色褪せない微笑み「大きく、なったね」
出会い頭に紅玉色の瞳を丸くして見せた相手は、直ぐに双眸を細めるとゆるりと優しく微笑ってみせた。
言われた方にしてみれば、心当たりがないのだから何の事やら、と言う顔をするしかない。
執務官様に呼ばれた上司に、緊急の伝言があるからと仕方なく伝書鳩役を引き受けた行き先は教会の執務室。
ノックをしてから入ってみれば、肝心な執務官様と上司の姿は見えず。1人、のんびりとティータイムのテーブルに座している人物が居た。
この教会の中で最も高位に位置する人物。うっかりした態度は取れない、と即座に最敬礼で頭を下げる。
「お寛ぎのところ失礼致します。我が隊の隊長が此方に来ているはず、とお邪魔したのですが」
「ロイエ隊長なら、ミゼリコルドと共に席を外したよ。検分したい資料があるそうでね」
「そう、ですか…」
「――…久しぶりだね、シャオ」
親しげに名を呼ばれて、面食らいながら顔を上げる。そんなシャオの視線を捉えたのが、冒頭の彼の表情だったと言う訳だ。
「…猊下とお話させていただいた事は数える程かと存じますが」
「――…嗚呼、あの頃はいつも変装して抜け出していたからね。『ネーア』と言う名に心当たりは無いだろうか」
「ネーア…!」
弾かれたように記憶の蓋が動き出す。
幼かった頃の事、まだアークの人間と殆ど関わりのない中で、『ネーア』は数少ないアークの住人だった。
いつも夜更けに現れては、朝方には姿を消す不思議な人物。
――…そして、幼心に感じていたのは父親にとってかけがえの無い相手への感情。
ネーアは特別。それは父にも自分にも言える感情だった。
勿論、その感情の種類は些か異なるものであったかも知れないが。
「良く、寝物語に絵本を読んだのを覚えているかい」
「…ええ。父よりも、貴方の読み聞かせは余程上手かった」
「ロイエに聞かれたら泣かれそうな台詞だな」
「貴方が来た日は、やけにあの人に早く寝ろと急かされたものでした。…2人の時間が欲しかったのだろうに、子供だった自分には全く意図が分からず。今思えば空気が読めない酷い子供でした」
「君は充分に聡い子供だったよ。お陰で私はあの場所でかけがえの無いひと時を幾度となく過ごすことが出来た」
それは、今となってはもう二度と戻ることのない記憶の中のひと時。
「ロイエに続いて、君もユニティオーダーに入隊したと聞いた時は耳を疑った」
「あの人の…――父の、役に少しでも立ちたくて」
「そうか。…成長しても、人の優しさとは変わらないんだね」
ふわり、と黒衣の裾をひらめかせて彼が立ち上がる。目の前に来ると、昔は見上げていた紅玉色が今は正面にあって。
「触れても、構わないだろうか」
「ええ、勿論です」
頬を包む手のひらはほんのりと温かく。幼い日にも同じように撫でられた記憶を掘り起こす。
「――…年月とは、こうして過ぎて往くものなのだね」
愛おしみ、慈しみ。愛情というものの一部を自分の中に刻み付けたのは、紛れも無くネーアの存在もあったからだ。父が与えてくれるものと同等の優しさを、ネーアはいつも与えてくれた。
「――…突然、ネーアが来なくなった理由をまさかこんな形で知るとは思いませんでした」
「どんな楽しみにも終わりは訪れる。特に、『ネーア』の存在は期限付きだったから」
「尤も、来なくなってより寂しがっていたのは父の方ですが」
「それは初耳だな」
「――…シャオ!」
不意に噂をすれば何とやら、と言わんばかりに聞き慣れた声がして振り返れば、早足で件の人物が此方へと向かって来るところだった。
既に頬の手は離れ、緩く微笑しながら相手は遣り取りの行く末を見守っている様子で。
「こんな所に、一体どうしたの」
「地上でちょっと厄介なドンパチが始まったから、早く戻って来てくれって伝書鳩になりに来た」
「…聞くだけで行く気無くすなあ」
「仕事して、隊長」
くすりと笑う気配に、視線を移せば黒衣の君はあっさりと解放宣言を下す。
「行くといい、ロイエ隊長。その分ならミゼリコルドとの遣り取りは終わったのだろう?」
「…元々の用件は全く片付いて無いんですけどね」
「後でゆっくり聞かせてくれれば良いよ。その間、僕らはお茶の続きでもしているから」
「…あの鬼執務官様のご機嫌を損ねないうちに戻ります」
「そう固くなる事は無い。――…そうだ、ロイエ隊長」
「はい、」
「君の息子は、君に似て真っ直ぐに立派に育ったね」
「――…ええ、自慢の息子です」
「本人の前で言わなくて良い、そういう話」
微笑する彼の顔は、紛れも無く記憶の中に残るネーアの笑顔そのものだった。