Good chaps「あなたは良い子ね」
母はよくそう表現して私を褒めた。まるで実際とは異なっていても、良い子なのだと刷り込むように念じていた。彼女にとって、私は待望の男児であったことも理由の一つかもしれない。
彼女の優しさは、私が”良い子”であり続ける限りにおいて保証されていた。学校に通い、寄り道をせず悪戯もせず、行儀作法は羊のようにおとなしい。日曜日にはかかさず教会に通う。どんな大人の目から見ても、私は典型的な”良い子”であり、同年代の子供にとっては”つまらない奴”だった。女性にもてなかったのは言うまでもない。
それでも、あの大きな家で一人ぼっちにされるよりは、誰からもいないように扱われるよりは余程ましであるように思えた。犬を飼いたかったが許されず、野良猫に構った日には手ひどく折檻された。ビスケットはいつだって全粒粉で、アイスクリームなんて夢のまた夢。私の子供時代は、子供らしからぬ味気ないものだった――十分満ち足りたものだと私は信じていた。何しろ私は”良い子”なのだから。
転機は唐突に訪れた。美術教師が、私が課題に提出した油絵に目を付け、その才能を見出してくれたのだ。
「君には才能がある。ここでその芽を摘むのは惜しい」
才能?その言葉を耳にした瞬間、私はぱっと脳裏が明るく照らされたように感じた。求められた”良い子”ではない、”私”がいたのだ。すがすがしく解放された気分だった。
新しく得たこの肩書に、私が夢中になったのは言うまでもない。勉強をしたいのだと学校に残って絵を描き、美術教師がくれたスケッチブックに乱雑な線を引いた。狂おしいほどまでに私は私を求めていた。帰り道は誰に誘われるでもなしに勝手気ままに寄り道をし、あらゆるものを描き、網膜に焼き付けた。世界はこんなにも綺麗で、私を受け止めてくれていたのかと思うと嬉しくてたまらなかった。私にもまだ子供じみた気持ちがあったということだろう。
もちろん、それが家族の気に入る結果ではなかったのは言うまでもない。しかし、私はどうすれば”良い子”にすり替えられるかを周到に考えていた。例の美術教師に口添えしてもらったのだ。芸術に造詣が深いことは、ただ学問を究める以上に稀有ですばらしいことなのだと。”良い子”は、勉学を続ける代わりにこの新しい道を許された。
”良い子”、”良い子”!なんて馬鹿馬鹿しかったのだろう。教師が少し口をはさんだだけで簡単にねじ曲がってしまう定義など、寄る辺にする価値もない。あれこれ私は都合よく”良い子”に追加していった。要するに周囲が望むものと、私が望むものが一致すれば良い。
しかし、そうした私の行いは必ずしも他人にとって心地が良いものではなかったらしい。十分に育ち、ひとかどの人物になるべく都市に送り出された私は、初めて困難に出くわした。都市の人間は、田舎ほどには純朴ではなく、私の中に潜む”悪い子”の臭いをそれとなく感じ取ってしまうらしかった。
「あなたは良い人なのだけど」
「君は良い男なんだがな」
描き上げた絵は受け入れられず、初めて興味を抱いた女たちは私を拒絶した。”良い子”の何が悪かったのだろう。彼らは”良い子”では足りないのか?
フランケンシュタインのように、私は”良い子”に付け加えるべき要素を探してつぎはぎした――歪なパッチワークは狂っていく一方だった。身なりを整えても、私は”良い人”どまりで、求めた職は得られず、才能を認められることもなかった。他人の懐に入り込むことがこんなにも難しいとは!
「それは君が”良い奴”だからさ」
霧の都で惑う私を救ったのは、リッパ―という男だった。出会った経緯は忘れてしまったが、どこか私に似た彼は、私から見れば”良い奴”であることは確かだ。
「君は才能がある。ただ、周りの奴らはわからないだけだ」
だからもっと冒険をしよう、と彼は私を誘ってくれた。洒落者のリッパ―は夜の遊びに奔放で、これまで行こうとも思わなかった裏通りに私をいざなってくれた。背徳的な寄り道が、どれほど私の胸を高鳴らせてくれたかはリッパ―以外にわかるまい。彼はどんな私も理解してくれた。
わからない人間をどうわからせるか、を教えてくれたのもリッパ―だった。私をはねのけた女たちを、彼はいとも簡単に甘言を弄してからめとって見せた。蜘蛛が巣を張って蝶を絡めとるように、彼の行いは自然だった。いつだって彼からは夜の甘い香りが漂っていた。
「どうして君は私にそんなに良くしてくれるんだい?」
「さあ」
肩をすくめて見せる彼は、ますます私に似ているように見えた。良い人間だった。”良い奴”とは彼のための言葉なのだろう。明るく、洗練されていて、紳士的、のみならず彼は時には乱暴にもふるまう側面を持っていた。嵐のような激しさは、周囲の顰蹙を買うどころか、熱烈に歓迎された。私だったら、きっとなしとげられなかっただろう。彼だから、リッパ―だからこそ許されたのだ。
女を鞭打ち、切り裂き、流血する様をスケッチする彼は優美でさえあった。犯罪行為であることはわかりきっていたが、私自身高揚する気持ちを止められなかった。
「君ならば、きっとわかると思っていたよ」
リッパ―の才能に醜い嫉妬心を抱く私にさえも、彼の言葉はひどく優しい。うだつのあがらない、新聞広告用の絵を描くのが精いっぱいの私に比べて、彼は成功した美術学校の教師だった。あれほどの才能をもっているのだから仕方がないと受け入れようとしても、私の胸に静かな絶望が溜まってゆくのは止められなかった。
一度、私は彼に絶交を申し出たことがある。彼の行為が恐ろしくなったわけではない。ただ、彼に対して自分が保てなくなることが嫌だった。上手い言い訳さえ考えられずに、私は正直に自分の思いを吐露した。いっそ嫌いになってほしかったからだ。彼に嫌われることよりも、彼を嫌うことの方が余程嫌だった。私の中に住み暮らすリッパ―という男を失いたくなかったのだ。
「ジャック、ジャック、ジャック!君は本当に”良い奴”なんだな」
「リッパ―、私は冗談を言っているんじゃないんだぞ」
「大真面目だとも。わかっているよ、君のことならなんでもわかる」
だって一緒に手を汚した仲だろう。彼の囁きは林の中を通るそよ風のように爽やかだったが、ねっとりと私の喉に絡みついた。
「この手で」
彼は私の手を開く。改めて見てみると、ペンだこだけだったはずの手は、今では別の何かを握り続けたようないびつな硬さを帯びていた。戸惑う私を他所に、リッパ―は私たち二人の遊びに欠かせない、使い慣れたナイフを握らせた。硬い掌に恐ろしくしっくりと馴染む。これでリッパ―が鮮やかな手さばきで女性の喉を裂いたのだ。私は臆病で、未だに最初の一手に踏み出せずにいた。
「君がやったじゃないか、ジャック」
「……私はできなかったよ」
リッパ―ではないのだから。だが、私の返答にリッパ―は心底嬉しくてたまらないとでも言うように腹を抱えて笑った。失礼な奴だが、それでも優美さは消えなかった。どうしようもなく魅力的で、恐ろしい。とんでもない生き物に捉われてしまった。目を離せない。
「君がやったんだ!鏡を見てごらん」
私の部屋とよく似たリッパ―の部屋には、巨大な姿見があった。女とする時に良いんだ、とあからさまに言われて顔が赤くなったことをよく覚えている。鏡を見て今更何がわかると言うのだろう。しぶしぶながらも私は鏡を覆う布に手をかけ、わざと乱暴に取り払った。
「ジャック。どうだ?何が写っているかな」
「……リッパ―だ」
リッパ―だけだった。あるいは、私だけだと言っても良いかもしれない。鏡に映るのは、たった一人の身もだえする青年の姿だけだった。
「可哀そうに、ジャック。君が”良い奴”だからいけないんだ」
”良い奴”はだめなんだよ、とリッパ―が繰り返す。絶交などできるわけがなかった。どうしてできるだろう。
「一緒に遊ぼう、ジャック。きっと楽しいよ」
君とならば一生遊べる。
だって君は”良い奴”なのだから。
〆.