我が事のように嬉しい「きゃわん!」
「あン?」
西交番の前に甲高く可愛く、鳴き声が響いた。
「ええ〜〜。これがポンちゃん!?」
可愛いかわいい、とはしゃぐ尖里とホッさん。
その目の前には、デスクにちょこん、とおすわりするほわほわのうぶ毛の黒い体毛と耳先や足や口周り、おまけにマロ眉のような部分が白い体毛の柴犬の仔犬がいた。
愛らしさだけで生きてるような仔犬だがその正体はまごうことなきゴリラ(一本木直)である。
俗称『ポメガバース』正式名称『双極身体症候群』という病気、まあ風邪みたいなもんである。
俗的な浅い知識で言えば軽い鬱病や重い五月病程度の精神的不調で体が犬猫なんかに変化する病気で、一般的な愛玩動物に変化することが特徴の一つ、まァこれは周囲に可愛がられるカタチになることで精神的不調を回復する、愛されてストレスを発散するってぇ俗説だ本当のとこは知らんけど。ちなみになんでポメガバースかといえば、近代になって流行りだしたコレにSNSで一山当てた奴がポメラニアン化の病症だったから。
精神的不調も絶対的なソレではなく、今回の一本木の柴犬化の大半の理由は一昨日の小事で当たった相談者がポメガバースの患者で、その後一本木は探し物で噴水に飛び込み挙げ句に交番のタオル不足とドライヤーの故障で俺が発火能力の応用で温風を当てたもののゴリラらしくもなく体調を崩しかけた、ところで昨日こいつの祖父さんの体調が少し悪くなり(あの世紀末祖父さんの体調不良等想像もつかないが、まあ身内を心配するのは当然のことでもある)、と不安を抱えたことで発病したのだ。
体調不良と精神的不調の合わせ技なら、本来よりも軽い不安でも発病はする。一本木は発病そのものに落ち込んでいたが。その仔犬姿で出勤するメンタルは逆に尊敬する。第一発見者俺じゃなくてローボやハセガワさんだったらどうする気だったんだこのポン巡は。
「きうぅーー……」
「キャーー! なあなあ、超巡、ポンちゃんなんて言ってる!?」
「『もうやめて』だとよ」
悲鳴じみた歓声をあげて仔柴の一本木を可愛がる尖里の腕の中で一本木が力なく情けない声で鳴く。
愛され可愛がられる為に愛玩動物に変化すると言われがちなポメガバースだが、一本木の不安は可愛がられて何とかなる類ではないし一本木当人も一時的に承認欲求や自己肯定感を満たして本質から目を逸らすタイプではない。そもそもその二つが足りてないタイプですらない。
結果、可愛らしい仔犬にメロメロの尖里の愛玩の手に弱りきってるのが現状だ。
ホッさんもかわいいかわいいと歓声をあげちゃいるが、あの人はちゃんと仔犬が一本木(十代の女性)だってわかってるからな、デレデレしてても頭も撫でないで見てるだけだ。
尖里はそのへん人生経験の差と、単純に一本木と元々友達関係なのもあって遠慮がない。まあ一本木も疲れちゃいるが拒絶や嫌悪まで言ってないのでちょっとした行き過ぎコミュニケーションの範囲だろ。
尖里も話の通じない奴じゃないので、俺の通訳を聞いて不満そうな顔をしつつも仔柴化の一本木を撫でる手を止め俺のデスクの上にそっと下ろした。なんで俺のデスクに???
当の一本木は一昔前に流行ったシワシワピカチュウみたいな面でよぼよぼと俺の手元まで歩いて腰を下ろす。なんで俺の手元に????
きゅふぅ、なんてほっと一息みてーな鳴き声をあげる一本木に困惑する。あと、ふわふわのうぶ毛が手に触れてマジで気持ちいい。セクハラには値しないと思いたい。
「なーなー、写真は撮っちゃダメかな? おやつとかは人間用は食べられないんだっけか?」
「内臓とか完全に犬になってるわけじゃねーからな、でも体重分考えんと体調崩すぞ。人間もチョコレート何キロとか食ったら中毒で死ぬだろ。写真は…「キャン!」いいってさ」
キラキラした目の尖里に、さっきまで疲れていたのはどこ吹く風とドヤ顔で胸を張る仔犬柴。
せっかくこんなになってまで出勤しているのに病欠扱いされているとは思えない元気いっぱい振りである。
まあ一般人に見られてもな書類を扱っちゃいたが、映り込みを警戒して書類を下げるくらいの職務意識はある。お前はいつもプラモだろという幻聴が聞こえるが幻聴なので気にしない。ローボの声は読めないので真面目に幻聴だし。
きゃっきゃと写真やらなんやらをやっていたはずの一本木がまた手元に戻ってきた。
もう疲れたか? と思うも何だか読めてくるのはひたすらにドヤドヤとした『やれるぜ! 私やれるぜ!』というやる気だ。
もふっ! と手袋越しの左手に肉球があたり、そのまま、もふ! もふ! と時折滑りながらジャケットの前腕、肘を乗り越えて二の腕を登り肩、と登頂していく。
なんとなく落とすのも振り払うのも気が引けて登りやすい姿勢をとってしまう。そのうち首を乗り越えてつむじまで登頂した一本木は「きゃうん!」と自慢げな鳴き声をあげてぽふ! っと座り込んだ。右手で鷲掴んでデスクに下ろした。
「きゅーん!?」
なんで!? じゃねーんだよ。キャットタワーじゃねーんだ俺は。
知能の低下もポメガバースの症状の一つだからといってアホ丸出しの行動だったぞお前。
「きゃん! きゃんッ!」
「?」
謎に俺の手に頭突きを繰り返す柴犬の一本木だが、そういえばポメガバースは安心感を強く求めるようになる病気だったとも思い至った。
今までの不可解な行動は全て、まあ、一本木が超条巡に対して『安心感』を持っているということに他ならないのではないのかと面はゆいが思い至ってしまった。
わしゃわしゃと頭を撫でてやれば心地よさそうな鳴き声がする。
一本木にとって一番安心できる相手といえばそりゃああの祖父さんだろうが、不安感の原因が祖父さんである以上他の安心材料を求めていたのは今まで思い至らなかったのが不思議なくらい当然のことで、交番への出勤も、自意識が強く残っていた故の責任感もそりゃあ表の理由としてあっただろうが、裏には俺を頼ってきたというのも隠れた理由としてあったのだろう。
まったく心が読める癖察しの悪い相棒で恋人で悪かったよ。そんな気持ちを込めて直を両手でわしゃわしゃと捏ね撫でる。
しあわせそうな声がした。
「おはようございますっ!!」
病欠故の休日を挟んだ出勤日。一本木は元気よく敬礼しながら挨拶するがほんのりと頬が赤い。照れているのがバレバレだった。
「ぉはよーす」そして俺も照れていた。地獄か。
クソが、職場でこんな照れの初々しい桃色空気を出すくらいなら昨日のうちにとっとと直の家まで顔を出してこのターンを済ませておくべきだった!
巡は宿題を最終週まで残しておくタイプだからな! とここにいないはずの元相棒の幻聴が聞こえる。
まあいい。やる事は決まっている。
「一本木、手ぇ出せ」
「? はい」
なんで手ぇ出せって言われてお手の手を出すんだこいつは。犬になってた名残が消えてなさすぎる。
若干ムカムカしつつも手首を掴みくるりと反転させ、手のひらに握り込ませる。
「先輩、これ…」
「ウチの合鍵。まあ、来たい時に好きに来ればいいんじゃねぇの」
交番まで来なくても
ああクソ、自分の耳も首も頬も真っ赤なのが分かる。直の顔が赤いのも何の慰めにもならないほど。
それでも、物理的衝撃がありそうな程の喜びの感情を浴びて、良かったと思った。