秋遠からじ 朝の空気が一段と冷えるようになって、香りからも冬の訪れが近いことをひしひしと感じさせる。晩秋も終わりに近づき、あれほど横浜の街を賑わせていた色とりどりの木々は葉を落とし、寒々とした木肌をなす術もなく晒していた。落ち葉をかく人々だけがただ忙しい。そうして掃き清められた道にいずれ冬が訪れ、雪が全てを覆うだろう。貸布団屋に夏布団を返しに行く道すがら、隠し刀は世の移ろいを新鮮な面持ちで眺めて目を見張った。
「秋が、終わるんだな」
至極当然の自然の摂理である。これまでも幾度もの春を、夏を、そして秋やこれから来る冬を延々繰り返し眺めていた。季節は人間がどうこうするものでもなく、ただただ流れてゆく川にも似ている。せいぜい農作物やこんな布団の交換の目安くらいでしか見ておらず、花見の楽しみさえ我関せずであった隠し刀だが、横浜で迎える初めての秋は格別に去り難く、また引き止めたい心地にさせていた。
瞼を閉じれば、道という道を埋め尽くした紅葉の数々が思い浮かぶ。黄、赤、時折染まり切らずに落ちてしまった緑は自然が織りなす街の装束だった。瞼を開ければ、それらはすっかり姿を消して寒々しい。自分も人並みに季節を感じることがあるのかと驚き、ついで何故かを己に問う。答えは考えるまでもなく明白だ。今や季節とはただの記号ではなく、楽しみを知る多くの人々と共有するものへと変わったからだろう。自分と同じ方向だけを見ていた片割れと感じるそれとは違う――世俗の眼差し。
紅葉狩りと称した宴会で、燃え盛る山を見たのは坂本龍馬や桂小五郎を始めとした長州藩の面々である。葉の一枚一枚、とりわけ楓に目を向けさせてくれたのは福沢諭吉だった。彼はこのなんということもない葉を気に入っているそうで、植物の一つ一つは効能以上に意味を見出せるものなのかと隠し刀を驚かせた。去り行く時は次々と思い出を呼び起こし、たった三ヶ月にも満たない時間を埋め尽くす。思い出は別れを前提としたものだと言っていたのは誰だろう?アーネスト・サトウから聞いた千年ほども前の過去が今になって腹落ちする。
離れ難い。されど、季節を繋ぎ止める術などない。人も、いつかはそうなってしまうのか、と思った瞬間に強烈な拒絶が込み上げて吐きそうになった。布団を乱暴に抱え直して布団屋でふかふかとした冬布団へと取り替えるも、すんなりと季節を受け入れ衣替えをしようと思えず、せっかくの布団は長屋の隅に等閑に転がすに任せてしまった。
「嫌だな」
思い出をさらに辿ると、不思議なことに幕府の直轄領に足を踏み入れたばかりに目にした、一つの景色が鮮烈に浮かび上がった。山を背にした巨大な庭園を擁する寺に迷い込んだ時のことである。雨風を凌ぐために軒先を借りるだけのつもりのはずが、本堂をぐるりと取り巻く赤や黄色に染まる木々にハッと息を呑んだのではなかったか。木は木、葉は葉、寺はただの寺、されどもっと深いものがこの胸に届いた心地だった。
顧れば、あれは自分という”人”が始まる入口だったのかもしれない。思い出は不確かなままに強化され、あの日目にした色たちが瞼の裏で踊る。胸を押し上げてゆく感情に深く息を吸って、吐き出す。それでも出しきれず、隠し刀はどうしようもなく誰かと分かち合いたくなった。
無論、誰に会うかは既に決まっている。『今』、共に思い出を作りたい相手を胸に抱き、隠し刀は横浜の街へ繰り出した。
「遠出するのは初めてですね」
馬の背に揺られ、諭吉は常に見ない高さから望む景色を楽しんでいた。同じく馬で並走する隠し刀はぼうとしていたが、情人の声に現実に戻ったらしく、声はなくとも目元に柔らかな皺を刻んで応える。たったそれだけの仕草でぐっと胸が熱くなり、己の心に吹き荒れる嵐を抑えきれなくなってしまうのだからたまらない。彼と出会って、まだ二ヶ月を過ぎるほどにも関わらず、諭吉は己が戻れぬ場所まで来たことを日々痛感していた。人生に打ち込まれる縁の深さは、時間の長短に遠慮などしないらしい。
横浜の外国人居留地を抜けて南へ、南へ。海を左手、山を右手に朝早くから駆け出すと、陸を縁取る街道の活力を全面に浴びた。どこまで行っても人、人、人。荷を運ぶ人、旅人、飛脚に馬喰。古くは鎌倉に幕府が置かれた時代に端を発する街道筋では、生命が絶え間なく活動していた。心地よい潮風が上着を揺らし、キラキラと輝きを増す海が変に眩しい。どこで見たって、自然は同じ物質から成り立っているだけに過ぎない、と切り捨てるには惜しいほど景色は表情を変えゆく。山々は衣替えを始めたらしく、心を湧き立たせてくれた紅葉はまばらとなって全体がすかすかしている風だった。
「目的地はもうすぐだ」
そろそろ昼だから、と用意周到な隠し刀は徳利と重箱の包みを示して励ましの声をかける。辺りの風物詩を読み取る様が、退屈しているように受け止められたのだろうか。先だっての件もあり、どうも自分は男に途方もない酒好きだと見込まれている節がある。猫にまたたびであるまい。大真面目な様子の相手に唇を尖らせると、諭吉は確りと釘を刺した。
「心外です。何もお酒がなくたって、僕は喜んであなたに同行しますよ」
「違いない」
迷いなく返す隠し刀の声には嬉しさが滲んでいる。揶揄いのタネにされず、ありのままの自分を受け止められる柔らかさがくすぐったい。遠出の申し出にどれほど自分が舞い上がったか、きっと彼には見透かされているだろう。ついで、自分から誘えばよかったという悔しさも。次は絶対に自分から声をかけよう、と諭吉は強く決意した。遠方より横浜に辿り着いたばかりの彼よりも、自分の方が周辺地域に明るいという自負がある。好んだ景色、文物の一つ一つを思い返し、朴念仁に見せてやりたいという欲が膨らんだ。
浜辺が美しく暖かな磯子をさらにくだれば、鎌倉に将軍がいた頃の名残が強い、古風な街並みがちらほらと見え始める。金沢の街だ。特段用のない郊外であるため、諭吉も足を踏み入れるのは初めてだった。ここに来て馬首は山へと向けられ、緩やかな坂を上がる。小高い丘の上にこんもりとしつつも手入れされた森が見える、と覚えた時には目的地に辿り着いていた。どうやら道の先には大きな寺か神社があるらしく、参道のように出店がずらりと並んで出迎えてくれる。風車がカラカラと山から吹く風に一斉に応えて可愛らしい。同行者は馬を降り、諭吉にも下馬を促して馬屋に手綱を預けた。
「ここからは歩こう。上に寺があるんだ」
「随分古いお寺なのでしょうね。まるで知りませんでしたよ。わざわざ今日のために調べたのですか?」
「いや。偶然迷い込んだんだ」
隠し刀は首を振ると、訥々と彼の来し方を語った。全国津々浦々、どこともしれずに当て所なく海岸線を辿るようにして走った話で、その探し物と当て所なさに諭吉は頭がくらくらとした。西欧という茫漠たる世界に出ようと志すも、彼の無鉄砲ぶりはもはや物語の領域に達している。そもそも男の出自こそが御伽話だ。片割れ、と口にするたびに、表情の少ない顔に懐かしさが滲み出ることを隠し刀は気づいているのか、いないのか。
自分には決して入り込めない、入り込みたくはない因縁をうまく咀嚼できず、諭吉はただ迷い猫のように彷徨う彼がこの道を歩いた日に思いを馳せた。石畳を叩く音が酷く無機質に響く。ここではまだいくらか秋が尾を引いているらしく、楓や銀杏から降り注ぐ色が目に優しい。落ちてしまった過去を踏まぬよう心がけて一歩一歩進むと、ようやく終わりが二人を迎えた。
「着いたぞ」
「わあ」
丘の上でまず目を奪ったのは、見渡す限りの広い池だった。奥に古式ゆかしい、さほど大きくはない本堂が見え、背後に山々を背負っている。浄土を模した池にふさわしいのはその澄んだ水面だが、諭吉を夢中にさせたのは右から左から手を伸ばす楓や銀杏の木々だった。だいぶ葉が落ちてしまっているが、青空を映す池に庭全体が映り込み二重に世界を彩っている。池の端に程よい木陰を見つけると、いよいよ行楽気分は増すというもので、二人並んでいそいそと腰掛けた。
「もっと葉が残っている頃に誘えたら良かったな。初めてここに来た時には何も思わなかったんだ」
「どういう意味です?」
「季節は変わるだけのものだったんだ。暖かくなって、暑くなって、涼しくなって、寒くなる。服を着替えて、食べるものが変わる。私にとっては日が過ぎるのだって意味がなかった。サトウは鳥さえ詩を歌うことを知る国に居ながら勿体無い、と憤っていたよ。……今は少しだけ、その意味がわかる」
生粋の英国人と感じたことのない詩情について話す隠し刀の姿想像し、諭吉は頬を緩めた。まるであべこべだが、隠し刀には木石のように欠落した部分があるのでむりからぬことだった。彼の生い立ちから色濃く残る影は、時折背筋をゾッとさせる。その一方で、少しずつ解けてゆく人臭さや扱いあぐねる情に困惑する様は、周囲の人間を和ませてもいた。
重箱を開け、盃になみなみと酒を注ぐ。あえて言葉にせずとも阿吽の呼吸で準備を整えながら、隠し刀は珍しく長広舌を続けた。
「私は今がずっと続いて欲しいと思った。変わるものなら、全部お前と一緒に過ごせたら良いと願ってしまった。全部だぞ?……なあ、諭吉。私たちはいくつ思い出を作れるだろう」
いくつ?答えは言葉になどできなかった。隠し刀が見ようとする遥か遠くの真っ暗な未来が全ての光を吸い込んでしまって、俄かに足元がぐらつく。漫然と今が続くことを望んでいるのは諭吉自身であり、変化を共にできればと強請りたいのはこちらの方でもある。だが、思い出と言われてしまったら、それはまるで――
「終わる話なんてしないでください。僕たちはこれからでしょう」
己を奮い立たせるように口を動かし、酒を流し込む。胃の腑が熱くなって、秋と呼ぶには空気が冷えていることを改めて感じた。秋が終わる。重箱に詰め込まれた押し寿司や煮物を突き回し、葉の落ちる音に耳を傾ける。この『今』は、瞬きする間に『さっき』に変わり、色褪せて死んでゆくのだ。過去は懐かしくあっても、今目の前に広がるのはもっと違った景色であって良いと思う。黙り込んでしまった相手の横顔を見つめて、諭吉は箸を置いた。いつしか何も飲み食いせずに、ぼうと池の水面を眺める隠し刀が小憎らしい。どうにも向っ腹が立って、諭吉は膝の上に転がる彼の手を思い切り握りしめた。
「痛っ!痛いぞ、諭吉」
「痛くしていますからね。そうでもしなければ、あなたは僕がここにいることを忘れているみたいですから」
「はは」
「笑い事じゃありませんよ!」
もう一度握りしめると、今度こそ隠し刀が表情を歪める。目元から憂いが消えたのを見て取り、少なからず胸が空いた。
「いや、嬉しくなったんだ。お前が好きな楓相手でも嫉妬してくれるなんて、想像もしなかった」
「嫉妬」
「違うか?」
いつもの調子を取り戻した隠し刀が、諭吉の手を柔らかく握り返す。彼はいつもそうだ――決して自分を壊しはしない。
「そうかもしれません。嫉妬など、自分には無関係だと思っていたのですが……ふふ、これから僕はもっと様々なものに嫉妬するんでしょうね」
互いに違うものを目にすることが当たり前だと知りつつも、理不尽に羨み妬むだろう。全く理性的ではない、自分勝手な感情は長らく持て余し気味だったが、今は温もりを伴って愛しささえ感じる。くすくすと笑って隠し刀が頬に口付けてくるので、負けじと鼻に噛みついてやったらば、きゅ、と頬をつねられて心が千々に乱れた。眼前に広がる極楽浄土などそっちのけで、欲ははち切れんばかりに膨らむ一方だ。
「知っていますか?楓は綺麗ですが、家紋にするには避けられる植物なんです」
水面に散らばる葉を示し、諭吉はその形の一つ一つが似て非なるものであることにうっとりする。色、形、葉の重なり、楓の良さを讃えるに相応しい言葉はまだまだ語るに足りない。それこそ自分の情人も同じで、魅力を言い表そうとする度に別の良さを見つけてしまって追いつかない。
「どんなに色鮮やかでも全て儚く散って、必ず裸木になるでしょう。家門が衰え、途絶えることを何よりも恐れて、人は好いても形に残そうとはしないんですよ。同じく散る花はあしらっても楓が忌まれるのは、木としての形だけを残す姿が、かえって不気味に感じられるのかもしれません。考え方としては、一理あるでしょう。ですが、僕は逆だと考えています」
「逆?」
隠し刀の目が、諭吉の胸元に染め抜かれた楓をなぞる。根無草の男にとって、家を象徴する家紋は縁遠いものでもあるやもしれない。無紋で無名の人に、この楓を渡したらばと想像する。染まって欲しいと願うのは、少し我儘だろうか?
「ええ、真逆です。楓は確かに散ります。けれども、枯れるわけではありません。必ずまた葉が生えて、色づいた姿を見せてくれる。傍目には死んだようであっても、再び生き返るだなんて力強いじゃありませんか」
いわば楓が示す生き様は、仮初の死と再生だ。目の前で散る楓の葉は、来年の葉ではない。しかし楓という本質はそのまま、揺らぐことなく在り続ける。二人の関係は確かに秋に始まり、葉が色濃くなるように深くなったかもしれない。だが来る冬を怯えてどうしよう?冬の先には春や夏がある――最後に巡り来る秋が待っているのだ。隠し刀が手を握る力を強くするのに応えるように、諭吉は彼の肩に頭を預けた。
「諭吉、来年も観よう」
「ええ」
海が、時代が、引き裂こうともつなぎたい縁があるならば結び続ける努力は惜しまない。散った楓を惜しみながら、過去の上に新たに生い茂る次の楓を楽しみにしても良いではないか。
秋は存外すぐそばなのだ。
思いがけずにしんみりとした行楽となったが、傾く陽を浴びる気持ちは残光よりもポカポカと暖かい。せっかく来たのだから本堂も観ようと空の重箱と徳利を下げ、ぶらつく隠し刀はおやと小首を傾げた。池をぐるりと巡って極楽にゆく橋を渡った先、本堂前だけはぽつんと緑が佇んでいる。周囲が軒並み色鮮やかであるだけに、控えめな若緑は目に涼しく映った。
「あれも楓なのか?葉の形は似ているようだが」
「ええ。あなたの言う通り、楓のように見えますね。ですが、一本だけ色づかないというのは妙です。もう少し近くで見てみましょう」
病か、あるいは突然変異か。狐につままれた心地で二人近づくも、本堂の隣を賑やかす緑は紛うことなく楓である。枝ぶり、葉の形、全てが同じなのだが、ちらとでも色づくようなそぶりは見られなかった。まるで季節が永劫立ち止まっているかのような堂々たる佇まいは、かえって疑問を抱くこちらをたじろがせる。本腰を入れて調べる気になったらしく、諭吉は隠し刀をそっちのけで地面をあれこれ突き始めた。植物の源の一つは土だ。あながち間違いではないだろう。考察を重ねる情人に何かしてやれないか、願いはすれども己の見識は乏しい。手持ち無沙汰なままに本堂へと目を向けると、黙々と落ち葉かきをする僧侶と目が合った。運否天賦、己の勘を信じて隠し刀は声を発した。
「御坊、よければ一つ知恵を授けていただきたい」
「何なりと」
腰を低くして近づくと、僧侶のつるりとした面は遠目にはわからぬ細かな皺が漣だっており、装束も一般僧侶として一括りにするには良質な布地でできていると知れる。ならば自分たちが出会した謎の一つや二つは軽々と解いてくれるに違いない。確信を持って口元を緩めると、隠し刀は緑を揺らす楓を指差した。
「あちらの楓だけが青いままなのは、何故だろうか」
「ああ、不思議に思われるのも無理からぬ話ですな。秋冬に訪れる人は皆、あなた様のように尋ねなさる」
どうやら明確な理由があるらしい。自分からの伝聞よりも、直接聞いた方が良いだろうと諭吉を呼ぶと、何やら袂に入れてそそくさと駆け寄ってきた。十中八九、土を『拝借』したのは疑いようもない。汚れた袂をはたはたと叩いてやると、情人は悪戯が見つかったような照れくさい表情を浮かべた。頬を軽くつねってやりたい衝動を抑えると、隠し刀は僧侶に続きを促した。
「左様、この楓だけは今に限らず決して色づくことはありませぬ。代々和尚の日記を紐解くに、少なくとも数百年は青々としたままであるのは確かなようです。我らは『青葉楓』(あおばのかえで)と呼んでおります」
しゃんと背筋を正した僧侶が詳らかにしたのは、一つの伝説めいた物語である。
時は徳川の世が始まるより遥かに昔、鎌倉に幕府が置かれていた数百年は昔のこと。当時非常に高名な歌人である公卿・冷泉為相が寺を訪れたところ、他の木々が皆青い中、ただ一本のみ鮮やかにその葉を色づかせる様に目を奪われ、驚いた心を歌に詠んだ。
『いかにして この一本にしぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉』(どうしたことか。山々の中でこの木にだけ、葉を色づかせる時雨でも降ったのだろうか)
するとそれを至上の功名とした楓は、以降引退するが如く、葉を色づかせることをやめてしまった。青葉楓の始まりである。
「尭恵という僧侶が寺を訪れた折に楓の精より由来を伝え聞き、『草木にも心があるのだから、自分たちのためにも経を読んでほしい』と頼まれたという話ですな」
全くの絵空事、御伽話である。事実この逸話は謡曲『六浦』に納められているという。自分よりも遥かに科学に明るい諭吉は果たして受け入れられるだろうか。チラと横を見れば、案の定眉間に渓谷が生じつつあった。客人たちの様子に気づいたのだろう、僧侶はさらに畳み掛ける。
「得心されぬのも無理からぬこと。拙僧も小坊主の時分よりおりますが、楓の精に出会ったことはありませぬ」
存外、ただ木にも種類があるというだけかもしれませぬ、と暴露する僧侶の様子は泰然として揺るがない。恐らく何人にも同じようにして説き、様子を見ては勧進を頼んでいたのだろう。策を弄さず正直さで返す姿に諭吉も不意を打たれたのか、丁重に礼を述べて頭を下げた。相変わらず綺麗な仕草に感嘆しつつ、隠し刀も倣って頭を下げると、僧侶は箒を小気味よく動かしながら歩み去って行った。
「趣深い話でしたね」
「煙に巻かれたとも言うな」
結局答えは楓だけが知っているのだろう。青々とした葉をもう一度眺めると、御堂を参拝して帰路に着く。陽は益々茜色に空を染め上げ、参道の屋台は最後の一つを売るべく声を振り絞る。楓をあしらった小道具が多いことにいたく興味を抱いた諭吉と並んで、袋物や浮世絵を眺めているうちに、隠し刀は自分を締め上げた、あの狂おしい衝動が霧散してゆくのを感じていた。
「あ、見てください。もみじの天ぷらですって」
袖を引かれて諭吉が示す天ぷら屋の暖簾を見れば、みみずがのたくったような字で『もみぢあげ』とある。大方何かの菓子か、と店先を見るもそこには文字通り艶々と光る綺麗な葉が並べられるのみだった。狐の店でもあるまいし、葉を売る食べ物屋など本物だろうか。疑心暗鬼にかられる隠し刀を他所に、諭吉は声を弾ませた。
「上方にいた頃、箕面で口にしたことがあるんです。ああ、同じものだ。……すみません、二つください」
「兄さんお目が高いや、俺の兄貴がちょいと上方で修行した縁でしてね。はい、熱いうちに食べてくんな」
僅かに上方訛りが舌に残る店主は、諭吉の注文に応じ、慣れた手つきでさっと葉に衣をつけて軽く揚げた。油の中でしばし泳いだ葉は一層色鮮やかになり、衣を布団のようにふんわりと纏った姿は可愛らしい。紙に包んだそれを諭吉から受け取るも、紅葉を食べても問題ないのだろうかと隠し刀はまだ躊躇っていた。薬効があるらしいことは薬研ぎ向けの教えで聞き齧ったものの、生憎刀を振り回す方に専念する自分の耳を右から左に流れてしまったためにとんと覚えがない。放浪する最中空腹のあまり、美味しそうな色だからと生の葉を食べた、その不味さと土臭さだけが記憶に残っていた。
「大丈夫ですよ。ほら」
ぱりり、と諭吉がこちらの躊躇を割砕くように紅葉を齧る。一口、二口、三口。小さな秋はあっという間に口中に消え、諭吉はわざわざ安全性を強調するようにして空っぽの口をぱかりと開けて見せた。覗いた舌の色は空にも紅葉にも負けぬ紅色で、つい引き寄せられそうになって自分を押し留める。流石に今はどうすることも叶わない。あらぬ想像が働く前に煩悩を噛み砕くべく、もみじの天ぷらに齧り付いた。さくっとした食感の後、僅かに甘さが広がる。恐らくは衣に砂糖が混ぜられているのだろう。薄い葉一枚のこと、食べではなく空気を飲み込むにも似ている。自分の口は大きいものだから、たったの二口でペロリと平らげてしまってもったいなかった。秋がここに入ったのか。通り過ぎた熱を想って喉を撫でれば、諭吉がむぐ、と妙な音を発した。
「どうした?喉に詰まったか」
「……違います。問題ありません」
「ならば良いが」
どうやら彼とて聖人君子ではないということか。然程外れていないであろう推測を飲み込み、混ぜっ返さず馬屋を目指して歩を進める。どれほど楽しいと思っても今日は終わってしまう。実に寂しく、儚い。柄になく寂寥感が胸を塞いだ。諭吉の様子を伺うと、誤魔化すように天ぷらの由来について語る情人の横顔は、どう見積もっても先ほど生じた面映さを隠しきれていないようである。無邪気なことこの上ない。そっと周囲を確認すると、隠し刀は愛しい頬に口付けを落とした。
「わっ」
瞬間ぶわりと朱が広がる。時雨だ、と隠し刀はその美しさに胸を突かれた。今更ではないか、と揶揄う俗語は全て飲み込まれ、唇をもつれさせる。
「紅葉が観たくなったんだ」
すぐ隣にあるものに気づかず、自分はなんと愚かなことか。感に耐えずにそれだけ漏らすと、諭吉はしばし唇をむぐむぐとさせて困り果て、ついでくしゃくしゃに顔を歪めた。
「覚悟してください。僕だって観たいんですから」
「諭吉は楓が好きだからなあ」
「楓だけではありませんよ。わかっているでしょうに、あなたは全く」
ひとくさり続けられる文句も耳に心地良い、と言ったら益々怒られそうだ。だらしない顔で受け止めていると不意に、ねえ、と情人は顔を明るくした。
「あの青葉楓について少し考えてみたんです。草木の楓すら生き方を選べるのなら、僕たちだって自由に選べるとは思いませんか」
しがらみの中で、その枠組みを崩そうと世界を目指す男が夢に瞳を輝かせる。疑うまでもない、福沢諭吉はきっと成し遂げるだろう。あらゆる肯定を込めて、隠し刀は短く返した。
「ああ」
自分たちはこれからだ。数百数千数万の落ち葉を越えて、那由多の見えぬ色を目にしよう。その時を繋ぎたいと諭吉の肩を叩いて、隠し刀は目にうっすらと張った膜を振り払った。
〆.
補足)
横浜は山も豊富で紅葉狩りをする場所は多いものの、その殆どが明治以降に整備された公園を中心としているので(山紅葉はあったのでしょうが)、肝心の連れまわせるミッション範囲には存在せずに泣いてしまったのは悲しい思い出です。一緒に紅葉狩りをさせてくれ!
話中の称名寺は実在するお寺で、紅葉の名所であると同時に金沢文庫(鎌倉時代の文書を収めていた場所)も隣接するちょっとした観光スポットです。青葉楓もありますので(昔のものは枯れてしまったため、今は2代目)、気が向いたらばぶらりと観ても良いかもしれません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!