「モクマさん」
モクマの肩に隣人の重みが優しくのしかかる。男の広い肩へ頭を預けた相手は手元のどぶろく豆乳割りの水面を吐息で揺らしていた。
「んー?」
肩に滑り落ちてきた絹糸のような髪に触れる。キューティクルを逆撫でても今宵のチェズレイは何も言わない。
肩に触れる頬は火照ってて、人肌を感じて心地よかった。
美味しいお酒と相棒との愉快な会話の効果で今宵の晩酌も幸せな時間である。テーブルの上のつまみも片付いたし、瓶に残ったお酒ちゃんもわずか。晩酌相手の瞼もくっつきたがっている。
そろそろお開きにしてベッドに行こうかな、と考えていた矢先、チェズレイが口を開いた。
「ねェ、モクマさん、あれ食べたいです」
「どれ? 持ってくるよ」
モクマからしたら少食で美食家で食への執着の薄いチェズレイが「食べたい」と強請る物珍しさに負けた。好きな子のお願いは何でも聞いてあげたいし。
「フフ、あれです」
「あれじゃ分からんよ、お前さんじゃあるまいし」
モクマの肩の上でチェズレイがくふくふ笑う。控えめな振動がモクマの胸を高鳴らせた。
「あなたが私に教えた『罪の味』です」
コンロに水を張った片手鍋を置き、火にかける。沸騰を待つ間、テーブルを片しておく。
「チェズレイ、決めた?」
再びコンロの前へ戻ると、チェズレイがモクマへ袋麺を差し出してきた。頬を紅く染め、両手で手渡してくる様は、ラブレターを緊張した面持ちで渡す女学生のようにも見えたが幻覚だ。
酔っ払っているのと、相棒が可愛らしいのが悪い。
沸騰したお湯の前で袋を開く。黄色い乾麺を取り出し、湯へ潜らせる。
パッケージには『ギュウッと濃厚醤油味』というタイトルと共に牛の絵が描かれていた。
「ギュウッと牛(ギュウ)ね。お前さんも好きだねえ」
モクマの背中へ引っ付いてきたチェズレイへ言う。酔ったチェズレイは肩でも背中でも手でもどこかしらモクマとくっついていたがるように思えた。心の中で清らかではない水がふつふつと沸き立つが、我慢する。
「えェ、好きですよ、モクマさんのことが」
熱々の水が鍋から吹きこぼれた。
「おわわわわ」
慌てて火を弱め、箸で麺をほぐす。
モクマの肩口から鍋を覗くチェズレイは「あーあ」と他人事のように嘆息していた。
おじさんのせいかな?これ。
麺が茹で上がったところでコンロの火を止める。
普段ならばパッケージに従って深めの器にスープを入れてお湯で溶いて麺や具材を盛り付けるのだが、今モクマがオーダーされているのはそんな正規な作り方ではない。
粉末スープの封を切る。「どこからでも切れます」と書いてある側に切れ込みを入れるが、手が滑ってしまい切れない。少し上に指をズラしてもダメ。袋の「どこからでも切れます」と沢山並んでいる文字が憎く思えてきた。
「何を遊んでいるんです」
少しムッとした声と共にモクマの手からスープの素が引ったくられる。チェズレイが綺麗な指を使って封を切った。
そして、そのまま鍋の上で袋を傾けた。サラサラとした粉が湯に溶けて濃い茶色の海を作る。
「うーん、いい匂い」
箸で軽くかき混ぜる。
「もひとつ足しましょう」
チェズレイの声にモクマも賛同した。
冷蔵庫を開けて取り出したるは生卵。片手で割ってそのまま鍋へどぼん!
ラーメンの温度でゆっくりと白身が固まってくる。
モクマはにっこり笑った。
「いっちょあがり!」
片手鍋を持って先程まで晩酌していたソファへ戻る。
チェズレイと隣り合って座り、箸を取った。
ひとつの鍋の中のインスタントラーメンを二人でつつき合う。同道して幾年、幾度も重ねた晩酌の中で行われるひとつの楽しい儀式だった。
初めはモクマが独りでこっそり作ってキッチンで食べていた。ところがある日、チェズレイに見つかった。1ヶ月洗ってない洗濯物を見せた時以上に目玉がこぼれ落ちちゃいそうなほど目を見開いていたのが印象深い。モクマは苦し紛れに、一口どう?と薦めた。チェズレイの目が好奇心を隠しきれていなかったと言い訳する。あの日もお互い大分酔っていた。
「えい!」
半熟の卵の黄身をモクマの箸が突き破った。トロリと溶け出した黄身が麺に絡みつき、舌の上で濃厚なスープと共にハーモニーを生み出す。
「やあ〜、呑んだ後の〆のラーメンは格別ちゅうか、なんちゅうか……」
モクマがほお、と息を吐いた。
垂れ下がる髪を耳にかけ麺を啜るチェズレイが笑って同意する。
「こんな夜半に食べるには明らかに消化に悪く、塩分も取りすぎるというのに美味と感じる甘美な誘惑に抗えない。まさに罪ですよねェ」
呑んだ後に食べる〆のラーメン――それこそがモクマの教えた『罪の味』だった。
「はは、おじさんのせいでどんどん悪い子になっちゃうね、お前さん」
「元から悪い子ですよ。悪党ですのでェ」
「違いない」