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    フロイデ🦈💀。
    6章中編1を受けて色々と考えたことを吐き出したくて、なんとか形にしたものです。

    ※何でも許せる人向け
    ※6章中編1ネタバレ
    ※いろいろ捏造、設定ふんわり、好き放題
    ※最後にあとがき的なもの有り

    (2022.01.07)

    #フロイデ
    freudian

    忘却の寄る辺に紡ぐ糸、あるいは温もりと匂いの彼方で咲く願い イデアは自室のベッドに座りながら、少しばかり困っていた。困惑の原因は、彼の腰に両腕でしがみついているウツボの人魚だ。恋人の薄い腹に顔を押し当てたまま、フロイドはかれこれ一時間近くじっと動かない。その姿はいつぞや動画サイトで見た、海底の岩陰に潜むウツボそのものだ。仕方なくターコイズブルーの髪を撫でるイデアの下半身は、百九十を超える長躯の重みで僅かに痺れ始めていた。
     新学期の開始を翌々日に控えたこの日。本来ならばウィンターホリデー最終日に戻ってくる予定だったイデアが既にNRCにいるのは、少しでも早く帰って来るよう頼まれたからだ。頼んできたのは目の前のウツボではなく、その幼馴染みのタコの人魚である。曰く、彼の腹心である双子ウツボの片割れが心身に重篤な不調をきたしている、とのことで。オクタヴィネル寮長らしからぬ対価の大盤振る舞いに釣られた訳ではないが、要請に応じて一日早く帰ってきたイデアは、部屋に入るなりタックルしてきた年下の恋人を以来ずっと腰にぶら下げている。
     事前の打ち合わせ通り、オルトにはアズールとジェイドの所に行ってもらった。今頃は持たせた新作ボードゲームを一緒にやっているだろう。実家にいる間に弟と何回か遊んだそれは、販売元の実績と信頼を裏切らない出来だった。最大で五人までプレイできるので、フロイドの様子次第では皆でやろうと思っていたのだが、少なくとも暫くは無理なようだ。そんなことをつらつらと考えいたイデアの膝の上で、この体勢になってから初めてフロイドが大きく身じろぎをした。

    「どう、少しは元気になった?」
    「ー」

     どっちともとれる低い唸りを返して、フロイドがのそりと上体を起こす。ようやく拝むことのできた恋人の顔にいつもの覇気はなく、目の下にはクマが出来ていた。

    「ひぇ、せっかくの顔面SSRが大変なことに……」
    「べつに顔とかどーでもいいし」
    「はー出ましたわ、イケメンに有りがちな自分の顔への無頓着っぷり。そんなこと言って、いつモブに刺されても知りませんぞ?」
    「は? んなもん返り討ちにしてやるけど」
    「ですよねー」

     だらだらとした言葉の応酬をしながら、イデアは魔性のオッドアイには不似合いな青黒い血流の淀みを指の腹でなぞる。少しは調子が戻ったらしいフロイドはその指にかぷりと噛みついた後で、今度は青い髪に彩られた白い首筋に両腕を回してきた。伸し掛かってきた重みを壁に凭れることで耐えたイデアは、スンスンと鼻を鳴らす恋人の背中を優しく撫でる。クルルル……と鳴った喉に、青い唇からは小さな吐息が零れ落ちた。



     緊急事態だと連絡を寄こしたアズール曰く、フロイドの不調は番であるイデアの匂い不足が原因らしい。陸の人間の感覚からすると「匂いフェチの変態かな?」と思える理由はしかし、人魚にとっては大真面目なものだ。
     海は陸に比べ視界不良になることが多い。そのため嗅覚は時に視覚よりも重要な役割を果たす。特に味方の匂いは過酷な海での生存率を上げるためにも非常に重要な要素なのだが、なかでも番の匂いは心身の安定にも関わるほど特別なものらしかった。
     フロイドと付き合ってまだ数か月だが、人魚の嗅覚の鋭さと彼らにとっての匂いの重要性はイデアも既に理解している。とはいえ同じ人魚でも、番の匂いが与える影響のレベルは種族によって異なるようなのだが。通い婚の習性があり、番と体を密着させることで安らぎを得るウツボの人魚は、当然ながらその影響を受けやすいということだった。
     特にフロイドにとってイデアは初めての番であり、勝手の違う陸の人間だ。関係が続く中で番同士の匂いは混ざり合うものらしいが、未だ交際期間の短い二人ではそれも高が知れている。その為、限られた別離であっても番を得たばかりの年若い人魚に変調をきたす恐れがあることは、予め予測出来ていた。
     だからこそ嘆きの島に帰る間、番の匂いが染みついた場所として自室へのアクセスを要求してきたフロイドに、イデアは渋々ながらも鍵を預けることを了承したのだ。ついでに言えば、帰る前の数日はいつも以上に肉体的接触を増やして――有り体に言えばいちゃいちゃしたりもした。そんなこんなを経て迎えたウィンターホリデーの初日。闇の鏡を潜るイデアとオルトを見送りに来たフロイドは、早く帰って来て欲しいけど帰ってくるまではだいじょーぶだよ、と胸を張っていたのだが。
     そうはいってもなにぶん初めてのことばかりなので、予想外があるのも仕方がない。大半の生徒が帰省し、モストロ・ラウンジも閉まる休暇中。授業も部活もなく、人間体でいる必要性のなくなった人魚たちが本来の姿に戻って羽を伸ばそうと考えたことを責めるなんて、誰にも出来ないだろう。結果として、海の生き物が纏うものとは根本から性質の異なるイデアの匂いが、人魚体に戻り海を満喫したフロイドから綺麗さっぱり消えてしまったとしてもだ。
     なおその経緯を聞いて、そういえば魚って一度手についたらなかなか消えない独特なニオイするよね……と生魚が嫌いなイデアが顔を顰めたのは、各方面には秘密である。


     そんな訳で、海の中では通常起こり得ない唐突な番の匂いの喪失を味わったフロイドは、すぐに体調を崩してしまった。調子が悪い時は人間体より本来の姿でいる方が人魚にとっては楽なのだが、症状緩和の有効打であるイデアの匂いはイグニハイドの彼の部屋でしか得られない。そこに行くには人間体になる必要がある、という見事な悪循環によって、気分屋ウツボは残りの休みを番の部屋に引きこもって過ごすことになってしまった。
     それでも、洗わないでくれと懇願したシーツ類の積み重なるベッドの上で、これまた持って帰らないでくれとゴネまくった番の洋服にくるまり、大量にある漫画を読む生活はそれなりにフロイドの気を紛らわせてくれたのだが。次第に食欲と睡眠が減ってゆく彼の憔悴具合を懸念したジェイドとアズールが、年明け直前にイデアへの連絡を決断したのだった。
     なお、当初は煩いほど来ていたフロイドからの連絡が途切れた事をなんだかんだと気にかけていたイデアはそれから、残っていた仕事を不眠不休で片付けることになり。寮での緊急事態を理由に一日早く戻ってきた彼が穏やかな空気の中、いつしか眠りに落ちてしまったこともまた、誰にも責められないだろう。



    「ん……」

     意識が覚醒する感覚に、いつの間に寝てしまったんだろうかとイデアはぼんやり思う。確か今はウィンターホリデー中で、自分は嘆きの島で仕事に追われていたはず……。そこまで考えたところで、体温の低い青年は己を包み込む心地良い温もりに気がついた。
     うっすらと開けた瞳に、宝石のようなゴールドとオリーブが映り込む。自分が抱きかかえていたはずの恋人は、いつしか体勢を逆転させていた。不健康な身体に回された逞しい腕の中、イデアは軽く欠伸をする。「お疲れだねぇセンパイ」なんて徹夜作業の元凶が笑うもんだから、「誰のせいだと思ってんの」と生気の戻った頬を指先で突っついた。
     腕時計式のデジタルデバイスによれば、一時間ほど寝ていたらしい。そう現状を把握したイデアは、改めて自分を抱きしめる恋人の様子を確認してゆく。
     先程までは辛さを隠しきれていなかった眉はすっかり甘えたように垂れ下がり、青白かった頬にも赤みがさしている。同じく血色の戻った唇は緩い笑みを刻んでいるし、目の下のクマもその色を薄くしていた。全身で感じざるを得ない人間化した人魚の体温も、今日初めて触れた時に比べれば随分と高くなっている。
     予め死に繋がるような不調ではないと聞いていたが、普段からは想像もできない程に弱った姿は見ているだけ不安になるものだ。その回復速度には正直驚いたが、元気を取り戻したフロイドの姿にイデアは再度小さく息をついた。

    「心配かけてごめんねぇ、ホタルイカ先輩」
    「いやほんとビックリしましたわ。連絡が急に途切れたかと思ったらいきなりアズール氏から君がヤバいって連絡来るし、急いで戻ってきたら確かにめちゃくちゃ弱ってるし。……でも一番驚いたのは、あの不調の原因が本当に僕だったってことかな」

     部屋に入るなり突撃してきた身体の氷のような冷たさを思い出して、イデアの眉尻が自然と下がる。アズールから連絡を受けた時に不調の原因は聞いていたし、人魚――特にウツボの人魚にとって番の匂いがいかに重要であるか、改めて熱弁を振るわれてもいたけれど。学園に戻りフロイドの弱った姿を目にした当初、その原因が自分だなんてイデアには到底信じることが出来なかった。
     人との距離感やスキンシップへの抵抗感、貞操観念などが人それぞれで違うように、いくら口で愛を謳い身体を繋げたからといって、それがイコールで想いの深さを測る物差しにはなり得ない。同様に、暴力を含む肉体的コミュニケーションの多い陽キャ人魚のそれが、自分と同じだけの重さを持つはずはないだろうと。少なくともイデアはその考えを根底に、打算と妥協で始まった自分とフロイドの関係性を捉えてきた。どうせ物珍しいものへの興味から来る好奇心で、そのうち冷める熱に決まっている。そんな風に思っていたからこそ仮初の関係を許容したイデアにとって、弱り果てたフロイドの姿はあまりにも衝撃的だったのだ。
     だがしかし。「本当は違う原因があるんじゃないの」とか「アズール氏やジェイド氏が知らない陸のウイルスに感染したのかもしれない」とか。そんなことを大真面目に考えていたイデアの予想を裏切り、こうしてフロイドはあっさりと回復してしまった。しかも予想を遥かに上回る驚異的な早さでだ。
     その間に彼がしたことといえば、番であるイデアにべったりひっついてスンスンと鼻を鳴らしていたことぐらいで。ならばやはり原因は自分なのだと。自分はそれだけの影響力をこの人魚に対して持っているのだと。色違いの瞳に見つめられながらそう認めざるを得ない状況に、イデアはひたすら困惑していた。
     普通の恋人同士であればきっと、向けられた想いと繋がりの深さに感動すら覚える場面だというのに。この関係が続いてしまった先の結末を知る彼にとって、その事実はひどく恐ろしいもののようにしか思えなかったのだ。

    「ま〜鈍感な陸の人間には理解できなくても仕方ねーと思うけど。それでも今回のは特別だって。アズールにも予想外で、めずらしくスゲー慌ててたもん」

     そんな恋人の沈んだ気配をどう捉えたのか。今回の不調は特例だと軽い調子で言うフロイドにつられて、イデアもなんとか相槌を返す。

    「確かに、普通に海で暮らしてたら起こらないハプニングだよね」
    「そーそー。そりゃあ先輩の匂いが薄れたらちょっとは調子悪くなるかもって思ってたけど。元の体に戻ったり海に入ったりで一気に消えるとか知るワケねーし、あん時はマジでちょービビった。先輩の部屋に入れたから良かったけど、鍵もらってなかったらオレ、今ごろ干からびてたかもしんね~」

     茶化すように言って、深海の人魚は海底に射し込む光のような青色に鼻先を埋める。フロイドは番の炎の髪を匂い含めて殊更気に入っているようだが、正直なところ自分の匂いを嗅がれるというのは陸の人間には慣れ難いものだ。それでも気を抜けば安堵すら感じてしまう温もりに目を閉じたイデアは、不意に浮かんだ疑問を無視できなくなりつつあった。
     聞いちゃいけない。聞くべきじゃない。
     聞いても実りのない疑問は胸の内に留めるべきだと、必死に囁く声がする。声が正しいことは当然ながら百も承知だ。だが結局、イデアには自分勝手な好奇心に塗れた言葉を押し止めることが出来なかった。

    「……あのさ。これは陸の人間としての、ちょっとした好奇心なんだけど……。もし番を持つ人魚が記憶喪失とかになって、自分の番のことを忘れちゃったとしたら。その場合、記憶を失った人魚はどうなるのかな」
    「んー……そんなんなったことねぇし、聞いたこともねーから分かんねぇけど。もしオレがそうなったら、スゲー悲しくなると思う」
    「………記憶には無いのに?」
    「無いのにっていうか、無いからこそっていうか。ーもう、例え話でもこんなこと言うの嫌なんだけど! もしオレがホタルイカ先輩のこと忘れたとしても、自分のと混ざった先輩の匂いは消えないワケじゃん? そんでこんな風に嗅ぐだけで嬉しくて幸せで、同じぐらい心臓がギューッてなるのは番の匂いだけだって、俺ら人魚には分かるから。だからもしオレが先輩のこと忘れても自分に番がいるってことは本能的に理解するし、なのに相手が分かんなくてその匂いがどんどん消えてくとしたら……辛くて悲しくて、たぶんボロボロになると思う」

     想像しただけで辛くなったのか。「先輩の好奇心ってたまにヨーシャないよね」と眉を顰めた恋人を月色の瞳の映して。自分は最低だと、イデアは心の底からそう思った。
     例えなんかじゃない、このままではいずれ確実に訪れる未来。バカみたいに直球でぶつけてきた恋心ごとすべてを忘れて通り過ぎていく、弱肉強食の海を気ままに泳ぐ自由を体現したかのような人魚が。たとえ混ざり合った匂いが消えるまでの間だけでも、記憶にない喪失に――イデア・シュラウドという存在の残り香に苛まれる可能性を、何処にも行けない青年は確かに嬉しいと感じてしまったのだ。
     泣きたいような、笑い出したいような衝動に駆られてイデアは咄嗟に手で顔を覆う。
     忘却の河――レテ。自分と外界を隔てるその絶対的なシステムを僅かな間だけでもかい潜って、身に覚えのない幻影に苦しみながらも必死に手を伸ばしてくれるというのだ、このウツボの人魚は。
     フロイド曰く鈍感な陸の人間であるイデアにとって、人魚の感じる匂いは所詮想像の域を出ない。だから今回、弱り果てたフロイドの姿を見て自分が原因だったと理解した今でも、匂いなんて直ぐに消える儚いものだという感覚が付き纏う。実際、レテの河を渡ったフロイドが人魚に戻って海に帰れば、すべては瞬時に泡となって忘却の彼方に消え去るのだろう。
     でも、それでも。たった数日でも、たとえ数時間、数分だけであったとしても。残り香として彼の中に存在し続けられる可能性があることを、心の底から嬉しいと思ってしまったのだ。
     なんて酷いヤツだと、イデアは自分で自分が嫌になる。けれども同時に、噛みしめた唇の端が緩んでゆくのを止められない。

     かわいそうだね、かわいそうに。
     なんだってこの子はこんなヤツに興味を抱いて、それが恋だなんて勘違いを現実のものにしてしまったんだろう。

     ごめんね、ごめんなさい。
     いくら付きまとわれるのがウザくて面倒で、どうせ最後には無かったことになるなら、もういっそ付き合った方が楽じゃんなんてやけくそ気味に思ったからといって。どうして僕みたいな人間に、君のような人を受け入れるなんて決断が出来たんだろう。

     ずっと気付いてたのに見ないふりをしていた後悔が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。それなのにやっぱり嬉しいと思ってしまうなんて本当にどうかしていると、青い唇には自嘲の笑みが浮かんだ。
     だが当然ながら、そんな番の様子を見ていた人魚が大人しく黙っているはずもなく。

    「なーんかホタルイカ先輩、スゲーうれしそーじゃねぇ?」
    「ひぇっ、あ、……ご、ごめん」

     強い力で腕を引っ張られ、顔を覆っていた手のひらを外されたイデアは咄嗟に謝罪を口にする。急に開けた視界では、すっかりいつも通りに強い光を宿すオッドアイが瞬いていた。

    「べつに謝る必要はねーんだけど。あんな風に笑ったってことはつまりぃ、ホタルイカ先輩はオレが先輩のこと忘れてボロボロになったら嬉しいってことでしょ?」
    「……いや、それはその……」
    「うれしーんだよね?」
    「……………ごめん」
    「は? なんで謝んの?」
    「だ、だって、君の言う通りだから。さっきの話聞いて、う、嬉しいと思っちゃったから……。だからその、ごめんなさい」

     謝罪の言葉を重ねて俯いたイデアに対し、ウツボの人魚は「んー?」と首を傾げる。そのまま背中を丸めて覗き込んだ白い顔は、まるで怒られるのを待つ子どものように怯えた表情を浮かべていた。

    「だからぁ、謝る必要はねーんだって」
    「え、……って、ちょ、!?」

     解放されたばかりの体をまたしても抱きしめられたと、イデアが思った次の瞬間。すっかり見慣れた自室の天井が、イエローアンバーに映り込んでいた。
     二人で倒れ込んだベッドの上。ちらりと逸らした視線の先では、フロイドがなぜかとても嬉しそうな顔をしている。その思考回路が全然理解できなくて、人魚の腕に囚われたイデアは身じろぎすらままならない。気分屋フロイド・リーチの思考は割と予測不能で、たまに完全に理解不能になる。今回はどっちだろうかと思いながら、異端の天才はなにやらご機嫌な恋人の説明を待つことにした。

    「オレはホタルイカ先輩のこと好きだし、すきーっていっつも言ってるけど。先輩はそーいうの、絶対に言わねぇじゃん?」
    「……そ、だね」

     機嫌が良い理由とは到底思えないようなことを言われ、咄嗟にそうだっけととぼけようとした言葉を白い喉が呑み込む。とぼけたって目の前の存在は騙されてくれないだろうし、イデア自身、その自覚が嫌という程あったからだ。
     フロイドとの関係の成立時点でイデアにあったのは好意や恋情ではなく妥協や打算で、取りあえずの平穏のために暴風みたいな後輩をコントロールしようとしたに過ぎない。その為に多少の譲歩や我慢、嘘にならない程度の誤魔化しを今まで大量に並べ立てては来たけれど。“好き”なんていう、自分に向けられていることが未だに信じられない熱量で浴びせられる言葉に同等のものを返すことは、イデアにはどうしても出来ないでいた。
     それは、自分の想像よりも遥かに純粋で真摯な想いを向けてくる人魚に決定的な嘘をつきたくないからだと。ずっとそんな風に考えていたし、真実そうであったはずなのだが。
     馬鹿みたいな好奇心に塗れた疑問への答えを得て、自分の中にあるなんて思ってもみなかった暗い歓びに触れて。流石のイデアも、気付かないでいることはもう出来なかった。
     それを口にしたら認めざるを得ない感情が、いつしか自分の中で育ってしまっていることに。そうして認めてしまったら最後、訪れる忘却に耐えきれなくなるのが嫌で怖くて、考えることすら避けていた現実に向き合わざるを得なくなってしまった。
     どんなに長くても卒業までの関係、それも適当にあしらって終わらせるだけの関係だったはずなのに。フロイド・リーチはたった数ヶ月の間に、イデア・シュラウドにとってそれぐらい大切な存在になってしまっていたらしい。
     飽きもせず付き纏ってくるフロイドにキレて、「僕の言うことを聞くっていうなら付き合ってもいいよ」なんて偉そうに言い放ったあの時。予想外にあっさり同意されてしまい、どうせ最後にはみんな忘れるんだからとそのまま関係を始めた自分が心の底から恨めしい。それなのに同じぐらい、その浅はかさに感謝している自分もいるのだから、本当に愚かで下らなくて手に負えなかった。

    「まー先輩が最初はオレのこと怖がってウザがってたのも、今はけっこー気に入ってくれてるのも分かってるから別にいーんだけど。でもさっきの、先輩のこと忘れたオレが弱ったら嬉しいってヤツ、先輩にしてはスゲー強烈な告白じゃん? だからウレシーって思っただけ」
    「……ちょ、ちょっと待って、」

     先程の仄暗い歓びを孕んだ懺悔が告白にカウントされているのも驚きだが、それ以上に聞き捨てならないことを言われた気がして、イデアは一旦ストップをかける。付き合い始め当初の自分がフロイドを怖がりウザがってたのはまあ、隠していなかったので伝わるのも当然なのだが。段々と絆されている自覚はあったものの、どうやらそれ以上の感情を抱いてしまっているらしいと先ほど自認したばかりの現実を、目の前の存在は気づいていたというのだから驚愕せずにはいられなかった。

    「ぼ、ぼくの感情とか、な、なんでそんなことわかるの……」
    「わかるよ〜、先輩の匂いを嗅げば」

     咄嗟に内容の否定も忘れて投げかけた疑問への答えは、やはり種族の違いを痛感させられるものだった。

    「ヒトが怖いとか嫌いとか考えてる時って血の巡りが悪くなって体温下がるから、匂いも分かりにくくなんだけど。最初はオレといるとガチガチにこわばってた先輩の体も最近はけっこーあったかくなってきたし、匂いもイイ感じにふわふわ〜ってしてきたからさ~。だから聞かなくても、先輩がオレのことちょっとずつ好きになってくれてるの分かるんだよね」
    「ふ、ふわふわ?」

     それってどんな匂いなのさと聞きたくなるのを、イデアはグッと堪える。ほんの数十分前までなら「条件呑むっていうから付き合ってはいるけど、拙者がフロイド氏を好きとかあり得ませんわ〜」と笑い飛ばせただろう指摘を、今は聞き流すので精一杯なのだ。これ以上この話題に深入りするべきではないと、彼の危機回避能力にはあまり期待出来ない、なけなしの本能が告げていた。
     だがこちらがそう思っても、一種の告白をされたのだとご機嫌で笑う咬魚が同じ考えだとは限らない訳で。

    「ホタルイカ先輩の匂いは、先輩がオレのこと全然信じてなくて好きでもなんでもなかった時からぜーんぶ覚えてるから。だからさぁ、心配する必要なんかねーんだよ?」
    「……心配って、僕が?」
    「うん。もしオレが先輩のこと忘れても、匂いで自分の番だってちゃんと分かるし。またすぐ好きになるのはムリかもだけど、自分が番にしてたヤツが気にならないワケねぇし。ちょっとでも興味持ったら、なんも覚えてなくたってオレはまたホタルイカ先輩に恋するから。だから先輩はなに勝手に忘れてるんだってブチ切れながら、速攻でオレのこと殴りに来てよ」

     いやそれ絶対に拙者が返り討ちに遭うパターンじゃん。そう言おうとしたはずなのに、イデアの白い喉は沈黙したままだ。代わりに頬を熱いなにかが滑り落ちた気がして、思わず顔に手を伸ばす。濡れた指先の感触に、なんだよこれと思った視界がまた滲んだ。

    「感動してくれんのは嬉しーけど。あんま泣かないでね、ホタルイカ先輩」

     濡れた指先を優しく握られて、青い睫毛に縁取られた瞳からまたひとつ涙が零れ落ちる。嬉しさと悲しさで痛む胸に、ああこれが嫌だったんだよと、他者との深い関わりを避け続けてきた天才は己の愚かさを嘆く。
     匂いを嗅げば思い出す、ではなく。記憶が無くなっても再び恋に落ちると、手を伸ばすべきではなかった恋人はそう言ってくれたのだ。それがどんなに嬉しいことなのか、いずれ忘却の河を渡るこの人魚には一生分からないだろう。
     だが、それでいいのだ。頼むからこの絶望を永遠に知らないでいて欲しいと、運命に縛られた青年は祈るように希う。

    「……変なこと聞いてごめん。でも、ありがと」

     いつものパーカーの袖で涙を拭って、イデアはフヒヒと笑う。自分の質問や涙をフロイドがどう受け取ったかは分からないが、普段から人魚に関する疑問をあれこれぶつけていたのが功を奏したのか。どういたしまして〜と笑う人魚が、特別なにかを気にかける様子はない。
     どちらにしても、事情を知らない者が冥府の番人の真実に辿り着くことはないだろう。例えその一端に触れたとしても、すべては忘却の河に呑み込まれるだけのことなのだが。それでも定められた刻限まではこのままでいたいと、ずっと触れるのを恐れていた他者の温もりを感じながらイデアは思う。

    「今日はアズールとジェイドが夕飯作ってくれるんだって〜。だから、もー少ししたらモストロにいこ?」
    「……まあ、みんな戻ってくるのは明日だし、今日ぐらいはいいか。二人も安心させてあげないとだしね」
    「やったー! 先輩が今日帰ってきてくれるって言いに来た時、オレの好物と先輩の食べられそうなもの作って待ってるって言ってたから、ちょー楽しみ」
    「え、フロイド氏が好きなのってたこ焼きとかだよね? いきなりそんなの食べて大丈夫なの?」
    「全然へーき。フツーにお腹すいてきたし。でも今はご飯よりも先輩の匂いの方がいいから、もーちょっとこーしてる〜」

     拙者は抱きまくらか?という勢いで、足ごと絡ませてきたフロイドの腕の中、もともと食が細い&不眠不休のダメージが残っているイデアは“病み上がりのたこ焼き”というワードにひっそりと胃が重くなる。だがまあ、この自由気ままな人魚にはやはり元気一杯な姿が似合うので 。満足するまでは大人しく抱きまくらでいるかと、すっかり自分より体温の高くなった長躯に身を委ねることにした。
     スンスンと鼻を鳴らす恋人にやっぱり少し落ち着かなくなりながら、イデアも鼻から深く息を吸い込んでみる。人魚や獣人が感じるものとは違うかもしれないが、それでもああこれがフロイドだと思える匂いが鼻孔をくすぐった。
     この匂いを自分はいつまで覚えていられるのだろうかと、微睡みに誘われながらイデアは思う。今までは切り捨てるように忘れることを前提に、出来るだけ記憶に留めないようにしてきたものたちに少しだけ手を伸ばしてみようかななんて、チラリとでも考えてしまった自分が可笑しかった。
     それでもせめて、自分の残り香がこの可哀想なほど一途な人魚を苛む間ぐらいは、自分も苦しむことが許されるのかもしれないと。多くの人にとっては絶望にしかなり得ない可能性を、青い炎は大事に大事に抱きしめる。
     眠りの底に落ちる瞬間、夢現に伸ばした手を掴んでくれた温もりは。嘆きに塗れた冥府の番人には不釣り合いなほどに穏やかで、暖かい陽だまりのように優しかった。









    *************************

    あとがき的なもの。

    ご覧頂きましてありがとうございます。
    そんな訳で6章中編1の配信後、特にレテの河を受けて色々もだもだ考えたことを吐き出したくて書いたものです。レテの詳細が来ていないので、現時点での私なりの精一杯をふんわり捏造しまくりました。

    学園をぶっ壊したり戦闘&誘拐したり好き放題なstyxのやり方含め、レテの河がどういったシステムで今回のstyxの干渉を無かったことにするのかまだ分からないのですが。もし時間逆行とかではなく、5章でマレウスが魔力でやったような物理的修復を魔導エネルギーで行う&記憶干渉のようなものであれば、番の匂いの記憶みたいな亜人種特有の本能的なものは残る可能性があるんじゃないかなぁ、と思いまして。

    もしその辺りに抜け道?があるとするならば。たとえレテによって記憶の改ざんがなされても、もう絶対に自分の匂いなんて覚えてないでしょって思ってるイデアと、記憶にない番の匂いが忘れられなくて実は探し続けてるフロイドが将来なんらかの形で再会すれば、二人の物語は続くんじゃないかなーとか、続きが来る前に思う存分夢見てみました。
    (歴史から秘匿された冥府の番人であるというイデアの根本的な問題は解決してませんが、その辺りは今後の展開を見ながら捏造していきたい所存です)

    機会があればこの二人を幸せにしてあげたいので、そんな未来の再会が可能な感じに6章が終わってくれないかな~とひっそり願いつつ。ドキドキしながら続きが来るのを楽しみにしていようと思います。
    お願いだから早く続き来てくれー!

    それではここまでお付き合い頂きまして、本当にありがとうございました!


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