鹿爪 冬は、朝だという。かの清少納言の言は、数百年経った今でも尚十分通じる感覚だろう。福沢諭吉は湯屋の二階で窓の隙間から、そっと町が活気付いてゆく様を眺めていた。きりりと引き締まった冷たい空気に起こされ、その清涼さに浸った後、少しでも暖を取ろうとする一連の朝課に趣を感じられる。霜柱は先日踏んだ――情人である隠し刀とぱり、さく、ざく、と子供のように音の違いを楽しんで辺り一面を蹂躙した。雪は恐らく、そう遠くないうちにお目にかかるだろう。
諭吉にとっての冬の朝の楽しみとは、朝湯に入ることだった。寒さで目覚め、冷えた体をゆるりと温める。朝湯は生まれたてのお湯が瑞々しく、体の隅々まで染み通って活きが良い。一息つくどころか何十年も若返るかのような心地にさせてくれる。特に、隠し刀が常連である湯屋は湯だけでなく様々な心尽くしがあるため、過ごしやすい。例えば今も、半ば専用の部屋のようなものが用意され、隠し刀と諭吉は二人してだらけている。
独り身の頃は、朝湯は入れば真っ直ぐ職場に向かうだけのそっけない生活習慣に過ぎなかった。それが早起きは三文の徳どころか、至上の楽しみの一つに変えたのは隠し刀である。早く入った後の、この湯屋の二階で寛ぐ時間は長屋で過ごす時とも、他の宿屋で過ごす時とも異なる、肩の力が抜けた感覚に浸らせてくれた。誰かが急に尋ねてくるでなし、仲居に様子伺いをされるでなし、朝食も長屋で食べておいたので懸念することは何一つない。真の自由がここにはあった。
さて、普段であれば夜を過ごしても尚求めて止まずにもう一戦、と洒落込むことが多いのだが、今日の情人は別の思惑があるらしい。寛ぎの場には不釣り合いな鋏(*和鋏)を出し、手拭いの上に足を置く姿を諭吉はぼんやりと眺めてしばし思考を彷徨わせた。ほんの一瞬のことで、ピン、と答えに思い当たる。考えるや否や情人の前に移動すると、諭吉は向かい合う形で腰を下ろした。
「それ、僕にやらせてくれませんか」
今まさに爪に鋏を当てようとした隠し刀は、驚いたように手を止めた。ついで、スッと鋏を後ろに引いて逃げ出す。どんな刃物でも凶器にできる男の本能的な所作だった。
「驚いたな。私は子供ではないぞ」
「良いでしょう、あなたには何でもしたいと思っているんですから。……だめですか?」
真実である。ついで半分ほどは好奇心だ。他人の爪を切るなど、もう随分長いことやっていないし、無論やりたいとも思わない。隠し刀のものだからこそ、やってみたいという不可思議な欲がムラムラと芽生えていた。正直なところ、諭吉としては軽い触れ合いくらいはしたいと冬の冷たさから思ったのだが、滅多にない好機の方が優先度が高い。鋏を後ろに置いた隠し刀は、ふ、と口元を緩めて伸ばした脚でこちらの太ももをなぞる。察しの良い男らしい仕草に負けそうになるも、諭吉はグッと堪えて前に出た。真剣勝負と同じ、全ては呼吸である。脚の間に滑り込んで後ろを探り、諭吉は奪い取った鋏を高らかに天に掲げた。
「さ、観念してください」
「わかった、降参だ。はあ、喜んで良いのか、悲しむべきかわからないな」
「大人しくしていただければ、時間に余裕ができるかもしれませんね」
それこそ、自分も望んでいることなのだ。ただ、どうしてもと今食い下がる理由は他にもある。情人の爪を切るなど、そう滅多にある機会ではない。それどころか、諭吉は未来永劫手に入らないかもしれないのだ。海を隔て、異なる大地を踏み締めることを望むも、以降がどうなるかは誰にも思い描けない。きっと自分は日本に帰るだろう、海の向こうで得た全てをこの国のために捧げるだろう、情人にだって再び逢いたい。されど航海には危険が付きもの、罷り間違えば水の泡だ。
目の前の全てを余すところなく自分のものとしたいと願う自分は、きっと我儘なのだろう。開いた脚の付け根を見ないよう肝に銘じて、諭吉は鋏を構えた。
情人は人間である。そんな当たり前のことは出会った当初に理解していたにも関わらず、隠し刀はもう何度目かの背徳感に背筋を震わせていた。余裕があるように見せかけるため細めた目は、その実気恥ずかしさで真正面から現実を受け止めきれずにいる証だった。視線の先では、諭吉が自分の右足を膝に乗せて鋏を慎重に進めている。刃物を持ったまま自分に触れさせるなど、余人には許されない所業だと諭吉は夢にも思うまい。床屋にさえ自分の頭を触れさせやしないのだ。諭吉は自分が一人で生活するために覚えた手技だと思っているようだが、実際はより殺伐とした理由からである。
益体もないことを考えたくなるほどに、目の前の光景は毒だった。洗ったばかりとはいえ、不浄である自分の足に諭吉が触れている。その指先から穢れを移していやしないかと気が気ではない。彼には、こんなことをさせたくはなかった。逆の立場であれば簡単に飲み込めるだろうに、観音菩薩が泥の中に手を入れたような過ちを感じてしまう。しかし彼は自分と同じく人なのだから、人らしい触れ合いをするのは当然だろう。悟りから程遠い場所で足踏みをする隠し刀を他所に、諭吉は右足の小指をちょいちょいと弄って一本目の爪を切り出すと、嬉しそうに声を弾ませた。
「緊張しないで、どうか安心してください。ほら、こんなに小さな爪だって綺麗に切れるんですよ」
「諭吉は手先が器用だな」
仕方なしに返せたのは、月並みな褒め言葉である。他に適切な言葉が思い浮かぶ余裕がなかった。案の定、もつれた舌は見抜かれてしまって、諭吉がむうと唇を歪める。隠し刀は慌てて自由な左足で諭吉の脇腹から正面にかけてをゆるりと撫でた。ん、と抗う相手のくぐもった声が妙に艶めいて響くのは、自分が俗垢に塗れているからだろう。
「嘘じゃない。あんまり綺麗に切られると、自分で切るのが億劫になりそうだ」
「それは困りますね」
ふふ、と小さく肩を揺らし、諭吉が次の指へと取り掛かる。どうやら気分は上向きに修正できたらしい。自分でさっさと切る数倍時間をかけた動きは、一つ一つに綺麗な弧を描いて三日月を形作った。花魁だってこうはいかないだろう。芸術的な出来栄えと言って良い。製作者も同じ感想を抱いているのか、切った爪を懐紙の上に足の形に沿って並べるのだから可笑しい。切っただけでは終わらず、先端をやすりで研いで、滑らかに。何度も指を這わせて確認する仕草に別のものを見出しそうだ。
「さ、もう片方もやりましょう」
親指を摘んで弾くと、諭吉がちら、と不可解な視線をくれて右と左を交代させた。その一瞬を逃す隠し刀ではない。今何を見られたのだろう、自分のどこに確認する余地があると言うのか。大人しく足を委ねつつ、隠し刀は答えを己の中心に重ね、じんわりと体が熱くなった。一つきりしか思い当たるところがない。意味するところもおそらく一つだ。
芯から温め切ったと思っていたが、それでもまだ火を点ける余地があったらしい。足裏に汗をかきそうで、隠し刀は研師の顔を思い浮かべて何とか自分を鎮めた。諭吉は聡い人間だから、少しでも変化を生じれば察してしまうだろう。二人の関係としては自然な成り行きを想像するものの、隠し刀は聖域を犯す背徳感が大きすぎて持て余してしまっていた。
昨晩も、湯殿でも何ら気負いなく晒していた箇所だが、盗み見られただけで意識してしまうとは不思議な話だ。布切れ一枚の下はいつだって同じである。諭吉とて、裸でいようが浴衣を着ていようが(湯屋では寛ぐ時間を浴衣で過ごすことが二人の暗黙の了解だった)変わりない。それとも、今の彼は帷を開いた先に別の顔を見せてくれるだろうか。獣欲と純粋な好奇心の境目を彷徨っているうちに情人は手際よく作業を進め、左足の骸も懐紙に並べられた。
「どうです?上出来でしょう」
「完璧だ。一度も途切れないとは恐れ入った」
慌てずゆっくりと足をしまい込んで、隠し刀は展示品におお、と小さく感嘆の声を上げた。切られた爪という不浄のものの癖に、形だけは一級品の面構えをして見せている。こうして改めて見てみると、自分の爪は存外分厚いらしい。当たり前だがあちこちで拾った汚れもついている。やはり汚かったではないか、と隠し刀は低く呻いた。諭吉の足指であれば舐めることも吝かではない(実際舐めたこともある)が、自分の足は願い下げだった。
「ありがとう。……手を汚させてしまったな」
「何ですか、改まって。僕が自分でやりたくて選んだことです。謝られる筋合いはありませんよ」
言うなり諭吉は懐紙を畳み、当たり前のような顔をして脇に置いた。屑入れがすぐそばに位置するにも関わらず、さながら土産を取っておくような所作である。流石に見咎めて取り上げようとすると、今度は諭吉に袖を掴まれた。
「どうした、諭吉。屑入れはそこだぞ」
「そうはいきません」
存外意固地な力加減の情人に、隠し刀は大人しく引き下がった。どうせ碌な話ではない。ないだろうが聞いてみたい、と思わせる魅力がこの男にはあるのだ。人に道を踏み外させる魔性の特質と言って良いだろう。似たようなものを坂本龍馬も持っていることを思い出しつつ、隠し刀は諭吉に続きを促した。
「知っていますか?織田信長は、自分の切った爪を観ていた小姓を咎めたそうです。昔から誰かを呪う時には、その人の体の一部、とりわけ髪や爪を使ったといいますからね。方々に恨みを買っている信長は可能性を把握していたのでしょう」
いかにもありそうな話である。全くのまやかしだが詐術に使えるとして呪術をうっすら学んだ隠し刀は話の成り行きを飲み込めた。
「私に恨みを持つ人間もきっといるだろうな。心配してくれて嬉しい……いや、待て。ならば今すぐ燃やしてしまったほうが早いぞ」
「あ」
パッと懐紙を掴んで火鉢の中へと放り込む。爪が焦げる嫌な匂いが漂い、隠し刀は一瞬で後悔した。この匂いは覚えがある。家が燃えた時、里が失われた時に嗅いだ屍にも似た匂いだ。たまらなくなって障子窓を大きく開けば、冬の荒涼とした空気が部屋へと雪崩れ込んだ。寒さに負けじと汁粉屋が声を張り上げて、朝の駆けつけ一杯はどうだと行き交う人々に売りつけている。十二月だよ、と雅な名前が濁声に乗って棚引いていた。戦場とは程遠い長閑さである。ここは里ではない。街で、湯屋で、
「全く、人の話を聞かないんですから」
「すまない」
諭吉と共に居る。隣に並んだ情人の体が暖かくて、隠し刀はぎゅっと身を寄せた。
「まだ時間があればだが、汁粉でも飲まないか?あの店は美味そうだ」
「良いですね。寒い日にはうってつけです」
薄い浴衣では寒いのだろう、っくしょい、と諭吉がくしゃみをする。存外豪快な声に目を奪われると、早く行きますよ、と情人は稽古場と同じ素早い動作で姿をくらました。最後に見えた耳の縁が赤かったので、恥ずかしかったのかもしれない。何もかも見尽くした今更であっても面映さを持ち続ける諭吉を、隠し刀は素直に好ましく思った。
本当は、と思う。もしかしたら、諭吉が自分を止めようとしたのは、ひょっとすると万が一の時に自分を呪うつもりだったのかもしれない。非科学的な行為は相応しくないが、時に人は道を踏み外すものだ。縁起でもない未来絵図に、隠し刀はぶるりと全身を喜びで震わせた。他でもない理性の人が非科学的な呪術に縋るならば、それは観音様を誑し込むも同義、この世に二つとない出来事と言えよう。自分のために狂うならば、それも一つの愛ではなかろうか?
隠し刀は火箸を掴み、燃えさしの懐紙をぎゅっと火鉢の奥へと捩じ込んだ。
〆.