I/bパロディ(2)例えるなら、プールで泳いでいるとき唐突に足がつってしまったかのような……或いは、海を漂っているとき徐に浮輪を取られてしまったかのような……そんな息苦しく、浮遊感に対する恐怖と目の前に広がった暗晦たる風景の絶望………。上へと手を伸ばし、藻掻き、何とか地上へ戻ろうとしてもズシリと重たい絵の具のような水はツカサを下へ下へと引きずり込む。ゴポリッと必死に呼吸をする度に、数個の泡が哀れに足掻きそれでも沈みゆく自分を嘲笑うかのように水面へと上って行った。
(………何とかこの深海の中から抜けなければ………そろそろ息が続かなくなってしまう……!)
すり抜けていく数多の魚(魚……と形容してもいいものか微妙な謎の生物も多々いるのだけれど)を横目に、ツカサは必死に手足を動かす。傍から見ればそれは随分と滑稽に映ったことだろう。……しかしながら、絶体絶命な状況に遭遇してしまったときこそ諦めず行動し続ければ案外道は開けるものだ。乱雑に動かしていた足に、何か当たる感覚が脳に伝わってくる。その感覚を頼りにそのまま足を進めて行けば、足に当たった何かは下へと続いているようだった。
(………これは……階段か?何でこんなところに階段が………いや、そもそも絵画の中へ入ってしまっている時点で非現実的だったな。ここから先は常識があまり通用しないということか……。……降りて行ってもいいものか微妙なところだが、ここにいては埒が明かないどころか本当に溺死してしまう………)
―――結局進むしかないのか……、とツカサはゆっくりと階段を降りていく。
ふわり、ふわりと水特有の心許ない浮遊感に抗い進んでいた歩みはいつの間にかしっかりと地を踏みしめ、カツン、カツンと水流にかき消されていた己の足音が耳に届く。最後に瞬きを一回すれば、すぐ側を泳いでいた奇妙な魚たちはパッと姿を消し、ただの青い壁が何事もないかのようにツカサを見ていた。呼吸の出来ない恐怖も、どんなに藻掻いても足掻いても為す術なく暗黒の深海へと沈んでいく恐ろしさも、そんな深海を泳ぐ生命を感じさせない魚たちの不気味さも………全て苦しいくらいに記憶しているのに、ツカサが着ている服は一滴たりとも濡れていない。……まるでつい先ほどまでの出来事が夢だったかのように………。いっそのこと、絵画の中に落ちたことすら夢だったのなら良かったのに………長く先の見えない階段を進みながらツカサは小さく溜息をつく。何も見えない深海を苦しみながら沈むより出口のない階段を下り続ける方がマシと思ってしまうのは既に感覚が麻痺している……ということなのだろうか。死ぬかもしれないという恐怖心は随分と厄介なものだった。
(………サキも……入院しているときはこんな気持ちだったのだろうか……そういう意味では、ここに来てしまったのがオレで本当に良かった。サキにこんな怖い思いをさせるわけにはいかないからな。………サキは、大丈夫だろうか……まあ、そこまで広い美術館でもないし別フロアには母さんたちもいるから大丈夫だろう………)
そんなことを考えながら淡々と進んで行くうちにツカサの右足が次の段差を踏みしめることはなくなり、両足が綺麗に並んで床につく。……どうやらここが階段の終わりらしい。唐突に訪れた終わりに若干拍子抜けしながら(階段は通常終わりがあるものなのだから拍子抜けというのもおかしな話だけれど。……これもまた感覚が麻痺している……ということなのだろう)ツカサはゆっくりと辺りを見渡してみる。……尤も、見渡せど見渡せど広がっているのは気味悪さすら感じるほどの青い壁なのだが。補色残像を和らげるために手術服は青緑色をしている、というのは有名な話だが、別段この壁はそういった配慮を基に作られているわけではないのだろう。……仮に、壁に大量に書かれている『おいで』の青い文字が案内という名の気遣いというのなら、ここのデザイナーは一度『気遣い』の意味合いを辞書で引いてみた方がいい。精神的な意味でも、視覚的な意味でも。
「………まあ、何も手がかりがないよりはいいか………」
例え罠だとしても先に進むことしか今の自分には出来ないから………ツカサは吐き出したい溜息を飲み込んで『おいで』の文字に従い目に痛い通路を進んで行く。絵画の中へ落ち、深海へと沈んで辿り着いた場所が、一般的にリラックス効果があるとされ、信号においては『安全』を任されている色というのは何とも皮肉なものだ。淡々と響く一つだけの足音が、ここにいるのはツカサだけということを無意味に強調させる。それでも足を動かせたのは、妹が美術館のベンチで自分を待っているということだけだった。……その事実がなければ、ツカサの足はとっくに歩みを止めていた。
距離にすればそこまでではないはずなのに何時間も歩いたように感じる通路の終着点にあったのは、木製のフラワーテ―ブルと上に置かれたシンプルな白い花瓶だった。生けてある一輪の黄色のバラが青い部屋にはやけにミスマッチで………それが逆にフラワーテーブルの後ろにある扉よりもツカサの目を引く。花瓶の中で場違いの如く鮮やかに、力強く、爛々と咲き誇る黄色いバラがその姿にどこか気圧され呆然と立ち尽くすツカサを静かに射抜いていた。
「……何故だろう……このバラをちゃんと持って行かないといけない気がする………」
どうしてそんな気持ちになったのか……それはツカサ自身にも分からない。ただ……そうしなければならないような気がして………ツカサはそっとバラに手を伸ばす。棘が刺さることなくバラはスッとツカサの手に馴染んだ。………まるで手に取ることが想定されていたかの様に、自分のために用意されていたかの様に、自分自身かの様に………。片手がふさがってしまうのは不安要素にしかならない事柄だが、このような状況下で感じた勘を見て見ぬふりは出来ない。ツカサはしっかりとバラを握りしめると、バラを持っていない方の手でフラワーテーブルを退かす。幸いなことに、テーブルの後ろにあった扉には鍵がかかっておらず、ドアノブを押せば抵抗なくゆっくりと扉は開いた。
「………のわっ‼」
部屋に入った瞬間悲鳴を上げてしまったのは不可抗力と言わざるを得ない。………誰だって扉を開いた先に瞳を閉じた白髪の女性が描かれた絵画が飾られていれば驚きの声を上げてしまうだろう。それが一面を占めるほどの大きさならばなおさらだ。ツカサは足音をたてないように静かに部屋へと入る。まるでこの絵画のためだけの部屋のように殺風景な内装と、これ見よがしに落ちている青いカギ。
(………まあ、この階だけで終わるほど甘くはないよな………)
遠回しにこの先まだまだ悪夢が続くと言われている………絶望の溜息をつきたくなる気持ちを抑えながら、ツカサは他にも手がかりがないか辺りを見渡す。
「………ん?絵画の下に張り紙がある……?この絵の説明か………?」
『そのバラ ?ちる時 あなたも?ち果てる』
所々読めない文字があり虫食いになった文章……尤も、全部読めていたところでその意味を理解するのは困難を極めただろう。てっきり絵画の説明が書かれているのかと思っていたツカサは意外な文章に首を傾げる。
「………バラ…というのはコレのことか…?このバラが……どうにかなるとき、オレもどうにかなる……のか?うぅ………こんなことならもう少しちゃんと漢字を勉強しておくんだったな………これだから暗記系の科目は苦手なんだ……」
兎に角このバラが重要なアイテムであり、自分にとっても大切なものだと分かっただけでも儲けもの………ツカサはそうポジティブに考えることにした。ポジティブに物事を考えるのはツカサの十八番だ。……ポジティブに考えてもどうしようもない出来事も多々存在するが………例えば、この状況とか。
張り紙以外に目ぼしいモノは特にない。これ以上この部屋で何か手がかりを見つけるのは無理だろう。そう思い次へ進もうと最後にツカサが落ちていた青いカギに手を伸ばしたときだった。
―――カタリッ……と、背後から音がした。
絵画と張り紙、そして青いカギしかなかった部屋………自分の手の内に青いカギがあるということは、音がした方向にあるのは必然的に―――……。振り向いてはいけないと警鐘を鳴らす脳味噌と、現状を理解し行動しろと諭すどこか冷静な自分……勝利したのは自分だった。
ゆっくりとツカサは後ろを振り返る。
怪しげに笑う絵画の女性と目があった。
ゾッと背筋に寒気がはしる。……だって、この部屋に入って来たときには確かに彼女は瞳を閉じていた。後ろを振り返ったとて、絵画と目が合うはずなどないのだ。それこそ絵の上から描き直されるか………絵画それ自体が動き出す以外………。
「―――………ッ‼‼‼」
呼吸をするのも忘れてツカサは部屋から飛び出した。青いカギもバラも落とさなかったのは奇跡に近い。勢いよく開かれた扉が軋んだ音も今は気にしていられなかった。
「………ヒッ‼」
飛びだした先の通路、つい数分前まで『おいで』と書かれていた壁は、おどろおどろしいほどの真っ赤な色で書かれた『かえせ』の文字で埋められていた。引きつった声、急に入って来た空気にヒリヒリと喉が痛む。恐怖と涙が滲む瞳を一度だけ閉じ、ツカサは前だけを見て通路を走りぬけた。
知らない
知らない
知らない。
己の足を止めるかのように突如として床に打たれた『かえせ』の赤い文字など知らない。
確かに降りて来たはずの階段がなくなっていることなど知らない。
壁に飾られた絵画など知らない。
不幸中の幸いか、青いカギが使えそうな扉はすぐ近く、反対方向の通路の端に存在した。この不可思議な現象から逃げられるのなら何でもいい……ツカサは急いで鍵を開けると、隣の部屋へと転がり込んだ。
ツカサが走り抜けた風が通路を吹き抜ける。その風で、ツカサが壁際に退かしたフラワーテーブルの後ろ……いつの間にか張られていた紙がふわりと揺れた。
『バラとあなたは ???? 命の重さ 知るがいい』
☆
ツカサが飛び込んだ先は緑色の部屋だった。……またしても『安心』や『癒し』を意味する色の部屋………一種の嫌がらせ、精神攻撃なのだろうか?
「………否、それよりも嫌がらせというならこの部屋に飾られている絵画……何故全部虫の絵なんだ‼‼‼‼‼」
ツカサの魂の叫びが緑の部屋に反響した。テンマ家周辺では有名な話だが、虫…とりわけ多足類はテンマ・ツカサがこの世で最も苦手とするものである。普段は(自称)頼れる兄、(自称)頼れるセンパイ、(自称)未来のスター、(通称)変人の彼も普通の人間……苦手なモノの一つや二つ当然のように存在し、その中でも特に苦手としているモノが虫だった。幼い頃、ピアノの演奏中にクモが天井から下りてきて、絶叫しながら幼馴染である少年に泣きついたのは苦い思い出だ。
そんなツカサの目の前に広がるのはてんとう虫やらハチやら……様々な昆虫の絵画たち。もはや部屋の中を見渡すどころではない。何だったら、今すぐにでも前の部屋に戻ってもいいと思っているくらいだ。虫を見るくらいなら動く絵画を見た方がまだマシである。絵画が視界に入らないように目を細め何とか周囲を眺めればツカサのすこし右側に扉が存在した。それと同時に目の前には奥へと続く通路もあり、通路前の柱にはトラウマになりかけたあの白髪女性の絵画の下にあったものと同じような張り紙が貼られている。……どうやらこの謎のセカイにおいて、張り紙とは一種の案内板、ヒントのような役割を果たしているようだ。………ヒントと言っても、『そのバラ ?ちる時 あなたも?ち果てる』のようにこの柱に貼られた張り紙も『はしに注意』とよく分からない内容なのだが。アトラクション感覚なのだろうか……巻き込まれたツカサからしたら迷惑極まりない。
「………さて、どちらに進むのが正解なのか…………下手に動いてさっきと同じような思いをするのはごめんだぞ?」
この緑の部屋を隅々まで探索するのならば、一番己に近い右側の扉を調べるのが順番的にも妥当だろう。……しかし、右側の扉へ行くには虫の絵画の前を通らなければならないのだ。右側の扉が次のルートへ繋がっているのならばまだいい………だが、カギがかかっていたり、次の部屋に何もなかったりしたらどうだ?その暁には、ツカサは再び虫の絵画の前を通って奥へと続く通路を目指さなければならない。出来ることなら絵とはいえど虫の前を通るなどいう恐ろしい思いをするのは一度きりであって欲しい………ツカサにとっては特に切実に。虫が描かれた絵画を見ないように目をしっかりと閉じたままどうしたものかと一人ツカサが唸っていたときだった。
「あ、お客さんだ。こんにちは」
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼‼‼‼‼‼‼‼???????」
「うわ、うっるさ…………」
突如声をかけられツカサは悲鳴を上げた。目を閉じることを忘れてブンブンとグラデーションがかった金髪を振り回しながら辺りを見渡す。ずっとツカサは一人だったのだ、当たり前の如く近くには何の姿も見えない。………ならば、今しがたの挨拶とツカサの悲鳴の後に続いた若干失礼入り混じった非難の声は誰だったのか?その答えはヘッドバンギングよろしく頭を上下…ついでに左右にも振り回した先……床に見えた小さな一ドットほどの黒い点だった。目を凝らさなければ見えないほどの小さなその点は、確かにその小さな顔を上げてツカサのことを見ている。一ドットほどの小さな黒い点―――……有り体に言えば、そこにいたのは一匹のアリだった。
「いやいやいやいや………アリがここにいたとしても虫が喋るなんて―――……」
「お客さんが来るなんて久しぶりだな~、キミ、どこから来たの?」
「虫が喋ってるううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼‼」
「………本当にうるさいな、このお客さん」
アリは自分の触角を前足で触りながら頭を振る。その妙にリアルな人間らしさに虫に対する嫌悪感がほんの少しだけ薄れるのを感じながら、ツカサは膝を折り焦点をなるべくアリに合わせないようにしながら口を開いた。
「……あー……その、うるさくしてすまない……。色々な展開についていけなくてな………お客さん、と言っていたが、ここがどんな場所だかお前は知っているのか?」
「ここは美術館のセカイだよ。キミも絵を見に来たんでしょ?ぼくもそうなんだ。ぼくはアリ。ぼくはね、絵が大好きなんだ。ぼくの絵もかっこいいんだよ。………本当はぼくの絵をしっかりとみたいんだけど、ぼくの絵はちょっと遠いところにあるんだ」
「………お前の絵?」
「あっち」
器用に前足を上げて指(?)さしたのは奥へと続く通路の向こう側、よくよく見て見ればなるほど通路を抜けた先にアリの絵らしきものが飾られている。ここからでもアリの絵と認識できるくらいだ、現在地から通路の端まではツカサの足で行けば然程の距離はないが、アリである彼にとっては結構な距離だろう。事実、ツカサと話している間もアリは己が描かれた絵画を目指しているのかせかせかと足を動かしているが未だツカサの一歩分すらも進んでいない。加えて、ここには現実世界の森や住宅街と違って指標になりそうなものが全くなく、アリはフェロモンや太陽の位置を参考に行動するらしいが辿りついたことのない場所には意味のないものだろう。
「………そんなに見たいなら、オレが持って来てやろうか?」
そんな小さく健気な生物に同情してしまったのかもしれない。ツカサの口から零れたのは虫嫌いの自分から発せられたのか疑わしい内容だった。ツカサの申し出にアリはパチパチと身体よりもさらに小さな瞳をパチパチと瞬かせ、器用に首を傾げる。
「いいの?絵、重たいかもよ?」
「絵画の一つや二つ持てないほど軟ではない。………それに、どうせ先に進まなければならなかったんだ。こっちに戻ってくるというなら、どちらから調べても大して変わらない………寧ろ、この虫の絵の前を通らずに先に進めるのなら目っけ物だ」
ツカサは立ち上がると柱を避けて通路へと進んで行く。
「あ、張り紙にも書いてあるけど―――………」
「うわああああああああああああ‼‼‼‼壁から手が、手がでて%△#%◎&@□~~~‼‼‼」
「はしには気を付けてね?」
「ばっか早く言え‼早く‼もっと早く‼オレがここを通る前に‼当たったらどうするつもりだ‼」
「………だって、ちゃんとそこの張り紙に書いてあるから大丈夫かなって」
「誰も彼もが瞬時に頭一休さんになれると思うな‼‼」
「一休さんの『はしを渡るべからず』は大分有名な話だと思うけど………」
「ああああああああ‼‼‼また壁から手が出てきたぞ‼どうなっているんだ、本当に‼‼‼」
お化け屋敷に入ってもここまでオーバーなリアクションをとれる人間は少ないであろう大声を発しながらツカサは何とか通路を歩いて行く。何故かときより壁から飛び出してきた片腕がそのまま力なくぶらぶらと揺れているのが随分とシュールだった。
「………おかしい………オレの方が速くこの通路を進めるから引き受けたのにどうしてここまで疲れなければいけないんだ………?」
むしろアリに道を教え、彼自身が絵に向かった方がこの謎の手も出てこなかったのではないだろうか……体格的に考えて。何とか辿り着いたアリの絵画の前でツカサは大きく溜息をつく。幸いなことにアリの絵画はそこまで頑丈に壁に留めてあるわけではなく、ツカサが外そうと持ち上げれば簡単に手の内に収まった。無駄にリアルなアリの絵……ゾワリと鳥肌が立つのを感じる。自分の視界に入らないよう絵画を脇に抱えながらツカサは足早に数本の手が揺らめく通路を進み、アリのところへと戻って来た。
「ほら、これがお前の絵だろ?」
「うん、ぼくの絵。やっぱりかっこいい~、うっとり」
「………その辺の感性は人間のオレには理解しがたいな………」
「お礼にいいこと教えてあげる。あそこの扉の向こうには隣の部屋にいくためのカギがあるらしいよ。……ぼくは扉を開けられないから中に入れないけど、キミならいけるんじゃないかな?」
「………そうなのか?」
……どうしてその扉に続く通路に等間隔で虫の絵画が飾ってあるのだろうか……唸る気持ちを押し込め立ち上がるとツカサは自分たちのすこし右側にあった扉に手をかけゆっくりドアノブをまわす。鍵がかかっていることもなく普通に開いた扉。その先には大きな穴があり、その穴を挟んだ向こう側に再び扉があった。極一般的な建物の床に穴が空いていればその下にあるのは当然下の階のフロア、もしくは地面であるはずなのだが、この穴はいくら目を凝らしても真っ暗闇が広がっているだけである。………分かるのは、間違いなくこの穴に落ちたらただでは済まない、ということだけ。勢いをつければ飛び越えられそうな幅だが、その勢いをつける幅すらない。……幅が十分とれたとしても、失敗したら死ぬかもしれない一か八かの勝負をする意味もないだろう。
「………しかし、どうしたものか………アイツの言うことが正しいのならあの扉の向こうにカギがあるはずだが………たとえ簡単に飛び越えられる穴だとしても万一のことを考えたらなるべくリスクのある行動はとりたくないな………」
穴を遠目に除くならがツカサはポツリと呟く。立ち止まっていても仕方がないことはツカサも重々に理解しているが、穴から自分を覗く深海にも似た晦冥が金縛りの様に己をこの場に縛り付ける。どうしたら向こう側に行けるのか考えなければいけないのに、恐怖が霧雨のように邪魔をする。どうにかしなければいけないのに、なにかしなければいけないのに、考えなければいけないのに。
「…………あ」
握りしめた手に伝わる冷たい感覚………そういえばアリの絵をそのまま抱えていたことに気が付いたツカサは、はたとそのアリの絵画を縁取る額縁の大きさがちょうど目の前に広がる穴よりも幾ばくか大きいことに気が付いた。徐に絵画を両手で持ち直し、そっと穴にかざしてみる。やはりちょうど良さそうな大きさだ。持った感じ結構丈夫そうな額縁はそこまで本気で体重をかけなければ数回程度持ちこたえてくれることだろう。………問題は―――………。
「………他人の絵を踏むというのは……あまり褒められた行為ではない……よな」
まして、扉の向こう側には描かれた本人(?)がいるのだ。ぐぬぬと唸り声をあげながら現在の絶望的状況と人としての倫理観を天秤にかけたツカサが葛藤の末に出した答えは、アリの絵を額縁から取り出し空になった額縁だけを穴の上に置くというものだった。それでも大分心は痛んでいるのだが………。
「………すまない!」
謝罪を一つ言葉にし、ツカサはパッと額縁を踏んで穴の向こう側へと移る。……やはりひと一人を支えるには無理があったのか、裏板が軋む音が響く。おそるおそる額縁を見やれば、裏板がツカサの体重を支えた分変に折れ曲がっていた。……もう一度渡れば今度こそ壊れてしまうだろう。
「また向こう側に戻るときに一回使うと考えれば……こちら側を調べることが出来るのは一度きり……ということか。見落としのないようしっかり調べなければな」
軽く砂埃を掃いながらツカサはすぐ側にあった扉を開く。
「………あれは……確か美術館で観た……確か『無個性』という作品だったか?どうしてここにあるんだ……?」
扉の先でツカサを待っていたのは無駄にデカい絵画でも、多数の虫の絵画でもなく、現実世界の美術館(……と表現するのかは微妙だが、ここが明らかに非現実的な美術館である以上ツカサが最初にいた美術館はそう表現せざるを得ないし、さして間違ってもいないだろう)で観た赤い服を着た頭部のないマネキンだった。『無個性』とは言い得て妙である。頭部がないことで何を思って立っているのかよく分からないマネキンは門番のように緑のカギの前で立ち尽くしていた。守っていようが何であろうが、このカギを取らなければ先に進めない。ツカサは一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと緑のカギを拾い上げる。
さて……ここで簡単な問いかけなのだが、読者の諸君は世の中における『お約束』というものをご存じだろうか?火曜サスペンス劇場での事件解決が海を背にした崖で行われたり、少女漫画で遅刻しそうになって食パン咥えた少女が転校生の少年と曲がり角で衝突し恋が始まったり、某戦隊ものヒーロ―もの…はたまた某少女向けアニメにおいて変身中は攻撃してこないなどなど………様々な『お約束』が世界には存在する。その『お約束』同じく、ホラー系作品にはこんな鉄板ネタがある。
―――……古今東西、その部屋に無意味に佇む甲冑騎士や人形は存在せず……大抵はシーン区切りに動き出す、というお決まりの展開が。………そしてもう一つ、『お約束』というのはよっぽどことがない限り崩されることのない、まさしく鉄板だということ……。
ここまで語れば、もうどうなったかお分かりになるだろう。ツカサが緑のカギを拾い上げた瞬間、マネキンはまるで生きているかのように両腕を上げると、そのままゾンビ映画の如くツカサに襲い掛かって来た。
「うああ⁉」
『お約束』というのは崩されることのない前提ということと同時に、映画やドラマを何回か見たことがある人なら大抵内容を知っているというもの。頭のどこかでこの結果を察していたツカサは、驚きはしたものの動けないということはなく、咄嗟に後ろへ飛び下がるとそのまま開けたばかりの扉を再度開ける。ツカサの後を続く頭部のないマネキン。目がないのにどうしてツカサの後を付いてこれるのだろうか……。額縁を踏みつけることに罪悪感を覚えることすら忘れてツカサは急いで穴を超える。今度こそ鈍い音が聞こえ、完全に額縁に穴が空いてしまった。一瞬だけ額縁に視界を向けるが、それと同時にこちらに迫ってくるマネキンも目に入り慌ててドアノブを捻る。ツカサが扉を閉めると同時に響くガシャンと額縁のフレームが割れる音と陶器のような何かが壊れる音。………扉の向こうで何が起きたのか……想像するのは容易いことだった。
「……すごい音したけど、大丈夫?それにぼくの絵、持って行っちゃったけど、ぼくの絵、どうなった?」
これだけ大きな音がすれば当然彼の耳にも届いていただろう、どこか心配そうな表情でツカサの足元にアリはやって来る。
「………お、お前の絵は………」
アリの純粋な質問にツカサは言葉を詰まらせる。向こう側にはツカサ以外誰もいなかった。ツカサの行動を見ていたモノは誰もいない。不慮の事故で壊れてしまったと嘘をついても問題ない。それにカギはツカサの手にある。質問に答えないままに走り去って行ってもアリが追い付く手段はない。………どちらの選択肢をとっても、ツカサには『答えない』という選択があったのは確かだった。
「本当にすまない………穴が空いていて、どうしても通らなければならなかったんだ。……本当は壊れてしまっても回収だけはしようと思ったんだが謎のマネキンに追われてしまって………」
……だが、それでもツカサは真実を話すことを選んだ。嘘がつけないという元来のツカサの性格もあるのだろう、深々とアリ相手に頭を下げる。
「もしこの先で代わりになりそうな額縁があったら持ってくる……申し訳なかった」
「別にいいよ~、ぼくは自分の絵が側にあるだけで嬉しいから。でも、いい額縁が見つかったらちゃんと持って来てね」
そんなツカサの自責の念に、アリは大して興味もなさそうに、そんなことよりもツカサに手渡された自分の絵が大事だというようにケロリと言った。
「………い、いいのか?」
「うん、絵は綺麗だから。それよりカギはあった?」
「ああ、あったぞ!教えてくれてありがとな」
「それじゃあ、先に進むんだね。またね、行ってらっしゃい、気を付けてね」
器用に前足を上げて、アリは左右に振る。そんな小さな声援にツカサは笑みを浮かべると扉に向かって歩き始めた。
「あ、通路の先にも手が出てくるから気をつけてね」
「だからそういうことは先に言え‼‼‼‼」
☆
壁から飛び出てくる手に最後まで驚きながら緑色のカギを開けた向こうは……ネコだった。何を言っているのか分からないかもしれないが、とにかく部屋がネコの形をしていた。さっきまでの部屋とは趣向が違うファンシーさにツカサは拍子抜けしたような表情を浮かべる。
「………綺麗にネコの形をしているな……一体どういう風になっているんだ?もう分かりきっていたことだが、よく分からないセカイだな」
大きな瞳がツカサを見つめ、本来口があるべき場所にはさかなの形に窪んでいる。その他に扉らしい扉はなく、左右に道が続いているだけだった。
「………つまり、この窪みに入るさかなの形をした何かを探さなければいけない……ということか。いよいよ、遊園地のアトラクションじみてきたな………身体の安全性がしっかりと保障されていれば素直に楽しむことが出来たのだが………」
持っていた黄色いバラの花を撫でながら、ツカサはとりあえず左の道へと歩いていく。
大して長くもない道、進まなくても見えるその先は数本の柱とその柱に飾ってある黒いカーテンで仕切られたおそらく絵画であろう何か。見たところさかなの形をしたモノが落ちている様子はなく、襲ってくるようなマネキンがいる様子もない。………絵画にカーテンがかかっている以外はいたって普通の部屋だった。ただ一つ気になるのが、一番近い柱に描かれた子供の落書きのような棒人間の絵。下には黄色い文字で何か書かれている。近づいて文字をなぞれば、それはどこか現実世界で観た不思議な絵画から零れ落ちていた青い絵の具と同じ感覚がした。
「………えっと……『かくれんぼ する?』」
ツカサが書かれた文字を音読した瞬間、文字の上にいた棒人間が消え、バシュッと不可思議な音がしたかと思うとカーテンがかかった絵画の下に文字と同じ黄色のボタンがどこからともなく現れる。隠れた絵画………つまり、かくれんぼ。
「……どこの絵画に隠れたのか……ということか。ふっ、甘いな‼オレを誰だと思っている‼このテンマ・ツカサ、かくれんぼはサキやトウヤたちとよくやっている‼見つけるのは大得意だぞ‼」
無駄に大きい声が響く。非難するように揺れるそれぞれのカーテンには気付かず、ツカサは初めに――――――………。