煙に抱く 人が一人で生きることは難しい。社会の中で生きるとなれば尚更だ。口にするものは他人が作り、身に纏うのは他人が作り、他人が作った軒下で雨を凌いで他人が作った道を行く。その向こうにはさらに他人がいて、どこまで行っても人の波は途切れることがない。ごくごく狭い箱の中の荒波を煩わしく思って育った福沢諭吉は、せめてその枠を崩そうとする一人であったが、人垣そのものは変わらぬことを骨の髄まで承知していた。
何しろ、自分という個人より前から人は手を繋いできたのだ。たった一人の人生くらいでどうにかなるものではない。故に、面倒な社会儀礼だとか付き合いだとかは最低限こなしている。気が合う人間と過ごす時間は大歓迎だ。無論大概の人間が自分と同じように過ごしているだろう。だが――
「おや、あなたでしたか」
横浜貴賓館の廊下で出会した人物に、諭吉は思わず一段高く跳ね上げた声を発していた。己でも意図せぬ声色に、羞恥で頬が赤らむ。全く理性が働かなくて困ったものだ。相手の隠し刀はこちらの失態など丸わかりだろうに、なんら揶揄うことなく手を振り近づく。さりげなく、だが親密な距離で立ち止まる男に頬を緩ませるも、ふわりと漂う香りに諭吉は疑念に駆られた。
「会えて良かった。てっきり、江戸に出ているとばかり思っていた」
「ええ、昨日までは江戸に。今日からはしばらく、こちらで行わねばならぬ職務がありまして……その」
「どうした?」
あなたに会えて嬉しい、という言葉通りの感情が浮かぶ瞳に、諭吉はうっと口をへの字に曲げた。あまりにも純粋至極な情人に、自分の俗っぽい猜疑心は相応しくない。確かに彼はいざとなれば一端の役者もかくやと言える嘘も平気でつける人間であるものの、自分に対しては常に誠実であった。やましいことをすれば(まだされていないが)、恐らく自分はわかるだろうという自負もある。
「Best friendよ、近々また来てくれるか。この国を離れるまで、可能な限り言葉を重ねたい」
愚かながらもまとまろうとする言葉を口に出そう、とした瞬間に鯨のように太く豊かな声が遮る。見れば廊下の先、隠し刀が出てきたばかりの部屋からかのマシュー・ペリーが現れたものだから諭吉はまたもや唇に糊が付いてしまった。あの黒船の、米国提督がどうして気さくに情人に声をかけるのだろう。
「無論だ。熊おやじ、良かったぞ」
「ふ、話の分かる奴だ」
隠し刀もいたって当たり前のように受け答えしている姿が衝撃的で、さらにはペリーがなんとも切なげで愁いを帯びた表情を浮かべるものだから当惑は一段と深まるばかりだ。自分の知らない場所で、どうやらこの国は随分開かれたものになったらしい。
「あなたが煙草を嗜むとは知りませんでした」
ペリーの背中を見届けると、諭吉はとうとう当たり障りのない台詞を零した。彼らの友情であるとか、よりにもよってベストフレンド(『一番の親友』を意味するくらいはわかる)と呼ばれるような仲であることは怖気づいて詮索できなかった。
「ああ、マシューは葉巻が好きだからな。葉巻を吸って、ビリヤードをしながら話すことが多い」
隠し刀の返事に、諭吉はああと少しばかり理解を示した。先ほどまで二人が過ごした部屋は、シガールーム、和訳するならば喫煙室である。だが、ただ煙草を吸うだけの場所ではない。西洋では会食の後に女性は食堂に残り、男性は皆シガールームに移動する習慣があると聞く。そこで男性陣は、政治や経済の話、あるいは同性同士の俗っぽい会話を酒と煙草と共に楽しむのだ。公的な社交場に、地位あるペリーと隠し刀が出入りするのは、組み合わせはさておき自然な話であるように思われた。
周囲をさっと見回し人気がないことを確認すると、諭吉はそうっと隠し刀の胸元を嗅いだ。甘く、苦く、火が燻ぶった香りが漂う。これまで一度も情人から香らぬ匂いに、諭吉はまるで他人を前にしているような気がしつつあった。こんな男を、自分は知らない。他人が食い散らかした残り香を吸えば吸うほど、彼が遠のいてゆくように感じられるのは自分が狭量だからだろうか。
「あんまり可愛いことをしてくれるな」
「あっ」
己の気持ちを持て余して思考の海を彷徨っていると、ぎゅうと抱きしめられ首筋に軽く口づけが落とされる。ほんの僅かな触れ合いだけでじわじわと熱が高まり、胸がいっぱいになった。そっと耳元に唇が寄せられ、相手の呼気を感じる。逢瀬を彷彿とさせる行為は否応なしに諭吉をかき乱していった。
「マシューからは、米国の話を色々と聞いているんだ。片割れが渡った場所というのもあるが、お前が行く先を知りたくてな。……妬いたか?」
「……妬きました」
過去に一度認めたために、拗ねた感情はつるりと零れ出た。くっくと隠し刀が笑うと、かぷりと耳を噛まれる。今度こそ叫びそうになる口を慌てて手で塞ぐと、ようやっと囲いから解放された。
「言っておくがな、諭吉。私は全部に妬いているよ」
お前を魅了してやまない世界に。とどめの殺し文句を吐かれてしまえばぐうの音も出ない。完敗だ――こんなに嬉しい気持ちになって、満たされてしまって心底悔しい。どうしっぺ返しを食らわせてやろう。
「すまん、時間だ。明日会えるか?」
「え?はい。恐らく大丈夫かと」
じわじわと温まった空気は、唐突に打ち切られた。ベストから懐中時計を取り出し時刻を確認すると、隠し刀がきりりと顔を引き締める。常々彼は時間に正確だと思っていたが、なるほど西洋の時計を持っているのであれば道理だった。恐らく――誰ぞが彼に贈ったのだろう。情人の性格からして、自ら贖うとは思われない。
「また明日な」
「ん」
猫を相手するように諭吉の頬を手の甲で撫で、するりと隠し刀は去ってゆく。何をしに出掛けるのか、もっとここでゆっくりしても良いではないか、などと言えなかった言葉がぐるぐると胸の内でとぐろを巻いて、諭吉は大いに顔をしかめた。気持ちよさと気持ち悪さと、全部がぐちゃぐちゃになって吐きそうだった。
子供であれば泣いて、喚いて、そうしてすっきり流せたかもしれない。だが諭吉は大人になって久しく、手を差し伸べてくれる相手のない立場である。甘えてばかりはいられない、だがどうしても甘えたくて、諭吉は顔をくしゃりと歪めた。
いっそ、隠し刀が人間でなければ良かった。大事に懐中にしまって、あるいは誰にも見つからないように隠して、最後には壊すことさえ欲しいままにできる。彼は自由な人間だ――だからこそ、心惹かれてやまない。
「僕は我儘なんでしょうね」
人と人は繋がるものだ。たったそれだけの道理では、この心はちっとも割り切れない。隠し刀も妬いてくれると知ったことがせめてもの慰めと言えるだろう。どうして今夜、彼は自分のものではないかと悶々としつつ、諭吉は仕事に戻った。欲しいものは勝手気ままに離れてゆくというのに、世間のしがらみは到底振り切れそうになかった。
子供っぽかっただろうか。にやつきそうになる顔をぎゅっと引き締めながら、隠し刀は気配を殺して小さなお宮近くの藪にしゃがんでいた。ここで失敗すること三度、もう後がない。相手には既に自分の手の内を殆どさらしてしまっている。里で鍛えてきた経験が嘘のように通じない相手を前に、早く決着をつけたいという気持ちで頭は一杯だった。
一杯なのだが、諭吉は別腹である。頭なので別頭と言うべきか。偶然出会った諭吉の顔が、生真面目なものからぱっと明るくなり、緩んで、ついで口を尖らせたり拗ねたり、千変万化する様は極上の癒しだった。ペリーに見えないようにさりげなく阻んだが、隠し切れたかどうか怪しい。熊おやじはなかなか食えない人物なのだ。
素直に悋気を露にする彼に、たまには自分からも言ってみたいと口を開いたらば、ついついこの世の全てを疎んでしまった。遥々海を渡って未来を拓こうとする相手に相応しからぬ邪さである。それをどう捉えたかの答えは、目の前の問題が邪魔をして果たせなかった。
ちりん、と寂れたお宮に澄んだ鈴の音が鳴り響く。ハッとして現実に帰ると、隠し刀は目を凝らした。参道に小さな影が揺らめいている。一歩、二歩、少しずつ近づく音に合わせて藪の中を移動し、お供え物の前でくつろぎ始めたのを見届け――
「よしよし」
柔らかな三毛猫をすくいあげると、う゛ゃあ、と可愛らしさのかけらもない抗議の声が上がった。ついで、暴れだす相手に焦らず匂い袋を嗅がせる。花橘のうっすらとした柔らかくも爽やかな甘さが漂うと、三毛猫は不意に全体重をこちらに預けて喉を鳴らした。どうやら合格したらしい。
「流石に主人の香りは覚えていたか。安心したよ」
この三毛猫はただの猫ではない。匂い袋の主・薄雲大夫が愛する猫であり、随一の警戒心を抱く聡い猫である。人間であれば隠密に向いていたことだろう。ただ人に可愛がられるだけの生き物ではない。初回で逃げられ、二度目は引っかかれ、三回目はあと少しというところで鋭い一撃を顔に食らって往生しかけていた。これでは隠し刀の名が廃る。
悪戦苦闘の末、素直に薄雲大夫に相談したところ、彼女が助けになればと渡してくれたのがこの匂い袋だった。慣れ親しんだ香りの名前は『花散里』、なんとも切ない名称である。商売人として徹底しながらも、ごくわずかに綻び出る太夫の人らしさが隠し刀は好ましいと感じていた。
すっかり手なずけることに成功した三毛猫を抱いたまま、逃さぬように岩亀楼に連れてゆく。将来は自分の下で働いてもらうのだが、まずは飼い主との再会だ。藪の中で幾分服が汚れてしまったものの、薄暗くなった今の頃合いでは夜が良いように隠してくれるだろう。
ちょうど入口のあたりに着いたところで、建物にぽつん、ぽつん、と蛍のように灯が点り街が動き出す。うら寂しかった石畳には偽の桜吹雪が散り、ほっかむりをして身分を隠した客たちが格子戸越しに美人を見比べる。裏手で白魚のような手足をさらしているのは若衆の類だ。三味線に月琴、小太鼓の音が高鳴る心臓を囃し立てる。
偽物の街が本物になろうとするこの瞬間は何度見ても興味深い。人が化粧をするように、街も化粧をするのだ。
「旦那様、今日はとうとう?」
「ああ。汚名返上だ」
番頭新造の声掛けに応ずると、太夫が仕事に行くまでまだ間があると請け合ってもらえた。いつも概ね思う時に会えるので忘れてしまいがちだが、彼女はこの港崎で最も名を馳せる太夫である。日々引っ張りだこの彼女の僅かな自由の一部になれているのは、ひょっとするととんでもない名誉なのかもしれない、という考えが隠し刀の頭をかすめた。
「隠し刀の旦那がいらっしゃいましたよ」
先導する番頭新造が障子戸を開くと、途端に腕の中の猫がぬるりと抜け出る。さながら水のごとく自由な動作で、隠し刀は猫の可能性にまたも驚かされた。
「主さん、ようおいでなんした。ほんに、見つけてくれなんしたえ!ありがとうござりんす」
「お前がくれた匂い袋のおかげだ」
「どこかで野垂れ死んでしまったやもと、わっちは心底、心底心配したんでありんすよ?帰ってきてくれなんして、どんなに嬉しうござんしたか」
こちらの言い分はどこへやら、太夫は猫にかかりきりで返事もない。猫は満足げにごろごろと喉を鳴らすばかりだ。仕事人としてあるまじき事態だが、隠し刀は『友人』として微笑ましく眺めていた。彼女だって人間なのだ、たまには息抜きが必要だろう。
しばし和んでいると、はたはたと戸を叩いて番頭新造が顔を出す。どうやら終わりが来たらしい。すっと表情を仕事向けのそれに変えた薄雲大夫に合わせ、隠し刀は腰を上げた。
「礼は次の機会にもらおう。……私の下でもしっかり働いてくれよ?」
にゃあ、と今度こそ猫は愛らしい鳴き声を上げた。猫も猫を被る時をきちんと理解しているらしい。
「主さん、お待ちを。良うござりんしたら、こちらを使っておくんなんし。この子も主さんに懐くでありんしょう」
渡されたのは、猫と共に返した匂い袋である。まんざら嫌な香りでもない。ベストの内ポケットに忍ばせると、隠し刀は幻の賑わいを後にした。
夢を見ている。諭吉は、ぼんやりと自分が置かれている状況を把握しようと試みた。現実ではないと解りつつも、起きる謂れは特にない。寧ろ居心地の良ささえ覚える。どこか見知らぬ場所の高台で、自分はどうやら茶を飲んでいる真っ最中だ。小ぶりな白い花が爽やかな甘い香りを放ち、橘だろうかと推察する。
高台にある茶店は他にも客がいて大層賑やかだ。きゃらきゃらという甲高い声は、年若い女性の集団だろう。やけに派手な柄の振袖で、ややもすると花魁ではないかと錯覚されるような作りである。旦那衆がそれを煙草を吸いながら眺めつつ、くだらなくも評定をしている風だった。下卑た笑い声に眉をひそめると、その集団近くの床几に見慣れた姿を見つけて目を剥いた。
隠し刀だ。自分の夢に出てくれるだなんて、相当参っているなと思いつつも嬉しい。情人に夢枕に立ってほしいと願う人は、古今東西引きも切らない。声をかけよう、あるいはかけられるまで待とうか。男は悠然と葉巻を吸って、煙をふかして遊んでいる。一度も見たことがない場面なのだが、やけに現実的で様になっていた。観てみたいという密かな願望が夢に駄々洩れになっているのだろう。夢でなければ危ないところだ。
無意味に何かを強請るのは、一体どこまで許されるのか。瀬踏みをしながら、少しずつその範囲を広げても尚、諭吉はこの海に溺れることを恐れている。大海原よろしく隠し刀はいつも迎えて入れてくれるのだが、ふとした時に不安になるのだ。
「あの、」
声をかけよう、とした矢先、隠し刀はやおら立ち上がる。ついで現れた相手に向かって盛大に葉巻の煙を吹き付けてくっくと笑った。煙に巻かれた相手は抗議をしていても、隠し刀は上機嫌に肩を揺らすばかりである。誰だ。そんな顔で接するだなんて、どういうつもりだと喚きたかった。そうこうするうちに隠し刀はこちらに背を向けて、相手と去る風である。口ごもっている場合ではない。すう、と大きく息を吸って諭吉は懸命に叫んだ。
「行かないでください!」
「ああ。ここにいる」
「え?」
やけに生々しい声に、諭吉は束の間夢と現実との区別を失った。都合の良い話なぞあるわけがない、だが夢であれば辻褄が合う。おまけに子供のように頭を撫でられるものだから、諭吉は迷うことなくその手を掴んだ。前髪は乱れるままに任せ、欲するがままに形を楽しむ。手で触れ、頬に摺り寄せ、指を食む。ずっとこうしてみたかったのだ、と一本一本を舐め上げながら己の中の欲に向き合った。誰かに奪われる前に、全部自分で平らげてやりたい。そうすれば、少なくともずっと自分と一緒には違いないのだ。
当初されるがままであった指は、一応意思を持っているらしく諭吉の舌を引っ張り、口蓋に侵入して暴こうとする。歯列をなぞられるだけで背筋がゾクゾクと震えた。歯の尖った先で噛んだらば、一体どんな味がするだろう。抗いきれない欲望からやんわりと歯を立てると、嗜めるようにコツコツと歯を叩かれた。ただでは転んでは起きない隠し刀らしいやり口に胸が満たされる。ここまで夢は自分に応えてくれるものだったのか?しばし指をしゃぶって、諭吉はようやっと夢と現実の区別がついた。ハッとして虜囚を離すも、恥ずかしさでどうにも顔を上げることができない。手で顔を覆いつつ、隙間からチラリと相手を見上げるのがせいぜいだ。
「す、すみません!まさか現実だとは思わず、はしたない真似を」
「現実だったら、してくれないのか?」
つつ、と指が動いて諭吉の壁を剥がそうとする。己の涎でてらてらと光る様がなんともいやらしい。渋々ながら求めに応じて覆いを払うと、情人の顔が行燈の光の中でもよく見えた。
「家に帰ったらお前がいるだけでも嬉しいのに」
悪戯な指が諭吉の頬を突く。分が悪いのは重々承知しているので、ただ黙って枕がわりにしていた上かけに顔を埋めた。すると逃げるのを許さない、とでもいうように顎を持ち上げられて、自然相手と真正面から見つめ合う体勢にさせられる。
「私の服に縋って眠ってくれただなんて、幸せだ」
おまけに夢でも求めてくれた、とうっとりした声が続く。一体どこから見られていただろうか。夢現で自分は何を喋ったのか?
「……明日、あなたに会えるとわかってはいるんです」
わかっているのだが、どうしても堪らなくなってしまった。当てはないけれども帰る足でそのまま隠し刀の長屋に赴き、誰もいないのを良いことに玄関先に『危険!薬物実験中につき立ち入り禁止』の札(この便利なものについては最近教えてもらった、いつから用意されていたのだろう)を置いて立て籠ったのである。ただ待つだけはつまらなく、主人のいない家で煙草を長々と吸い、板の間に放置された上かけに煙が流れる様を眺めていた。こんな風に煙に抱いておけたなら、彼はいつでも自分を思い出してくれるに違いない。
「ですが、僕は今日のあなたも欲しい。いけませんか?」
しまいには情人の上かけを抱きしめて眠ってしまった。僅かに残る彼の香りを探り当てた時の安心感は今も続いている。ようやく本物が手に入る――しかしその期待はこちらに本物が近づいた瞬間に裏切られた。爽やかな、あの夢の中で漂う甘やかな橘の香りが鼻をくすぐり、さあっと腹の底まで冷える。こんな匂いのする彼を自分は知らない。反射的に腕を突っぱねて相手との距離を取ると、諭吉は混乱する頭を叱責した。他にやりようがあるだろう。求めた先からの態度に、さしもの隠し刀も不満げに眉を歪めている。自分たちの間に流れた空気を思えば当然の反応だ。
「どうした、諭吉。何かお前の気分を害することをしただろうか」
「あなたは誰といたんです。こんなに他人の匂いが移るほどずっとそば近くにいて、何をしていたんです?正直に話してください」
まだ今ならば話を聞くことができる。一方的に相手を軽蔑して突き放さず、未練がましく縋ることもせずに済む。必死に理性をかき集めて座り直すも、自分の顔から血の気が引いていることだけは知れた。手袋の中で嫌な汗が浮かんでぬるつく。隠し刀は、と言うと少々驚いた風だが寛いだ姿勢にピンと芯を入れたような緊張感を帯びた。不吉な兆候だ。まさか彼は、とうに自分の手の届かぬ場所に行ってしまったのだろうか?
「疑わせて済まなかった。原因は恐らく、これだ」
「匂い袋、ですか?」
隠し刀がベストの内ポケットから取り出したのは、雅な端切れで縫われた袋だった。渡されるままに嗅げば、確かに女性を思わせる果実の香りが諭吉を揶揄った。自分よりもぐっと距離が近く、肌身離さず共にいたことを主張されているような心地で、いっそ炉で燃やしてやろうかという衝動が体を襲う。理性を総動員して愚かな行いを重ねぬように堪えると、諭吉は体を強張らせながら忌々しい他人を持ち主に返した。
「以前に話したかもしれないが、ここにいる猫は私の飼い猫ではない。頼まれて探したり、預かったり、あとは……働いてもらったりだな、そういう関係にある」
「不思議ですよね。猫があんなに人の言うことを聞くとは知りませんでした」
いつぞや遊びに来た際、ちょうど入れ替わるようにして猫の集団が長屋をぞろぞろと群れをなして去ってゆく場面に出会したことがある。すわ夜逃げかと慌てるも、隠し刀は夕方になれば戻るとまるで取り合わなかった。実際後日諭吉が訪ねた折には全員揃って庭先で寛いでおり、安堵しつつも猫という生き物にちょっぴり畏敬の念を抱いたものである。
「まあ、中には当然あまり懐かない奴もいる。これはその時のためにと、飼い主がくれたものだ」
飼い主の香りがすれば多少は言うことを聞くだろう、と隠し刀は説明しつつも、どこか浮かない様子だった。
「……どうしましたか?」
「うん」
待てど暮らせど言葉は続かない。ただ、彼は黙して立ち上がるなり徐に身につけていたものを脱ぎ出した。相変わらず官能さのかけらもない、遠慮会釈ないやり口で諭吉は目のやり場に困ってしまう。他人の、恐らく女性の匂いを纏うベストが剥がれ、シャツも乱雑に脱ぎ捨てられる。カシャン、と音を立てたのは彼が他人にもらった懐中時計だろう。ずるりと脱皮したズボンから香るのは、昼間の葉巻の名残だ。靴下が家族を追いかける。下着一丁になった隠し刀は縁に手を掛け止まるも、布切れ一枚を残して正座した。
「諭吉と話すのも触れるのも、私だけが良い」
「あ」
言葉こそ不足しているが、諭吉にとって必要な全てが答えられていた。じ、と見つめる瞳が懇願するのはただ一つ、自分の赦しである。首輪などない、誰よりも自由な存在だというのに隠し刀の様子は飼い犬同然だった。恥も外聞もかなぐり捨てた、ありのままの弱さを眼前に差し出されて目頭が熱くなる。良い歳をした大人二人が雁首揃えて為すには、あまりに稚拙で必死な行いだが、笑うことはできそうにもない。ままならなさからため息をこぼすと、びくりと隠し刀が体を震わせる。他罰的な気分で無視すると、諭吉は立ち上がり、そば近くに置いたままの上かけを男に掛けてやった。
「風邪をひきますよ。全く、あなたって人は突拍子もないことをするんですから。落ち落ち餅も焼いていられませんね」
「この匂いは……?」
「僕の煙草ですよ」
腰に挿した煙管入れからするりと煙管を取り出すと、諭吉は思わせぶりにそれを吸う真似だけして見せた。途端、わかりやすくも隠し刀が破顔する。表情筋が機能していないのではないかと疑われる男とは思えぬ、満面のあどけない笑みにぎゅうと心臓を鷲掴みにされて自然呻いてしまう。自分がしでかした子供っぽい欲を心地よく受け入れられて、舞い上がらずにいられる人間がいたらば教えて欲しい。
「諭吉の匂いなら良いな。ずっと嗅いでいたい。……そうだ、諭吉。前から見てみたいものがあったんだ。私の前で、煙草を吸ってくれないか?お前が人の前であまり吸わないことは知っているんだが、」
お前の煙に抱かれてみたいんだ、と流し込まれる声は艶っぽさを帯びている。それだけで腹の奥底にカッと熱を孕み、諭吉は相手を恨めしく思った。今日の彼を拒んだのは自分だ――どうして今更抱いて欲しいと強請れよう。理性を取り戻せた悲しみで、諭吉は情人の甘えを受け入れることに決めた。だって、彼が求めてくれるのだ。自分が想うと変わらぬほどの気持ちが嬉しくて、恐らく自分のために用意された煙草盆を引き寄せる。簡素だが楓をあしらった意匠に自惚れなければ愚かというものだろう。
「なら、よく見ていて下さい。あなたなら、遠慮は要りませんね」
「応とも」
可能な限り扇状的に煙管を弄った意味が通じたか、その答えは明日まとめて聞くとしよう。再び冷えた灰に火を入れ、刻み煙草を詰めた煙管を近づけ、すう、と火を移す。熱を感じたらば深く吸って吐き出した。煙は自然、正面で待つ情人にまともにかかってしまうものだから、構えていたとはいえ男はゴホゴホと咳き込む。これは罰で、褒美で、慰めだった。二口、三口。日本煙草の残念さは、どんなに間をもとせようとも三度がせいぜいで一区切りするところだろう。
水に流すでなしに、全てを煙に抱き込んで煙に巻く。煙が目に染みたか、潤んだ隠し刀の瞳の端に口付けると、諭吉は今日を手放すことを赦した。
〆.