ひとくくり それはカズサ本部長の、嵐のような抜き打ち視察が終わってすぐの出来事。
「おみゃあは本部長の前でも凪いどるんじゃなぁ」
と、隊長に言われて、僕が思い返したのは吸対の人間になった当初のことだった。
「本部長って、どんな人ですか?」
と、僕が聞いた相手は、入隊当初の研修を担当してくれていたヤギヤマさんだ。
ヤギヤマさんは、研修が始まってすぐ僕だけに他の同期とは違う課程に進むよう指示をした。
それは皆が行なっている銃の扱いの類とは全く違い、吸血鬼の歴史に関する資料を読んでおいて欲しい、というもの。
その分厚い紙束をめくる僕に、
「休み休みで構わないよ、とても長いものだから」
と飲み物を差し出してくれた機会に、僕はさっきの質問をしたんだ。
するとヤギヤマさんは
「どんな、と聞かれると一言で答えるのは難しいけれど、具体的に……例えば、何か気にかかる点はあるかな?」
と小首を傾げた。
「偉い人って、どこか癖がある印象があるので、接する機会が訪れた際に留意しておく点などあれば、お聞きしたいです」
あなたは本部長付きだと伺ったので、と続けながら再度聞くと、ヤギヤマさんはきょとんと目を丸くした。
それから、大きく声を出して、笑った。
「ああ、そういう意味か」
物静かな印象のあったこの人もこんなふうに笑うのか、と意外に思いつつ眺めていた僕に、ヤギヤマさんは
「ごめんね」
と謝り、自分の分の飲み物を飲んでから話してくれた。
「いや、カズサ──そう、本部長とは一応それなりに長い付き合いで、それこそ今の君みたいに入りたての頃から知っているから、そんなあいつがそうして……っふふ、敬いなのか畏れなのか、それは分からないけれど、とにかく背筋を正すべき存在になっている、というのを目の当たりにして、自分の中の印象との差に何だか可笑しくなってしまったんだよ」
と。
そして、
「そうだね、確かに『本部長』は『上の人間』だ。
だけど、決して取り返しのつかない理不尽な行いはしない。 それは僕が保証する。 本部長──カズサは、目的外の行動は決してしないからね。
だから何ひとつ構える必要はないよ、君は君らしく、皆は皆らしく、各々の職務に励んでさえくれれば何も問題はない」
そう語るヤギヤマさんは、何だかどこか、とても楽しそうに見えた。
「とはいえ君が言うように、アレは確かに癖があるから、もしも手を焼くような事態になったら僕に言ってくれていい、必ずどうにかする、それも先の保証と合わせて約束しよう」
くつくつと喉を鳴らしているヤギヤマさんは、やっぱりとても、楽しそう。
そうか、この人がそう言うのならばきっとそうなのだろうな、と、出会って間もない相手に確信じみたものを得られたのは、おそらく語られた中に妄信ではないものがかすかに見えたせいだと思う。
人の上に立つ人の、その傍らで時に制御になりうる存在。
前者を刃物とするならば、後者はその鞘。
前者が強ければそれだけ、後者も強くあらねば務まらない。
本部長とこの人がどのように歩んできたのかを知る術は無いけれど、おそらく平坦ではなかったのだろう。
無意識下で巡らせたそれらの考えを、受け取った飲み物と一緒に飲み下して、から──
僕は、もうひとつ聞いた。
「どうして僕だけ別の研修なんですか?」
そうしたらヤギヤマさんはひょい、と肩をすくめてから
「狙撃銃の扱いに関して、僕が君に教えられることなんて何にも無いからだよ。 既定スコアも一度でクリアしたしね」
と答えた。
「それだけで?」
「そうさ、だから、他の人は辿り着けないその工程まで指示したんだよ」
言いながら示されたのは、僕の手元の資料。
「これが?」
「そう、それは君が──そうだな、今後配属される場所で、生きていくために知っておくべき、ものだ」
こんな過去のものが?
そう疑問に思い、一度目を落とし直した紙束。
茶色く変色し始めている紙の縁、写りの悪い写真。
「いずれ、君にも手伝ってもらう日が来るかもしれない」
その声に、僕はヤギヤマさんに顔を向け直した。
そこには、一瞬前と変わらない、穏やかなその人がいるだけ。
直前の、低い声がまるで嘘のように。
「というわけだから、のんびり読んでいて」
呆気に取られる僕を置いて、ヤギヤマさんは他の同期のもとに戻っていった。
……気のせいだったのかな。
そう思い直して僕は、手元の、分厚い紙束に視線を戻した。
そうだ、そんなこともあったな、と回想に耽りつつ、僕は隊長に
「まぁ、普通にしてれば別に、なんとかなるんじゃないですか、本部長とはいえ」
とかそんなような回答をした。
そしてややしばらくして署に戻ってきたのは半田先輩だ。
どうやらいつもの退治人さんのところに、いつものように嫌がらせ──先輩本人曰くは別の言い方をしていたけど間違いなく嫌がらせだろ──をしにいったら本部長がいた、との話を聞いた。
馬鹿なことしてるからですよ、怒られなくてよかったですねー、なんて、適当にあしらい、つつ──
ふと、僕の脳裏に浮かんだのは、刃物と鞘の、自分がかつて、本部長とヤギヤマさんに対して抱いた例え。
あのとき僕は、自分もそんな相手に出会えたなら──と、考えていたような気が、する。
「どうかしたか?」
どうやら少し呆けていたようだ、まだ先輩との話の最中だったのに。
なんでもないですよ、と返して先輩に背を向けながら。
「まさかね」
と、小さくとはいえ声に出してしまっていた僕の呟きは、誰にも聞かれていなかった、と、思いたい。