目の前に広がるキャンバスを彩るのは、白と黒の2色だけ。
光も通さない夜闇の黒。
足を囚える雪原の白。
天と地の境界を曖昧にするのは灰色の吹雪。
「――………」
深夜の雪山を歩み進めるひとつの影があった。
ヴィンウェイの夜行列車から飛び降りたモクマだ。雪深い高山を列車の進む方向とは逆側へ向かって突き進む。下半身全体で雪を掻き分けながら、目を凝らす。
「……!」
モクマのまだ踏み入れていない地面に穴があった。穴から手前へ引きずるようにして伸びるミミズ腫れのように盛り上がった雪は、モクマ以外の人間が通った跡に違いない。モクマを置いて先に雪原へと逃げてしまった男の存在証明へモクマは飛びついた。
雪原の中、真っ白なキャンバスに引かれた黒い線を辿ろうとモクマは足を持ち上げた。
びゅううううう。
あっという間に黒い影は目の前で真っ白に塗りつぶされた。
「……ぐぅっ……!」
目の中に氷の粒が入ってしまって、モクマは反射的に目をとじる。
酷い吹雪だ。凍てつく風と凍える厳しい寒さに身が竦む。強い向かい風に息も満足に吐けない。山の全てがモクマの行く手を阻む。
人を寄せ付けない自然の厳しさと対峙し、頭をよぎるのは相棒の安否だった。大傷を負っている彼がこの白黒な世界で息が出来ているのか心配だった。否、あの黒穴のところで力尽きて倒れてしまっているかもしれない。
膝が埋まるほど深い雪に足を取られながら、黒い影を見つけた場所へからがらたどり着く。
「はぁっ……はっ、はっ」
青白い雪を掻き分ける。掘っても掘っても現れるのは冷たい雪の塊のみ。それも吹雪ですぐに埋もれ、掘った端からかき消える。地面を掘るモクマの身体にも容赦なく雪が吹き付ける。このまま雪の塊となって地面との区切りがなくなってゆくようだ。
「っ………はぁ、………」
――こういう大自然を前にするとね。 本当は、なんにも区切られてないんじゃないかと感じるよ。世界も、人も
大自然の前では人は等しく無力だ。
無敵の武人と恐れられる人間でも、雪の中に消えた大切な相棒一人すら見つけ出してやれない。
「く、………っ………はぁ」
――ただっぴろい自然の中にいると、自分がかき消えるような感覚があってね。存在ごと呑み込まれるようで、気が安らいだもんだった
休まるどころか焦燥から鼓動はずっと騒ぎっぱなしだ。
モクマの身体は吹雪に見舞われて雪だるまになっていく。自分の個としての存在が雪原の中の木と変わらなくなる。
昔は自然の一部になって、自分という境界がなくなることに憧れていた。昔の自分ならば、今の状況は生を諦めるに丁度良かった。
だけども、今は勘弁願いたい。
(どうか吹雪よ、止んでくれ)
掻き消さないでくれ――夜行列車から飛び降りた相棒が歩き進んだ道の跡を。
雪で埋めないでくれ――命の炎を苛烈に燃やしながら生き急ぐ男の身体を。
手が震える。寒さにかじかみ、雪をかくスピードが遅くなる。大分掘り進めたが、人が埋まっている気配はない。
ここではないのか。
「くっ………雪が……」
吹き付ける雪に再び目を潰された。防衛反応から目尻に涙が浮かぶ。
吹雪によるモザイク模様の景色が更に滲んで映った。
「……ん?」
目元を擦る。
掘り進めた場所から少し外れた奥側、木の根本に黒い影があった。
モクマは立ち上がり、雪を踏みしめながら影へ近づく。
モクマの目頭から暖かな涙が滑り落ちた。
「……………。チェズレイ」
吹雪よりも静かな男の吐息が、愛しい存在の名前を呟く。
モクマは膝をつき、チェズレイの上に積もる冷たい雪を払いのけた。
白黒の世界の中で青白く輝く命を掘り起こし、抱き起こす。血の気が引いて蒼白なチェズレイの顔を自分の胸へ押し当てて横抱きにし、モクマは立ち上がった。