痛みをごまかさないで◆
痛みで目が覚めた。
「……――」
チェズレイは違和感を訴える左側頭部を天井へ向けて、窓へ視線を向ける。モクマと共に選んだ薄緑色のカーテンの隙間から鈍い光が薄く溢れている。その光の奥から窓ガラスを不規則に叩く音が聴こえた。
(あァ……雨か)
「……っ」
雨雲を呼ぶ低気圧によって血管が収縮し、古傷周辺の感覚神経が昂ぶっている。
雨や雪の日になると特に痛むのが左側頭部だった。正確にいえば、昔銃で撃たれて重傷を負った左目付近。
この傷を作った原因たる幻影を追い求めて執着に身を焼いていた頃ならば、傷の痛みが復讐の炎に薪をくべてくれて有り難いとすら思っていた。だけど、彼への執着を手放した今、この鈍痛は煩わしいだけだ。
チェズレイは普段より時間をかけて上体を起こし、窓とは反対側へ身体を捻った。
ベッドサイドチェストには頭痛薬が仕舞われている。銀色のフィルムに包まれた錠剤を一回分、手に取ろうとして、チェズレイはベッドルームに水がないことに気づいてしまった。
視線を下に向ける。円筒のゴミ入れの中には空のミネラルウォーターのペットボトルが潰された形で捨てられている。その奥には丸められたティッシュが緩衝材のようにボトルを包む形で入っていた。
チェズレイは頬に血が昇るのを感じた。
布団に包まれたままの下半身に緩く火が灯る。それは、左目の膿んだ熱とは真逆のものだった。
心を傷つける鋭い痛みとは別種の熱だ。心を開放しトロトロに熔かす甘やかな熱だ。つまり、モクマに散々愛された後の熱が燻った。
昨晩、寝落ちる前の記憶が危ういが、どうやら自分はモクマに促されてペットボトルの水を飲み干したらしい。
「はあ、……」
薬を手放し、チェズレイは再びベッドに背をつけた。
灰色に染まった天井をぼうと見上げる。
頭痛は引かない。雨音は強さを増している。
今日の予定はなんだったか。
その前に早く起きなければ、とチェズレイは思った。さもなければ、日課であるトレーニングや朝シャワーを終えたモクマが起きてこないチェズレイを心配してこのベッドルームへ飛び込みかねない。何でもないという顔をして、朝ご飯を用意せねば。こちらは全く食欲など沸かないのだが。
頭痛を誘発させる雨模様は変わりそうにない。鎮めるための薬も重い頭を引きずって部屋を出なければ飲めない。
となれば、チェズレイに残された抵抗の道は――自己催眠。己に「頭痛はない」と暗示をかけること。
「…………――」
チェズレイはベッドに横たわっている右腕をゆっくり持ち上げた。深く息を吸う。
「おはよ〜、チェズレイ」
ノックと同時にドアを開けて、モクマは寝室へ入った。両手が塞がっていたので肘でドアノブを押し下げて足で扉を押す行儀の悪さだったが、咎める声はない。
ダブルベッドの真ん中には、こんもり布団の小山ができていた。モクマが起床する前、ベッドの半分で仰向けになって行儀よく眠っていた愛しい人の身体は、小山の中にすっぽり隠れている。
両手に抱えているお盆をベッドサイドチェストへ置く。一番上の棚が一度開かれた形跡があった。
「……よいしょ」
モクマが勢いつけてベッドへ尻をつける。高級メーカーのマットレスのスプリングは、モクマの質量にも音を上げない。小山に振動が伝わって、掛け布団の山頂が揺れた。
そこへ手を伸ばし、毛羽立ちのない滑らかな布地の感触を確かめながら「一日中雨の予報だって、憂鬱だねえ」と語りかけた。
「駅前のコーヒー店まで走りたかったんだが、この雨で断念したよ。明日晴れたら一緒に行かんか。お前さんが気に入ってた銘柄の豆、入ってるって」
もぞもぞと小山のてっぺんが地殻変動を起こす。岩戸が開くまでもう少しかなとモクマは思った。
「…………昨夜は、無理させたね。おじさんのくせに抑えがきかんくてすまん」
小山が崩れた。布団の端から白い腕がニョキっと生えて枕を鷲掴みにする。続いて、錦糸に包まれた丸い頭が現れた。長い髪の隙間からじとりと睨まれる。
「その物言い、気に入りませんねェ……」
「お、やっと顔見れたあ。おはよ」
「……おはよぅございます、モクマさん」
チェズレイが上体を起こす。丸い肩から掛け布団が滑り落ちていった。
「私が布団に籠城している理由が昨夜のあなたとの行為によるものではないと知っていながら、自分に非があると言う体の心ない謝罪。不愉快です」
モクマは肩を竦めて小さく笑った。
「そうかい。お前さんの不調の理由に利用しちゃくれんかと思ってだったんだが」
「……頭痛が酷くて、策を巡らす気になれませんでした」
やはり、チェズレイは頭痛を抱えていた。
毛布を引き上げてチェズレイの肩にかける。左肩から手のひらを滑らせて背中を撫でてやると、チェズレイは目を細めてほうと息を吐いた。
「しんどいかい?」
「いいえ、今はマシです」
「そう」
モクマはチェズレイへサイドチェストの上のお盆を指し示して言った。
「紅茶淹れてきたよ、飲まない?」
チェズレイは数度瞬きをしたのち、思案げに視線を落とした。断られるかと思ったが、顔を上げた彼の顔は柔らかく微笑んでいた。
「いただきましょう」
「ほいきた!」
蒸らし終わった急須を傾けて、陶磁のティーカップへ琥珀色の液体を注ぐ。青白い蔦模様のカップをチェズレイへ手渡した。
「ありがとうございます」
両手でカップを挟んだチェズレイの喉仏が二度三度上下するのを見守った。
モクマも目の前のカップに口を付ける。ハーブティーは飲み慣れないが、高級な味がした。こいつは確かに薬効高そうだなと思った。
隣のチェズレイが目を瞑る。ギリッと奥歯を噛みしめる音が聴こえた。頭痛の波に意識を攫われたのだろう。
詰めた息を吐く彼へ優しく声をかける。
「薬、いるかい?」
サイドチェストの上段に頭痛薬が仕舞われている。そこへ手を伸ばすと、チェズレイが「結構です」と言った。
「薬ならば今、処方されましたから」
「ん?」
ハーブティーを飲み干したチェズレイが微笑む。
「こちら、ディルのハーブティーですね。ディルには消化機能の向上、利尿効果、それから鎮痛効果があります。民間療法として幼児の夜泣きを宥めるのにも使われるのだとか」
「へえ〜そうなんだねえ」
軽く返事をすると、チェズレイが目を眇めて見つめてきた。昨夜の色香を感じさせる紫色の熱視線に焼かれ、モクマの心拍数が上昇する。
「あなたがそれをどこで知ったのか、今は追求するのはやめましょう。今晩あたりエリントンへテレビ電話を繋いだら分かりそうですがね」
もう殆ど分かってるじゃないの。モクマはたはは、と苦笑いした。
「へへへ」
「なにが可笑しいんです?」
「んにゃ、お前さんが痛みを誤魔化さないでくれて嬉しいよ」
チェズレイとミカグラ島を出て2年が経った。最近のチェズレイは素直だ。
激痛をおくびにも出さない、痛覚を自己催眠で切る。そんな姿を見てきた。過去の経験から人を信じられず、人に頼れず、弱みを見せられないから平気な顔の仮面を貼り付けるしかなかったのだろう。頭痛だって同道したばかりの頃も隠れて薬を服用していたに違いない。チェズレイが頭痛持ちなのをモクマが知ったのは3ヶ月前なのだ。
だから今、不調を素直に申告してくれることが嬉しい。隠し立てなく、素の姿を見せてもらえることに幸せを感じる。
頭痛の原因はファントムに裏切られた時に撃たれた傷跡が疼くからだと知ったときは、モクマの中でファントムへの怒りが湧き上がった。
だが、この傷が生まれた悲劇があったからこそ、自分はチェズレイと出会えているのだ。彼自身も傷を隠すどころかメイクを入れて華々しく飾っている。傷に負けない彼の強さが眩しい。ゆえに、仇敵につけられた傷さえも彼の一部として愛おしく思える。
そして、彼をあらゆる苦しみから己の手で守りたいと強く思う。
モクマの慈しむ視線に耐えかねたのか、チェズレイがモクマから視線を外した。
「フ……、痛みに悶え苦しむ顔が好みですか? そんなご趣味があったとは……さすが下衆」
「なしてよ。俺は好きな子の苦しむ顔なんて見たくないだけなのに」
「……」
真顔になってしまった。それどんな感情?とからかいたい気持ちをぐっと我慢する。
チェズレイからカップを受け取り、横になるのを促す。雨はまだまだ止みそうにない。差し迫ってる仕事もない。今日はゆっくり休むが吉だ。
説き伏せるとチェズレイは「そうですねェ」と呟いてベッドに横たわった。
「痛みもはんぶんこ出来たらいいのにね」
いつかに食べたスティックアップルパイみたいに綺麗に半分に割れたらいいのにと思う。
苦しいことは半分に、楽しいことは2倍に。分け与え合う関係でありたい。
「お望みならば、催眠で同じ苦しみを与えましょうか?」
チェズレイがいたずらっぽくクスクス笑った。
「ちょ、それ2倍になってるからね」
「フフフ……冗談ですよ」