これは重いかもしれません。 竜とは確固たる意志の象徴である。故にこれと決めたことを果断に行うべしとハッサクは定めていた。思い立ったが吉日ともいう。ドラゴンの良さについて少しでもアオキにわかってもらおうと語り尽くしていたはずが、泥酔して寝こける失態を演じる羽目になってもハッサクの意志が挫けることはなかった。むしろ名誉挽回、起死回生の一手を放つは今である。
空飛ぶタクシーに揺られる中で目を覚まし、冷静に頭を動かしてからの動きは退散するコレクレーよりも早かった。空飛ぶタクシーの運転手に、カジッチュの生息地まで飛ばしてもらい、翌朝迎えて欲しいと願い出る。起きたとはいえ泥酔していた人間を置いていくなどとんでもないと粘った運転手の意見は至極真っ当だった。ハッサクとて、無謀と勇敢の違いくらいは理解している。
しかし、それでも今やってしまいたかった。この機会を逃せば、きっとアオキはつるりと自分の手の届かぬ方へと逃げてしまうだろう。あの男はのらりくらりと逃げ出すのが上手で、本気を出して戦わせるまでに自分がどれほど手を尽くしたかしれない。仕事だからと頭を下げるくせに、心の底に据えたものは頑固にも変えない。変えないために上辺を装うことができるのだ。処世術は人それぞれであるため、アオキをなじるつもりはさらさらない。ハッサクとて、親しんでもらいたい人間には親しんでもらえるように優しく振る舞うことがずいぶん上手くなったものだ。
ともかく、モンスターボールをお手玉のように操り、自分は完全に素面で問題ないと運転手に認めさせたのはもはや意地だった。根負けをした運転手が、それでは飲み物をとってきますと気を利かせてくれたのは天の助けにして祝福に違いない。アオキにはどんなカジッチュが似合うだろう?穏やかな性格か、控えめな性格か、色味が良いか大きいか、ハッサクはアオキが手に取る様を想像しながらボールを投げ続けた。コルサであれば巧みに口説いて理想のポケモンを手に入れるだろうが、ハッサクは愚直に力で語るよりない。半ば泥試合のような厳選に厳選を重ね、納得のいく三匹を手に入れた頃には朝日が昇っていた。
「お付き合いくださり、感謝しますですよ。小生は帰宅します」
「なんのためだか知りませんが、ご苦労様です。送っていきますよ」
空飛ぶタクシーの運転手が浮かべる笑顔は、ひどく純粋だった。娘があなたのファンなので、とサインをねだられたので快く書き、ついでに妻にもと求められたのにも応じる。おかげさまで心はすっかり晴れやかだった。朝日が眩しい。ふと、自分がパルデア地方を初めて訪れた際、日差しの強さに感動したことが思い起こされた。太陽はどんな地平を彷徨おうとも同じだが、不思議にも日差しの加減は異なる。パルデア地方のそれは強く、明るく、生命を奮い立たせるように輝いていた。余計なことに悩み、鬱屈しかけていた気持ちがくまなく照らし出された時、ハッサクはこの地にしばらくいようと心に決めたのだった。そして今尚、この大地に魅了され続けている。
帰宅した後は大急ぎでポケモンに餌を与えて一緒に風呂に入り、洗濯も書類仕事も(まあまだ期限は先だ)放り投げて意識を失った。ポケモンたちもぐったりと疲れていたせいか、じゃれつくこともなくみっちりと布団の周りを取り囲んだ。付き合いの長い仲間たちは、かくも察しが良い。新入りのカジッチュを腕の中に抱えると、リンゴの爽やかな甘さが鼻をくすぐった。きっとアオキはこの香りを好むに違いない。香りといえば、アオキはどんな香りを身につけているのかいつでもさっぱりとしている。
チリが言うには、近頃では男性も香水の類をつけるそうで、年嵩の人間は気を配るのだとおすすめを紹介された。あれは遠回しに別の事象を言い表していたのではないかと寝入り端に閃いたが、すぐさま睡魔に闇の奥へと引き摺り込まれてゆく。さりげなく気を使うのだとしたら、確かにアオキらしい。彼は成績が振るわずとも、曲がりなりにも営業マンという稼業を行っているのだ。確か靴底がすり減ったらばどこそこへ修理をしにいけば良いと教えてくれたのはアオキで、彼はそうやって小さな親切でハッサクの日常を照らしていたのかもしれない――
「は」
完全に意識が途切れてしばらく後、ハッサクはガバリと起き上がって壁にかかった時計を確認した。朝の七時。十分支度には間に合う。面白いもので、どんなに疲れても決まりきった時間に目が覚めるのだ。それも歳を重ねると共に前倒しになっているようだが、ともかく起きたのだから良いだろう。ポケモンたちの食事を支度し、自分用の果物を用意する。朝食には旬の果実とバナナを一本食べることにしている。旬の果実は造形を学び、季節を感じるにはちょうど良いし、授業で教える内容のヒントにもなるからだ。
髭をあたって、髪を梳かしてとワタワタしているうちに心得た様子でポケモンがスーツを一着運んでくれる。シャツにベスト、ズボンにベルト。世話をするどころかされている状態に苦笑を禁じ得ないが、今日ばかりは火急の用事があるので許されたい。そろそろ髪の毛を染め直そうか。帰りに理髪店に寄ろうと決めると、ハッサクは善は急げとチャンプルタウンに向かった。
アオキの行動は判で押したように決まっている。数年間同僚として働いてきた経験から、ハッサクはアオキの一日がこの街で始まることを知っていた。むしろ、ここで会えなかったらば次に出会えるのは運任せになってしまう。スマホロトムで呼び出したところで、アオキが返事をするとは到底思えない。業務時間中に、私的な会話を避けようとする人物だから、嘘をつかない限りは先送りになってしまう。むしろ、アオキにとってのハッサクの立ち位置が同僚でもあり知人でもある(できれば友人であって欲しいと願いたいが、現実は残酷なものだ)という微妙な状態であるだけに、都合よく解釈されて次回の会議で話しましょうと流される可能性さえあった。
もし、今回の試みがうまくいけば、もっとアオキと気楽に話せるだろうか。本来その必要はないはずだが、十分な睡眠の取れていないハッサクの頭の中はアオキでいっぱいになりつつあった。スシ・シャリタツ事件以来、この機会を最大限に活かそう活かそうとそればかり考えている。否、本当はもっと以前から考えていたのではないか。アオキと初めてポケモンバトルに臨んだ時、自分は何を感じただろう?
空飛ぶタクシーを駆使してチャンプルタウンジムに滑り込むと、些か強引とは承知しながらもアオキへの面会を頼んだ。自分の外面の良さは十二分に自覚しているが、やはり急すぎたかと懸念が過ぎるも、ジムの職員は易々とハッサクを引き合わせてくれた。安全面に少々難があるのではないだろうか。パルデア地方では凶悪な事件はそう起きないと言っても、最低限の警戒は払うべきである。次回のポケモンリーグの定例会の議題に挙げるとしよう。
案の定、当のアオキは愉快から程遠い様子だった。彼は日常を崩されることをひどく嫌う。無味乾燥とした日々が良いのだといつぞや遠い目をして語っていたものだ。ハッサクからすれば、世界は刺激だらけだというのに、どうしたらば無事でいられるのかと感動もひとしおである。アオキは恐らくハイダイが感動に打ち震えた、あの潮風に負けずに咲く花のように強いに違いない。
アオキの眉間に深い皺が刻まれ、表情筋に力がこもる。真剣勝負に応じた瞬間のように張り詰めた空気は、ほんの一呼吸で和らいだ。流石の早技にハッサクは内心舌を巻いた。緩やかな線を描く眉毛に寂しさを覚えつつも、穏やかさを満面に浮かべて声を出す。
「アオキ、朝から失礼しますですよ。あなたに渡したいものがあるんです」
「……これから出かけますので、話は手短に願います」
「ああ、そうなのですか。ではこれを」
本当はじっくり感想を聞き、押し問答をして見たいところだが、仕事があるのだから我儘は言えない。ハッサクとてアカデミーで授業をせねばならないのだ。自分の分もどうか想いを伝えて欲しいと願いながら、ハッサクは選び抜かれたカジッチュたちをアオキに手渡した。ハッとするほどすっきりとした甘い芳香が漂う。にわかにアオキの眉が緩み、グッと気分が盛り上がっていることが窺い知れた。やはり、好きこそものの上手なれという先人の言葉は正しい。あのアオキがドラゴンタイプのポケモンに興味を抱いている!思わず感涙に咽び泣きかけたところで、馴染みのある生き物が視界に映り、ハッサクは辛うじて正気を保った。
「どうか大切にしてくださいね。……おや、シャリタツさんではありませんか。アオキのことを気に入ったのですね」
「そうでないことを願っています。ええと、その、ありがとうございます、ハッサクさん」
シャリタツが懐いたのも無理からぬことだ、とハッサクは心中密かに頷いた。妙なところで素直なものだから、絡め取ろうと策を巡らせた自分が恥ずかしくなってしまう。鼻歌でも歌いそうな調子で鞄に収められるカジッチュと、滑り込んでゆくシャリタツが羨ましくてたまらなかった。アオキの上機嫌な様子を自分が拝めるのはほんの少しだが、彼らは見た目が食べ物に似ているというだけで難なく受け入れてもらえるのである。
「また様子を見にきます。昨晩は醜態を晒してしまい、お恥ずかしい限りです」
「……大したことではありません」
ここは未練がましく残らず去るべきだ、とハッサクは戦略的撤退を選んだ。今度美味しい店を紹介してください、というアオキの要望は脳裏に刻んでおこう。次はいつ会おうか。明日では気忙しないと思われそうだが、明後日、はたまた明々後日が良いのか、現時点では見当もつかなかった。ともかく第一の任務は果たしたのだから良しとしよう。次は現実に目を向けねばならない――アカデミーの授業開始時刻まであと三十分に迫っていた。
颯爽とアオキの元を去ったまでは良かったものの、結局ハッサクは一日中気になって気になって仕方がなかった。何を話しても、カジッチュを手にしたアオキの表情がどうなったのか、無限に広がる予想と想像と妄想が頭の中で猛威を振るう。幸にして、生徒には不思議がられることもなく一通りの授業を終えることができた。ひとえに普段から積み上げている人徳の成果だろう。
最後の授業を終えたところで、ハッサクの意識は急速に現実に舞い戻った。赤と青の印象的な色合いの髪が教室の外に出ようとしている。自分の背中を押すかのような風習を教えてくれたボタンだ。彼女であれば、今後円滑に進めるための助言を得られるかもしれない。
「すみません、ボタンくん。少しお時間をよろしいですか」
「え、うち?な、何かありましたっけ……」
「驚かせてしまったならば、すみません。実は、ガラル地方の風習についてもう少し詳しく聞かせていただきたいのです」
生徒にとって、ハッサクは一個人の前に教職者である。そうあって欲しいと願う大人像に相応しく、駆け引きなしに素直に尋ねた方が良い。先日教えてもらったカジッチュについてだと続ければ、ボタンは警戒の色を解いて応じるそぶりを見せた。大変にありがたい。一癖あるチリや、つかみどころのないアオキ、全く読めないオモダカ相手とはまるで異なる。
「その、想う相手に渡すカジッチュですが、具体的な渡し方に決まりはあるのでしょうか。例えば、何体渡すであるとか、どんな場面で渡すであるとか……本当は前回もっと深く質問するべきでしたね」
「……それってつまり、ハッサク先生が?誰かに?……えっ、ちょっと待って、あり得ないことじゃないっちゃないけど、個数ってどういうこと?片想いの相手って、えー、アオイ知ってるかな」
「全部声に出ていますよ、ボタンくん」
「ハワッ」
ボタンが見るも可哀想なほどにあたふたし始めるのを、フカマル先輩に合図を送って宥めてもらう。さて、断片的に与えられた情報を繋ぎ合わせて考えてみるとしよう。彼女が落ち着いてからは慎重に尋ねた方が良さそうだ。
まず、渡す『個数』は通常考えられていないらしい。つまりこの風習で願いを叶えるために渡すカジッチュは一体となる。自分は念の為にと三体渡してしまった時点で大きなミスを犯しているが、願望の大きさ故と目を瞑っておくとしよう。次に気になるのは『片想い』という単語だ。片想い。まさに、アオキの無限の才覚に対して花開かせようと情熱を傾ける自分の状況は片想いと表現するに相応しい。しかし、現在の様子からしてボタンはこの手合いの思考では素直な表現を選ぶようだ。
「つまり、カジッチュは恋愛成就の風習として、思慕する相手に一体渡すものなのですね」
「正解です。……ハッサク先生、あの」
「はい。なんでしょう」
「その、気が向いたら教えて欲しいんですけれど……いくつ渡したんですか?」
相手が誰かを問わないのは、彼女なりの優しさだとハッサクにはよくわかっていた。自分とて、そういう相手だとは考えていなかったのである。本当に?自分はアオキについて、ずっとポケモントレーナーとしての期待以上の感情を抱いてはしなかったか。今日だってずっと彼について考えていた。酸いも甘いも噛み分けるだけでなく、そのままの味わいだって大切にして欲しいと願ってカジッチュを選んだのではないだろうか。自然と頬が熱くなり、血がゆっくりと上って行く。
「ええと、小生はその……三体渡しました」
「三体?!重っ」
「……一応、受け取ってはもらえましたよ」
付け加えたのはささやかな見栄だ。実際のところはどうなっているか定かではない。噂の真相が明らかになった以上、いよいよハッサクの頭の中はアオキでいっぱいになっていた。早く会いたい、だがどんな顔をして?自分が今どんな顔をしているかさえも自信がないというのに。感情が迸るままに泣くのは常だが、感極まると泣けないこともあるのだと今初めて知った。
「そっか。うん、大事にしてもらえるといいですね」
「励ましの言葉、ありがとうございます」
気安く大丈夫だよ、などと言わないボタンは本当に良い生徒だと思う。甘味でも奢ろうと心に決めると、ハッサクは両手に顔を埋めた。
恥ずかしさを誤魔化したくても、どう足掻いても涙は流れ出なかった。
〆.