金木犀 帰り道 部活が終わりの帰り道、藤堂くんと二人並んで歩いていると、甘い香りが漂ってきた。思わず足を止めて発生源はどこかと探すと、案の定近くの家の庭の木に小さなオレンジの花。すっかり秋だなと思っていると隣から同じく立ち止まっていた藤堂くんの、金木犀だなと声がする。
「藤堂くんでも花の名前なんて知ってるんですね」
「でもは余計だ……昔母親に教えてもらったんだよ」
ああ、こういうところが俺は良くない。早くに亡くした母親との思い出にケチつけるような物言いをした。すぐに謝ればいいものを、えっと、なんて言葉に詰まるから藤堂くんは気にすんなって言う。実際気にしていないのだろう。そういうところにまた申し訳なくなるというのに。
俺の葛藤など気づきもしない藤堂くんは、ただなあ、と金木犀にまつわる少し苦い過去を話し始めた。
藤堂くんの語るところによると。
妹さんがもっと幼い頃、保育園に迎えに行った帰り、お姉さんと妹さんと三人で歩いていたら金木犀の匂いがした。妹さんが何の匂いか不思議そうにしているので、お姉さんと二人で教えてあげたという。もちろん、お母さんに聞いたことも合わせて。すると妹さんが泣き出した。かーかに教えてもらったなんて、ずるい!
「そんでしばらくは金木犀の咲いてる時期はその道通らんようにしてたんだよな。他にも妹がいる時は金木犀避けて……おかげで近所のどこに金木犀があるか全部覚えたわ」
しばらくは、なんて藤堂くんは軽く言うけれど、よくよく聞いてみるとそれは数年に及んだらしい。一昨年、妹さん本人が、お友達から聞いた良い匂いがするお花のこと、にーに知ってる? なんて言い出したらしい。
「妹はすっかり忘れちまっててよ、まあ安心したわ」
藤堂くんの妹さんの中で亡くなった母親の記憶が乏しいことは、誰が悪いわけでもなく仕方のないことだ。でもそんなこと、不在がちでも俺への愛を惜しみなく注いでくれている両親がいる俺の口からはとても言えない。ましてや妹さんは幼いし……藤堂くんだって子どもなのだけど。
「……そうですね、良かったじゃないですか。妹さんと金木犀を楽しめるようになって。ずっと避けるのって結構難しいですしね」
「そうなんだよな、この時期多いだろ、金木犀のなんちゃらってやつ。姉貴もヘアオイル買ってたし」
藤堂くんのお姉さんも良いお姉さんだなと思う。自分に兄弟姉妹がいたとして、果たして優しくあれるだろうか。
そんなたらればを考えるよりも、やるべきことがあるなと思い隣にいる藤堂くんにそっと手を差し出してみる。
「何? カツアゲ?」
「違いますよ。妹さんのために何年も金木犀断ちしてた……まあ空回りだったみたいですけど、とにかく藤堂くんに今日だけご褒美です。金木犀の匂いがしてるとこは手を繋いであげてもいいですよ」
「は!? あっ、えっいいんか!? 外だぞ!?」
想定通りに慌てふためく藤堂くんについ噴き出してしまう。いつもだったら外で手を繋ぐなんて絶対拒否だ。あり得ない。でも、まあ、お日様もとっくに沈んでるし、ちょっとくらいいいかなって思ったのだ。妹さんよりは大きいけれど、子どもの頃の藤堂くんへご褒美をあげても。
いや俺と手を繋ぐのがご褒美とかちょっと烏滸がましいというか、若干恥ずかしくなってきた。なので、嫌ならいいですと手を引っ込めようとすると、俺と同じく肉刺だらけの手にがっちり掴まれる。馬鹿力め、ちょっと痛いんですけど。しかも向かい合って立ち止まったままだから握手状態だ。そもそも人通りが少ないとは言え知らない人の家の近くで立ち話し過ぎだっていうのに。手を握ったまま動こうとしないのは何なんだ。あのですね、と口を開こうとすると藤堂くんに遮られた。
「ちょっと待て」
藤堂くんは左手で俺の右手を掴んだまま、右手をブレザーのポケットから何かを取り出した。それをドヤ顔で俺の眼前に突きつける。どうやらハンドクリームらしい……[季節限定金木犀の香り〜]
パッケージに書かれたその文言を読んだ瞬間、笑いが抑えられなかった。
「ぶっ……くっ、アハ、アハハハ、何ですか藤堂くん、そんな、そんなに俺と手を繋いでたいんですか」
「チャンスは逃がさねえのが藤堂葵様なんだよ」
藤堂くんがハンドクリームを塗るため、数分ぶりに俺の手は自由になった。このまま走って逃げてやろうかと思ってみる。俺は、どうにもこうにも目の前の男をいじりたくて仕方ないらしい。そう思ったのがバレたのか、逃げんなよ、と藤堂くんは俺の両手を掴む。もっと丁寧に塗れ。お裾分けと言いながら俺の手にまでハンドクリームを塗りたくる。俺には自分の三倍は丁寧に塗るなんて、藤堂くんはやっぱりバカだ。仕方ないから分かれ道までずっと手を繋いでてあげますかね。