これは想いでしょうか。 ポケモンが人間の生活に間近になり、当たり前のような顔をして暮らすのは今に始まった事ではない。アオキも幼少期から家には二、三匹家事手伝いと愛玩動物扱いにポケモンがいたものだし、祖父の趣味は父とのポケモンバトルだった。昔気質の粘り強い、だがシンプルな戦法は祖父の背中を追いかけているのだと今更のように思う。どこにでもいる好々爺然とした祖父が、ポケモンボールを手にするやグッと気合いが入ったのもなかなか良かった。
さて、シャリタツである。ハッサクに過大な期待を持たせてしまった諸悪の根源、もといアオキの疲労の傑作は今や当たり前のような顔をしてついてくるようになった。ハッサクとのやりとりの末、弁当箱から野に放ってやった(洗って宝食堂に返すためだ)のだが、どういうわけだか鞄に入り込んでいたらしい。焼き鳥屋に行くまでのことなので、ひょっとするとハッサクが無理やり鞄に潜り込ませたのだろうか。ドラゴンというのは気が長いと一説に聞くものの、あれは蛇よりもしつこいという類と言える。
そんなハッサクが、昨夜強引に連れ出した焼き鳥屋は、空飛ぶタクシーでまっすぐ行かねばならないという紹介制の店だった。隠れ里風に作りたかったのか、田舎道の先にポツンと古民家を改築した店が佇むのも風情がある。肉良し、タレ良し、焼き加減も絶妙で、ハッサクおすすめの月見つくねはドラゴン級の美味しさという前評判通りだった。自分一人では決して入ることのない縁遠い店だけに、こればかりはハッサクに感謝をせねばなるまい。なんやかやと彼が熱く語り出し、感極まって泣くさまはいつもの通りで、周囲の人間の目も気にならなかった。
遠い別の地方から来た割には、ハッサクは驚くほどパルデア地方に馴染み、自由を謳歌しているようだった。教師としても評判が良いとクラベル校長も話していたし、芸術分野ではネイチャーアーティストで有名なコルサとの競作も期待されている。前途洋々とはまさにこのことだ。彼にはややこしい背後関係があるとはポケモンリーグの履歴書で読んで知っているが、竜の威風堂々たる佇まいには塵も同じだろう。何もかもな窮屈な、小市民的居心地の良さを確保しようともがく自分とは大違いである。
眩しささえ感じるハッサクは、どういうわけか何かと自分に対して要望を――長い説教を持ちかけたがる。端的に言えば、面倒だ。同じ四天王としてチリにも多少の苦言を呈することはあれども、年齢の近さからなのかどうしたって自分から離れてはくれない。普通で過ごしたいと日々苦労する自分にとって、靴の中に岩が入り込んでくるほどの違和感と重圧に辟易する。大概は社会人経験で培ってきたやり過ごしでかわすも、毎度そううまくは行きはしない。
「アオキ、あなたは小生にとって、煌めく原石なのですよ」
「……買い被りすぎです」
「本人の意思は確かに重要でしょう。アオキにとって、小生の提案が迷惑だということも重々承知しています。ですが、」
酔眼がとろりと揺蕩いアオキの瞳を捉える。こんな時にでも柔和な表情の奥に竜の獰猛さを隠しようともしない。カッと見開いた炎の色に、つい目を奪われてアオキはごくりと喉を鳴らした。例えていうならば、色気だ。酒気に紛れて立ち上るものに目眩を覚えた。
「小生はあなたが芽吹く様を見たいのです、アオキと一緒に、」
「一緒に?」
何をしようと目論んでいるのだろう。先々のためにも酔っ払いから情報を収集しなければと、アオキはハッサクの顔に耳を近づけた。ふう、と吐息が耳にかかってびくりと震える。三秒、五秒、十秒、もう良いだろうと口を開きかけたところで、アオキはハッサクの頭がぐらりとこちらに傾くのを慌てて受け止めた。予想に違わず鍛え上げた男性の体は重たく、潰されないように支えるのが精一杯だ。
チリを背負って帰ったことはあるが、ハッサクは流石に厳しいだろう。店主に空飛ぶタクシーの手配を依頼し、自分も別のタクシーで帰った。ハッサクの住所地は履歴書に記されていたものを伝えたので、おそらく問題はあるまい。美味しいものを食べた点では実りある一日だったが、普通の生活にジワリと不安がにじり寄ってきたような、そんな心地がしていた。
それから自宅に帰って洗濯して弁当箱を洗って風呂に入り、疲れ切りながらもポケモンの世話をして寝た。アオキの手持ちポケモンは多い。幼い頃からそばにいたポケモンも含めれば、部屋中がポケモンだらけと言っても良い。それぞれに良い餌を与えて寝床に配備してやって、一日が完結する。朝は逆の手順で始まり、また元通りになる、そのはずだった。
「スシ!」
「……なぜここにいるんですか」
悪夢は至極元気にアオキの枕元で跳ねている。薄桃色の反った姿のシャリタツは、今日は誇らしげに胸を張って自己主張を繰り返していた。ひとまず無視をし、顔を洗って歯を磨き、朝食を仕掛けてポケモンたちの世話を行う。ついでとばかりに、シャリタツにもどれが良いかはわからないから適当に餌を与えた。ムクホーク用の餌が気に入ったらしく、ガツガツと食べている。小さな体によくもまあ大量に入るものだ。胃袋が破れはしないだろうかと心配になるも、自分も他人に比べて相当に食べると評されることからして案外大丈夫なのかもしれない。
トーストに目玉焼きとベーコン、昨日道端で押し付けられたレタス(たまに自分を応援する人間が食材を渡してくるのだ)を挟んで簡単なサンドウィッチにする。隠し味は好物のピンクペッパーで、パンチの効いた刺激が体を活性化させてくれるのだ。今日の仕事を思い返しつつ、皿を片付けたらば歯を磨いて身だしなみを整え、スーツに着替える。髪型とネクタイの位置が個人的には一番重要な部分で、今日も追い求める普通を体現しており安心した。
ポケモンたちをポケモンボールに収め、スーツの内ポケットに入れてゆく。寿司、もといシャリタツが肩に乗って訴えてきたが無視だ。情が湧きつつあるも、異常値とは距離を置くに限る。行ってきます、といつものようにポケモンたちに声をかけ、家を出る。出勤時の朝の空気、人々の熱気と倦怠感と絶望とが入り混じった変わり映えのない風景が心地良い。
今日はチャンプルタウンのジムで、挑戦者の確認から始める予定だった。周辺のジム通過者から、今日到達する人間が現れそうかを予測し、いないようであればいくつか考えてあった営業に回る。四天王の仕事については適宜臨時召集されるものなので考える必要はない。自席に座ってさあノートPCを広げよう、としたところでアオキの思考は完全に停止した。
「スシ!」
シャリタツだ。なんだってここにいるのだろう。他のトレーナーが持ち込んだわけではないことくらいは流石にわかる。そう人数の多くはない部下たちは、アオキと足並みを揃えようとノーマルタイプのポケモンを手持ちにしている。事務担当者の手持ちのワッカネズミが興味津々といった様子でシャリタツに目を向けた。当然ながら、トレーナーもこちらに注目するというわけで、アオキは眉をひそめた。面倒ごとが普通の日々を崩してゆく。危うさに舌打ちしそうになり、咄嗟にため息にすり替えた。
「スシ!」
「わあ、この子、アオキさんのポケモンですか?アオキさんに似て頭が良い子なんですね」
「……勝手についてきたんです。自分のものではありません。ところで何故、頭が良いと思うんですか」
社交辞令を聞き流して問えば、トレーナーはアオキの問いかけに軽く目を見開くとあっけらかんと告げた。
「普通のシャリタツは『ワォン!』ってパピモッチのような声で鳴くんです。寿司に擬態するポケモンですけれども、自分から寿司だと主張する子は初めて会いましたよ」
「寿司なんですね」
やはりそうではないか、とアオキは心底うんざりした。自分が間違えたきっかけは、このポケモンの自己主張によるものでもあったのだ。ハッサクがまたぞろ話を持ちかけてきたらば、このことも強調するとしよう。シャリタツのことは引き続き無視を決め込み、挑戦者の予測を立てる。今日のところは、自分が居なくとも問題はなさそうだった。現れたとしても、ジムチャレンジで時間稼ぎをしてもらうとしよう。飲食店の多いチャンプルタウンでは、ジムチャレンジで挑戦者が街のあちこちを巡ることがちょっとした観光資源となっている。挑戦者も普段食べない味にも巡り会えて一石二鳥というわけだ。
「……では、営業に出ます。ピケタウンに行きますので、何かあれば連絡してください」
「わかりました。気をつけて行ってらっしゃいませ」
自分なんかに、トレーナーは至極丁寧な対応をするのだから因果な仕事である。好き嫌いで仕事をしない人間を、アオキは素直に敬意を抱いていた。自分も仕事は朴訥にこなすものだと自負している。結果がどうであれ、それが仕事というものだろう。やれることを自分が企図したままに行う。それがオモダカの思惑通りなのかは無関係だ。
「アオキさん、すみません!お客様がいらっしゃいました」
「……わかりました。通してください」
だが、普通へと軌道修正することさえ神は許さないらしい。飛び込んできたトレーナーを追い抜かさんばかりに現れた人物に、アオキはますます眉間の皺を深めていた。ハッサクだ。威風堂々という言葉がこれほど相応しい人間はおらず、四天王であることも知っているだけあり、他のトレーナーが畏怖と尊敬の眼差しを向けている。もはや日常は完全に乱されていた。ぎゅっと意識を絞って、ゆっくりと表情筋から力を抜く。よりにもよって、どうしてこの男性が現れたのだろう。
「アオキ、朝から失礼しますですよ。あなたに渡したいものがあるんです」
「……これから出かけますので、話は手短に願います」
「ああ、そうなのですか。ではこれを」
自分の懐をまさぐって、ハッサクが取り出したのは艶々とした美味しそうなリンゴだった。それも三つ。大盤振る舞いである。育ちの良い舌の肥えたハッサクのことだ、恐らく美味しいものに違いない。美味しいものは大歓迎だ。肩の力を抜くと、アオキはなんの疑いもなく受け取った。どうして今朝になって渡しにきたのかは不明であるものの、リンゴに罪はない。
「どうか大切にしてくださいね。……おや、シャリタツさんではありませんか。アオキのことを気に入ったのですね」
「そうでないことを願っています。ええと、その、ありがとうございます、ハッサクさん」
リンゴは軽食にするとしよう。仕事先で一つずつ食べるだなんてなかなかの贅沢ではないだろうか。何故だかリンゴが震えたような気がしたが、アオキはハッサクに厚く礼を述べて鞄に詰めた。シャリタツが勝手に鞄に入ったが、もうつまみ出す気力はない。モンスターボールに収めなければこちらの勝ちだ。河辺にでも出たらば放流を試みるとしよう。
「また様子を見にきます。昨晩は醜態を晒してしまい、お恥ずかしい限りです」
「……大したことではありません」
一緒に。彼が自分と一緒に何をしようと望んだのかは不明だが、アオキは次回また美味しい店に連れて行って欲しいと帳消しを頼んだ。これがサラリーマンなりの処世術というものである。教職者のハッサクが社交辞令を解するとは思えないが、美味しい店を紹介してくれることは間違い無いだろう。それに、多少騒がしいものの、彼と飲む時間は偶には良い、ほどほどの刺激だった。
アオキはまだ知らない。そのリンゴはカジッチュたちで、リンゴの中にハッサクの想いが潜んでいることを。蜜を滴らせる様に胃袋が刺激され、彼らが身を削ってくれたことに応えようとモンスターボールに収めざるを得なくなり、ついでにシャリタツも滑り込んで手持ちがパンパンになってしまうなど予想だにすまい。普通を切り崩してゆくハッサクの想いは――やはりアオキは想像だにできないのであった。