傷跡 爪先で感じた、ざらっとした、嫌な感覚に──
それまで溺れていた、痺れにも似た甘ったるい心地よさが瞬時に吹き飛んだ。
「っ……! ごめんなさい」
「……なにが……っ?」
細い息を吐きながらの険しい目線、先輩は気付いてない。
「爪、引っかけちゃった!」
「……?、どこに……?」
「頬っぺた!」
ここまで言ってもまだ先輩は疑問顔。だけど僕は気が気じゃない!
──肌を重ねて、体温を移しあって、身体を繋げて、やがていつものとおり、感じ入るまま深く深く幸せに沈んでいた。
先輩だってそうだったと思う。
だから僕は、僕の名前を呼びながら、切なそうに苦しそうに、それでいて気持ちよさそうに眉間に皺を寄せた先輩が愛おしくてたまらなくて、キスがしたくて、その頭を引き寄せようとして、手を伸ばしたんだ。
その、手が──
今にも達してしまいそうで必死だったせいか、触れたくて我慢できなくて焦ったせいか、身体の反射で引き攣ったせいか、なんのせいかは分からなかったけれど、とにかく意識外の動きをしてしまったせいで──
立てた爪先は、先輩の頬の、皮膚を、切り裂いて、しまっていた。
それが感じた、ざらっとした嫌な感覚。
はっと我に帰って見つめた先に垂れる、真っ赤な、血──
ぞわっと背筋が粟立った。
だから先輩を止めようとして、謝ったんだ。
なのにそれなのに、先輩は
「……ああ」
と低く漏らしながら、手の甲で雑に頬を拭っただけ、どころか──
「 だめ! そんな触り方したら──っああ」
僕の声で一度は止めた動きを再開しただけじゃなくますます激しくしたから、僕は、あっちもこっちもで頭がおかしくなりそうになったんだ。
「待っ──っぅあぁぁっ や……っ、あああ!」
「どうでもいい、このくらい」
「そんなわけ──っ、ん、んぅぅっ」
五月蠅いとでも言いたげにキスで塞がれた口。
それどころじゃない、って、頭では、分かって、いるのに──!
すっかりその気に浸ってしまっていた身体と、僕と同じようにギリギリだっただろうにそれでも柔らかくて優しいキスをしてくれてる先輩のあったかさに、呆気なく、折れてしまって──
内側で震えて弾ける先輩の熱に誘われるまま、僕も堰き止めていたものを全部、開け放ってしまって、いた。
「……ほんっっ……とうにごめんなさい!」
あの後──ことが終わるなり余韻も何もそっちのけで先輩を風呂に連れ込みシャワーで流水を顔にぶっかけ傷の周囲だけ水滴を拭き取り傷が早く治る絆創膏を貼りつつ身体が冷えないようバスタオルを肩から覆いかけた僕がようやく顔を見て謝ると、当の先輩は
「気にするな、この程度ならすぐ治る!」
と明るくけらけら笑いながら僕にもバスタオルを掛けてくれた、けど……
「どうした?」
俯いて、そしてタオルで隠した顔。
それを先輩は、無理に上げさせたりせず軽く撫でるだけ、その優しさも胸に詰まる。
「サギョウ……?」
「……顔、見られなくなる……」
漏らした心根はか細い、先輩には聞こえなかったかもしれない。
「僕のせいだなって、思っちゃって……」
声は口の外に出ていただろうか、そんな自信はない、それくらい小さかった。
だけど。
「じゃあこれならどうだ?」
と、先輩が言ったから、僕はどうにか顔を上げた。
そこには──いつの間に、どこから出したのか──見慣れたマスクをしている先輩が、いた。
「これなら俺の顔、見てくれるか?」
目元しか見えていなくても、満面の笑みだと分かるほど、目を細めている、大好きな先輩。
「──ん、だいじょぶ」
傷が隠れたからじゃなく、先輩のあったかい気持ちが見えて、安心して、嬉しくて、へらっと顔を緩ませてしまった僕に、
「よぉし、ではキスがしたくなったらお前がこれを下ろしてくれ」
と先輩が、いわゆるドヤ顔で胸を張ったので──
僕は間髪を入れず、そのマスクを下ろして、思う存分深いキスをした。