とは長らく逃避の手段であり睡眠薬であり寂しさを紛らわすためのものだった。無為に死ぬこともできず、長く孤独な昼と夜を生き延びるために酒に逃げた。
心から楽しく酒が飲めるようになったのは他ならぬチェズレイのおかげだ。彼の荒療治がなければ自分は変わることもできずに燻ったまま内側から腐り落ちて、マイカ山で命を落としていただろう。
相棒との晩酌は、己がいかに幸福であるかを思い出させてくれた。だからこそ「舐める程度でいいから付き合ってほしい」と言ったのに、この律儀者は酒を飲む練習までしてモクマに合わせようとしてくれる。このうえ「自分が相手では物足りないのでは」などといじらしいことを言われてはつい口元も緩んでしまうというものだ。
「お前が俺との酒を楽しんでくれりゃそれでいい。それだけで俺にとってはこの上なく旨い酒になるからね」
「……なるほど。酔った私は格好の肴ということですか。まったく、良い趣味をお持ちだ」
チェズレイは口の端を歪めて皮肉っぽく笑う。
どうやらいつもの調子が戻ってきたようだ。この分ならそう酷い二日酔いにもならないだろう。モクマは立ち上がり、ベッドに座り込む相棒を見下ろした。
「そこはまあ、なんせ一流の詐欺師お墨付きの下衆なもんでねえ。――気分悪くないなら下に降りといで。おじさんが腕によりをかけた味噌汁振る舞っちゃうよ」
「味噌汁ですか」
「あいにく豆腐じゃなくてしじみだけどもね。二日酔いにはこいつが一番。騙されたと思って飲んでみな」
チェズレイは考え込むように口をつぐんだ。リビングに降りてモクマ以外の前で『普段通り』の仮面を被れるかを思案しているのかもしれない。
「ルークもアーロンも出掛けとるよ。ナデシコちゃんは帰っちまったし、シキはコンピュータールームで作業中。自分で飲みたくて味噌汁作ったのはいいけど、つい作りすぎちまってね。お前さん以外に飲んでくれる奴がいないっちゅうわけだ」
方便ではあるが、まるきり嘘というわけでもない。チェズレイが口にするかはわからなかったのに、無意識に二人分を作っていたのだ。この一年半の間に「作る時は二人分」という癖がついてしまったらしい。
「この私に余り物を勧めるのはあなたくらいのものですよ」
「……怒ったかい?」
「いいえ。喜んでご相伴に預かりましょう」
チェズレイは微笑んでベッドから降りた。掛けていたジャケットを手に取って袖を通す。
「そいつは助かる。温め直しておくから、ゆっくり支度して降りといで」
それだけ言い置いてモクマは部屋を出た。
考えてみれば別々の部屋に寝泊まりするのも久しぶりのことだ。ヴィンウェイまでチェズレイを追いかけた日々は別にして、共に行動している時は基本的に同室だった。ミカグラに戻ってから郷愁と共に微かな寂しさを覚えていたのだが、何のことはない。明け方に目を覚ました時に独りでいることが寂しかったのだ。
「まさか独り寝を寂しく思う日が来ようとはねえ」
階段を降りながらモクマは苦笑した。
何よりもそんな自分も悪くないと思うなどとは二年前までは予想だにしなかった。
まったく、人生とはわからないもので、だからこそ素晴らしい。