サクラ、サク。 うす曇りの空の下、桜の花びらが舞っている。
旧校舎裏に広がる桜並木を歩いていたダイは、音を立てて吹き抜けた花風に顔を上げた。ふだん人けがなく陰鬱な雰囲気をまとっている建物群も、新学期を迎えた今はどこか華やいで見える。大学構内だけではなく街中の桜が一斉に芽吹き、色づいて、辺り一面ピンク色に染まっているためだろうか。ダイ自身もいつになく夢見心地だった。足元が定まらず、ふわふわと漂った気分のままで落ち着かない。
ダイはほうっとため息をついた。雨が近いのだろう。浮ついた気持ちを抑えたくて吸い込んだ空気は、蜜のように重く肺に絡んだ。
「おー、ダイじゃねえか。どうしちまったんだよ、ふぬけた顔しやがって」
背後からかけられた呆れまじりの声には聞き覚えがあった。ゆっくり振り返ると、思っていたとおりの若い男が立っていた。腰まで届く銀髪を揺らして歩み寄り、気安い様子で肩を並べてくる。
「よぉ、いま帰りか?」
「うん。ヒムは仕事帰りかい?」
アイスグレーの作業着姿に目をやったダイに、ヒムは鷹揚に答えた。
「まぁな。直帰でいいって言われてるから、このままあがるつもりだ。せっかくだ、景気よく花見酒とでもいくか」
おまえも二十歳になったんだろ?
そう言いながら、男はグラスを傾ける仕草をしてみせた。ダイは引きつった笑みを浮かべた。
「誘ってくれたのは嬉しいけどやめておくよ。ヒムに付き合ってたら体がいくつあっても足りないし」
うわばみ、ザル、ワク。
大酒飲みの別名すべてを欲しいままにする男は、引っ越しや解体・電気配線工事、さらには要人警護から犬の散歩まで手広く事業展開する運送会社に勤務している。体力勝負の仕事に従事しているだけあって、よく食べ、そしてよく飲む。警察官という職業柄、大食漢と酒豪を見慣れている父ですら、彼の旺盛な食欲と底なしっぷりに目を丸くしたほどだ。ダイも酒には強そうだと言われているけれど、まるで勝てる気がしない。
「それに、早く帰ってごはん作らなきゃ」
すると、ヒムの動きが止まった。「へえ……?」と意味ありげな呟きとともに、唇の片側だけを器用に歪めてみせる。
「そいつは残念だ」
ちっとも残念そうではない口ぶりを警戒し、距離を取ろうとしたが失敗した。むしろ逆効果だったのか、肩をガッと掴まれ引き寄せられてしまう。そして、銀髪の男は焦るダイの耳元に囁いた。
「聞いてるぜ、あいつと同棲し始めたんだってな。幸せボケしてるのはわかるが、がっつきすぎて壊しちまうんじゃねーぞ?」
「……そんなことしないよ」
強がってはみたが、実は自信がなかった。
ダイには年上の恋人がいる。名前はポップ。長い片思いを経てようやく手に入れた愛しい人だ。もちろんとっくに身体を繋げているし、将来の約束だって交わしている。院生となった彼の利便性を考えて、大学近くでの嬉し恥ずかしルームシェア生活――同棲というと、ポップが何故か真っ赤になって殴ってくる――もスタートしている。まさにこの世の春を謳歌している状態なのだ。これで浮かれずにいられるわけがない。
それに、ポップがかわいすぎるのもいけないんだ。
女の子とは違う、少し硬くてかさついた唇。指先が触れるだけで色を帯びる頬やとろりと甘く蕩ける瞳は、いつだってダイの理性を試してくる。まだ照れがあるのだろう。先へ踏み込もうとすると、するりと逃げるのも良くない。そうかと言って、嫌がっているわけではないから質が悪い。なんだかんだ言ってもダイには甘く、いやだ、やめろと言っても本気で拒否することはほとんどなかった。それをわかっているからこそ、ダイもつい、うっかり責め立ててしまうというわけで。
「なーんて言ってもしょうがねえか。てめえら、ヤりたい盛りだもんな」
すべてを察したヒムは声もなく笑うと、ぱっと両手をあげてダイを解放した。
「んじゃ、またな。たまには事務所に顔見せろよ。ハドラー様やシグマもお待ちかねだからな」
「ハドラーはともかく、シグマには会わせたくないなぁ……」
「ハハッ、伝えとくぜ」
軽く片手をあげて、ヒムはダイを抜き去った。風になびく銀色の髪が、薄桃色にぼやけた景色へ溶け込んでいく。その背をぼんやりと見送っていたダイは、舞い散る桜花の向こう側にあり得ない姿を見つけた。
「ポップ!?」
「……おう」
最愛の恋人、ポップだった。桜の幹にもたれていた彼は、心なしか気まずそうに頬をかいている。
「どうしてここに?」
ダイは目を瞬かせた。今夜は研究室の歓迎会があると言っていたから、先に帰宅して夜食を準備しておくつもりだったのだ。マトリフ研究室期待の新人として大いに飲まされて帰ってくると予想していただけに、喜びよりも戸惑いが先に立つ。ダイとの時間を大切にしてくれるのは嬉しいけれど、新しい環境、人間関係に馴染むことだって同じくらい大切だと思うから。
「いや……その、師匠にとっとと帰れって追い出された。研究室は独り身ばかりだから、一人だけ浮かれたヤツがいると調子が狂うってさ。まあ、師匠なりに気遣ってくれたんだろうけど」
「へへっ、マトリフさんらしいや」
それにしたって言い方ってモンがあるだろ、とブツブツ呟く姿すらかわいくてたまらない。
想いが通じ合ったばかりの頃、「なんでオレなんだよ」と問われたことがある。そのときは「気づいたらおまえしか考えられなかっただけ」と答えたけれど。今だったらわかる気がする。
ポップと出会う前も、ダイは幸せな子どもだった。家族からの愛情を疑ったことはないし、友人たちにも恵まれていた。学校生活も順風満帆そのものだったと思う。ただ、いつもほんの少しだけ物足りなさを感じていただけで。
そんな日常を変えたのがポップだった。ありふれた風景がまばゆく光り輝いて見えた。通いなれた通学路や商店街にたくさんのワクワクが詰まっていることを知った。ちょっとしたいたずらだって、ポップと一緒だったら何も怖くなかった。
ポップと、ポップを取り巻く空気そのものが好きだ。ポップが好きなもの、好きな人すべてを大切にしていきたい。ポップにとっての一番がダイであれば震えるほど嬉しいけれど、たとえ選ばれなかったとしても変わらず思い続けていくのだろう。だって、おまえはおれに新しい世界を見せてくれた人だから。
ダイは足取り軽く駆け寄って、ポップの隣に並び立った。
「ポップ、手を出して」
「あん? なんだよ、急に」
首を傾げるポップに向き合って、ダイは右手を差し出した。怪訝そうにしつつも、素直に握り返してくれる恋人に笑いかける。五年、十年、二十年。百年先であっても二人ともにいられますようにとの願いを込めて。
「これからもよろしく」